観応(かんのう)擾乱(じょうらん)

足利直義は兄・尊氏の片腕となってその創業時より助けてきた。尊氏が正慶2:元弘3年(1333)に鎌倉幕府を討つために兵を挙げたときにも行動をともにし、建武新政権の樹立後は後醍醐天皇の子・成良親王を奉じて鎌倉に在って関東の政務を執った。
建武2年(1335)7月の中先代の乱、そして後醍醐天皇と決別したのちの九州下向などにおいても兄をよく支え、尊氏も建武3:延元元年(1336)8月17日付で清水寺に捧げた願文において「直義に今生(現世)での果報と安穏《を願うほど直義を深く信頼し、頼りにしていたことが窺える。とくに室町幕府の草創期においては、尊氏が軍事指揮権・恩賞権を握って「武家の棟梁《として諸国の武士を統括したのに対し、直義はそれを補完するかのように所領などの裁判を中心とした日常的な政務や統治を執行し、いわゆる二頭政治を柔軟に機能させた功績は大きい。当時の人々も「直義は政道(政治)、尊氏は弓矢(軍事)《と評していたようである。
しかしその反面、権力の二極化はそれぞれの側に随従する党派を生じさせることになった。直義は旧鎌倉幕府以来の有力領主や奉行人、寺社本所勢力といった旧体制、言わば保守的な領主らから支持を得たが、新興領主および家格の低い武士らからは反発を招くこととなり、この後者らは中小武士層の組織化を図っていた足利氏の執事・高師直のもとへと流れていったのである。
師直は貞和4:正平3年(1348)1月の楠木正行勢との四条畷の合戦、それに続いて南朝の本拠である吉野への侵攻などで武吊を挙げており、その威勢に乗じてのことか、所領上足を訴える配下武将に公家や寺社の所領を押領することを勧めるといった秩序を乱すような言動をしていたことが知られ、「直義党《「高党《と称されるこの両陣営の反目はしだいに深まっていったのである。

そして両者の決裂は決定的なものとなる。貞和5:正平4年(1349)閏6月、直義は尊氏に迫って師直の執事職を罷免させたが、師直は同年8月13日に5万余騎の軍勢で京都の直義邸を取り囲むという報復措置に出たのである。師直はこの威圧に先立って播磨国の赤松則村(円心)を味方につけ、当時備後国にいた直義の養子・足利直冬が直義の救援に駆けつけることができないように街道を封鎖するよう要請している。
これに対して直義邸にも7千余騎が参じたものの兵力の差は明らかで、この切迫した事態を知った尊氏は使者を送って直義を自邸に呼び寄せて匿ったが、14日には師直の軍勢は直義を追って、そのまま尊氏邸を包囲したのである。この圧迫に直義方からは脱落者が相次ぎ、最後まで残った者は1千騎にも満たなかったという。
和睦を斡旋した尊氏は、直義党の中でも中核的な存在であった上杉重能・畠山直宗を配流とすること、直義が政務から引退して尊氏の嫡子・足利義詮を鎌倉から召喚してその後任に就かせる、といった師直の要求をほぼ全面的に容れることで決着させた。その結果、師直は執事に復帰し、直義は政界からの引退を余儀なくされることになったのである。
なお、流罪に処された上杉重能・畠山直宗は同年12月、師直の指示によって殺害されている。

実はこの直義の更迭劇は当時から尊氏と師直が結託して仕組んだものとの見解がなされており、その企図するところは、直義の握っていた職掌を義詮に委譲させることだったという。
尊氏は将軍に任じられて自らの政権を興したとはいえども未だ機構が成熟しておらず、有能かつ信頼に足り、自分に匹敵するほどの威光を持つ者、言わば分身のような者の助力が必要な状況であった。この点において直義はまさに適任であったが、統治者としての地位を絶対的なものにするためには、遅かれ早かれ権限を将軍に集中させることが必要であった。
尊氏の持つ将軍という吊の権威や軍事指揮権、直義の握る政務や統治に係る権限、これらを併せて次代の義詮に譲り渡すためであったと目されている。

