元亀2年(1571)11月、常陸国の小田氏治が武田信玄と結んだ佐竹義重に攻められ、上杉謙信に援軍を要請すると、謙信はこれに応えるかのように上野国まで出陣してきた。
越後国の上杉謙信は永禄3年(1560)以来、関東地方に勢力を伸ばす北条氏の圧迫を受けた諸領主の要請に応えて越山(関東地方への出兵)を繰り返しており、かつては佐竹氏も上杉氏の友軍で、北条氏とは敵対していた。しかし永禄12年(1569)6月に上杉氏と北条氏が武田氏を共通の敵として越相同盟を結ぶと、佐竹氏は北条氏と相容れられないとして、上杉氏との提携関係も解消へと向かったのである。
しかし元亀2年12月末に至り、10月の父・氏康の死没を受けて名実ともに当主の地位に就いた北条氏政が、武田氏との同盟(甲相同盟)を復活させた。一方の謙信は上野国の厩橋城で越年しており、それを知ったのは年が明けてからのようである。
甲相同盟が復活したということは越相同盟の破綻を意味するが、それは佐竹氏と上杉氏が反目する理由も霧散したことになる。もっとも、越山してきた謙信も本気で佐竹氏への圧迫を企図していた様子がなく、小田氏からは更なる出兵を求められているが、あくまでも謙信は上野国に駐留して武田方による所領の蚕食を抑制することに主眼を置いていたようである。しかし武田信玄にとっても北条氏政からの圧力を受けずに済むことになったたため軍事行動が容易になり、それは逆に謙信の関東計略をさらに鈍らせることを意味した。
上杉勢は元亀3年(1572)閏1月3日に武田方となっていた上野国の石倉城を陥落させると、3日後には厩橋城へと帰陣している。しかしその後に武田勢が上野国西部に侵出してきたため、利根川を挟んで対陣した。一方、2月中旬頃になると北条勢も上野国倉賀野付近に出陣してきたが、これは上田衆を呼び寄せて備えを固める対応をしている。
そして大きな戦いもないまま、4月頃には帰国したようである。