駿河国・遠江国を領有する今川氏では、大永6年(1526)に当主の氏親が没したのちは嫡男の氏輝が当主となっていた。が、その氏輝も天文5年(1536)3月17日に24歳の若さで没してしまう。しかも氏輝だけではなく、すぐ下の彦五郎という弟も同じ日に死んでいるのである。
そこで問題となってくるのが家督相続だが、早世した氏輝には子供がなかったため、残された弟の誰かが相続することとなったのである。
氏輝の弟には駿河国志太郡花倉の遍照光寺の住持となっていた玄広恵探(別称を良真・東栄大徳)と、同じく駿河国富士郡瀬古の善徳寺の喝食となっていた栴岳承芳がおり、年齢的には恵探の方が上だったが、氏親の側室(福島氏)から生まれており、承芳の方は氏輝と同じく氏親の正室・寿桂尼(中御門宣胤の娘)を母としていた。また氏豊という弟もいたが、養子に出ていたため問題外であった。
恵探は外戚である今川氏の重臣・福島正成を後ろ盾に家督相続の名乗りを上げたが、今川家中においては寿桂尼の発言力がことのほか強く、さらには承芳の養育係となっていた太原雪斎(崇孚)が持ち前の政治力を発揮したことなどもあって、寿桂尼・雪斎の推す承芳が後継者となる公算が濃くなっていた。しかも、縁戚関係にあった相模国の北条氏の支援を取り付けることにも成功した。
が、これに不満を抱いた恵探は福島氏の援助を得て、花倉城に拠った。花倉城は今川氏2代・範氏の頃、一時的にではあるが本拠としていた堅城であった。
承芳方は5月24日より花倉城を包囲、戦いは6月10日に始められ、承芳方は重臣の岡部親綱に命じて、恵探方の軍勢が籠もる方ノ上城を攻めさせた。親綱の猛攻を支えきれなくなった方ノ上城の城兵が花倉城を目指して敗走を始めると承芳方はこれを追撃、そのまま包囲した。
大勢では反乱軍と目されていた恵探には有力武将がつかず、味方といえば外戚の福島氏のみ、という劣勢だったため、ついには花倉城を支え続けることもできなくなってしまった。
恵探は城から逃れ、山越えをして瀬戸谷に逃げたが追撃にあい、普門寺に入って自刃した。6月14日のことという。
この、勝ち残った承芳こそがのちの今川義元である。