日宮(ひのみや)城の戦い

元亀3年(1572)5月、加賀国の一向一揆勢が越中国に向けて進撃を始めた。この一揆軍は、越中国にも版図を広げていた上杉謙信と敵対する武田信玄からの要請を受けた本願寺の指令によって催された軍勢であった。
越中国での上杉方であった射水郡日宮城将の神保覚広・小島職鎮らは、この一揆軍が砺波郡の河上・五位庄方面に侵入してきたことを探知し、5月23日に新庄城の鰺坂長実に宛てて援軍を要請する書状を送った。この日宮城は北陸街道に臨み、守山・増山・富山といった越中国中央部の主要城を結ぶ要衝である。
これを受けた鰺坂は、翌24日にその旨を越後国春日山城の謙信に向けて書状を認めた。しかしこの伝達において、神保・小島らが「早速、御支援が遅れないようにお願いしたい。越後にも伝えていただきたい」と書き送っていることに対し、鰺坂は「小部隊が時々出てくる程度だが、一揆勢が大軍で渡河してきたならば後詰の兵を送っていただきたい」と伝えており、切迫感の食い違いが生じている。または鰺坂は新庄城はまだ大丈夫だ、と伝えたかったのかもしれない。
その後、鰺坂は魚津城の河田長親と協議し、日宮城後詰のために山本寺定長らの軍勢と合流して日宮城から10キロほど東に位置する婦負郡の五福山(呉服山・呉羽山)に布陣した。
一方の謙信は6月15日に、加賀・越中の一向一揆が退散すること、越中・信濃・関東・越後の分国が平穏であることなどを祈願して願文を捧げている。この年の春より北条氏政が信玄と提携して上野国を窺っていたため、急な出陣に備えるためにも越中国への出陣は控えたかったのが実情であろう。
しかしこの頃、越中国では鰺坂・山本寺らの軍勢が、多勢を誇る一向一揆勢と神通川の渡し場で戦って撃退され、新庄への退却を余儀なくされていたのである。
これにより救援を望めなくなった日宮城の城将らは、奇しくも謙信が願文を捧げた6月15日に一向一揆勢と和議を結んで開城し、能登国との国境に近い石動へと落ち延びていったのであった。