掛川(かけがわ)城の戦い

駿河国に侵攻した甲斐国の武田信玄に攻められ、薩捶峠・今川館と敗戦を喫した今川氏当主・今川氏真は、重臣・朝比奈泰朝の守る遠江国掛川(懸川)城へと落ち延びた(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。ところが、今度は信玄と時を同じくして遠江国に侵攻していた三河国の徳川家康によって掛川城を攻められることになったのである。
家康は三河と遠江の国境付近に位置する遠江国引佐郡の菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時を取り込み、彼らを案内役として永禄11年(1568)12月より遠江国に侵攻を開始していた。その行軍において井伊谷・刑部・白須賀などの城や砦を陥れつつ進み、18日には西遠江の要衝に位置する引馬城を開城させている。
硬軟併せた徳川勢の進軍により、それまで今川氏に従っていた遠江国の土豪や武将たちにも徳川氏に鞍替えする者も少なくなく、遠江国経略の要ともいうべき馬伏塚城と高天神城に拠る小笠原氏興・氏助(信興)父子らは戦わずして徳川氏に降っている。これは今川義元の死後にあとを継いだ氏真の凡庸さを見限った動きともいえる。

徳川勢が掛川城の包囲を始めたのが12月27日のことであった。その翌日には兵を出して城下に火を放ってはすぐに見付まで退くなど、はじめのうちは大きな動きもなかったが、年が明けて永禄12年(1569)の1月中旬には本格的な包囲態勢が構築され、同月下旬より城下で激しい戦闘が展開されている。3月5日には家康自身が出馬して大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めたが城を落とすには至らず、7日にも城下の西宿と天王山下で激しい攻防戦が繰り広げられた。
しかし掛川城は堅城であるうえに朝比奈泰朝がよく守り、今川氏の同盟勢力である相模国北条氏からも海路を経て援軍が送られていたため、戦いは長期戦の様相となった。
家康はこの間も今川家臣の調略を試みてはいるが、攻略の兆しは見えず、武田軍の動向も気になるところであった。信玄と家康は大井川を境として東の駿河を武田軍が、西の遠江を徳川軍が手柄次第に領有するとの約束をしていたとされているが、信玄は信濃国の伊那郡より秋山信友を大将とする別働隊を派遣していた時期があり、この軍勢が遠江国をうかがう動きを見せたため、不信感を抱いていたのである。
これ以上戦いを長引かせるのは無益と判断した家康は、今川氏との和睦を協議することにした。『松平記』『北条記』によれば家康から和睦の申し入れがあったのは3月8日からのことで、家康は、かつては自分も今川氏に取り立てられた身であり、自分が遠江を取らなければ必ず信玄が取ることになるであろうから、それよりは家康に下されて和談とすれば、北条氏と申し合わせて信玄を逐い駿府を氏真に返そう、と説いたという。この協議には北条氏も参画し、4月末頃までにはほぼ合意に達していたようであり、5月15日(一説には17日)に開城という運びとなった。
ここに、かつては駿河・遠江・三河を領した守護大名・今川氏は滅亡したのである。
領国を失った氏真は妻の実家である北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと向かった。