武蔵国の豊島氏は、室町時代初期には山内上杉氏の麾下として石神井川流域にかなり広大な所領を領有する国人領主であったが、豊島泰経の代に至って山内上杉顕定から離反した。この頃は扇谷上杉氏の家宰として江戸城主・太田道灌の勢力伸張が顕著になっており、泰経の所領と道灌の所領が境を接する状態となり、しだいに圧迫されていったためとみられる。そこで泰経は姻族でもあり、上杉顕定に叛旗を翻した長尾景春に加担して道灌に対抗することとなったのである。
文明9年(1477)4月13日、道灌が突如として豊島氏の支城の一つである平塚城を攻めるため、江戸城を出発した。この豊島氏への攻撃は景春の勢力を削ぐためのものと思われる。道灌の軍勢は雑司ヶ谷から巣鴨に向かい、ここで豊島勢と戦った。それを蹴散らした道灌はその勢いで平塚城を囲んだ。
当時、平塚城は泰経(勘解由左衛門尉)の弟・泰明(平右衛門尉)が守っており、泰明からの連絡で、石神井城にいた泰経は、道灌不在の江戸城を奪い取ろうと考え、平塚城の救援には向かわずに江戸城を衝くべく出兵したのである。
この泰経隊の動きをいち早く知った道灌は、城外に火を放っただけで平塚城の攻撃を中止すると軍勢を転じ、江戸城に向かった泰経隊を迎え撃つ態勢に切り替えた。つまり、泰経隊は誘き出される格好になってしまったのである。
翌14日、両軍は江古田原・沼袋原と呼ばれる妙正寺川と神田川の合流点付近でぶつかることになった。泰経の主力と道灌の主力が真正面からぶつかり合い、野戦を得意とする道灌軍が押しきった。このときの泰経方の犠牲者は、平塚城から救援に来た豊島泰明、および板橋氏や赤塚氏といった一族の武将150人ほどだったという。戦死者の数が少ないのは、この頃の戦いがのちの戦国最盛期に比べて、まだ小規模だったからだと思われる。
この合戦に敗れた泰経は、兵をまとめて本拠である石神井城に撤退した。それを追う道灌勢は石神井城を包囲したため、石神井城を舞台にした激しい攻防戦が繰り広げられることとなった。しかし石神井城には後詰もなく、落城は時間の問題である。そして4月18日に至り、泰経は道灌に降参を申し出た。しかし開城の条件で折り合いがつかなかったために28日、道灌が石神井城を力攻めにして陥落させたのである。
このときの戦闘で泰経は娘・照姫と共に三宝寺池に入水して死んだとも伝わるが、実際のところは城から落ち延びており、のちに平塚城や小机城で蜂起している。
現在、三宝寺池の北岸の林の中に殿塚・姫塚があるというが、この泰経と照姫を葬ったものだといわれている。