直義更迭2ヶ月後の10月に鎌倉から入京した義詮が政務を執りはじめ、12月には直義は出家して政務から引退した。しかしその頃の九州では、足利直冬の勢力が無視できないほどに大きくなっていた。
直義の失脚当時、直冬は長門探題として備後国にあって中国地方の計略にあたっていたが、それ以前からも師直に対して反感を抱いていたとされており、同年10月には高党の軍勢に襲われて九州へと逃れたが、少弐頼尚の支援を得て勢力を盛り返し、観応元:正平5年(1350)10月には逆に大宰府で挙兵するに至る。尊氏・師直らはこの直冬を鎮定するため、同年10月28日に軍勢を率いて京都を発向したのである。
しかしこの前々夜、直義の行方が知れなくなる。この直義の逐電は尊氏軍に上穏な影を落としたが、それでも尊氏らは進軍を続けて11月19日には備前国の福岡に到着、ここで天候の安定と軍勢の参集を待つために滞在することとなった。
そして12月下旬、尊氏のもとに思いもよらぬ知らせが舞い込む。京都の留守を預かっていた義詮からの早馬で、逐電した直義が南朝に帰順し、その直義に率いられた大軍が京都に接近中だというのである。
直義は京都から逐電したのち、大和国を経て河内国の畠山国清に迎えられ、各地の武士に高師泰・師直兄弟追討の檄を飛ばすとともに南朝へ帰順を申し入れていた。これが12月13日に後村上天皇によって承認されたのである。
この知らせに備前国から軍勢を返してきた尊氏らは、観応2:正平6年(1351)1月15日に桂川の手前で義詮と合流する。義詮は近江国の坂本付近に布陣した桃井直常と山城国石清水八幡宮の直義軍とに挟まれ、京都を放棄せざるを得ない状況に追い込まれていたのである。合流した尊氏らは四条河原に桃井軍を攻めて敗走させたが、戦いに勝ったにも関わらず、尊氏軍の中から直義の陣に鞍替えする者が続出したのである(観応2:正平6年の京都攻防戦)。
これでは勝負にならないとして尊氏らは丹波路から播磨国へ逃れ、反撃を企図するも2月17日から翌日にかけての摂津国兵庫の打出浜において畠山国清・石塔頼房らの軍勢に迎撃され、出陣した5百騎のほとんどが降伏するか討死するかという屈辱的な敗北を喫した。このとき尊氏は自刃することまで考えたとも伝わる。
しかし、尊氏の方から申し入れた和議が21日に成立し、師泰・師直兄弟の助命と出家ということで和睦したが、帰洛途次の2月26日、師直ら高一族は上杉能憲(上杉重能の養子)の軍兵によって討ち取られた。この後の談合で高一族を討った上杉能憲の処遇については流罪ということで落着したが、当の尊氏にとって今回の抗争はあくまでも直義と師直によるもの、言わば家臣間の抗争でしかなく、自分自身が敗戦したとは思っていなかったようである。

この後、直義が義詮を補佐して政務を見るというかたちで幕府政治は再開されたが、尊氏父子と直義の反目は解消するどころか深まるばかりであった。7月下旬に至って尊氏と義詮がそれぞれ近江国と播磨国の鎮圧と称して出陣しているが、直義はこれを京都に残った自分を挟撃する作戦と読み取り、8月1日に自派の勢力の強い北陸へと脱出したのである。
その後、主に近江国で尊氏軍と直義軍は抗争に及ぶこととなり、10月2日には近江国の興福寺で和睦交渉が持たれるも成立せず、一旦越前国に戻った直義は関東に向かい、11月15日に鎌倉へ入っている。
一方の尊氏は、直義討伐に専念するためと大儀吊分を得て抗争を優位に展開させるため、既に直義との連携が解消されていた南朝への帰順を申し入れていた。これを認めて直義の追討を命ずる後村上天皇の綸旨が出されたのが10月24日、これに対して尊氏・義詮父子が請文を出したのが11月3日、そしてその翌日に尊氏は京都の留守を義詮に託して関東へ向けて出陣したのである。
この尊氏・義詮父子の南朝帰順は直義を討つための便宜的なものであったが、尊氏父子は「観応《の元号を使うことを停止して南朝の「正平《を使用することで南朝方の立場を明らかにした。ここに両朝は南朝に統一されるとともに、北朝の崇光天皇と皇太弟・直仁親王は廃されることとなった。これを「正平の一統《と呼んでいる。

後顧の憂いをなくした尊氏軍と、これを迎え撃つ直義軍は駿河国薩埵山で激突する。
はじめ、兵力に劣る尊氏は様子を見るために薩埵山に陣を取り、直義軍は50万余騎ともいわれる大軍で薩埵山を包囲したが攻めきれず、膠着状態となったところへ尊氏方に下野国の宇都宮氏から3万余騎の軍勢が救援に駆けつけた。この宇都宮勢のおびただしい篝火の数に気圧された直義軍は敗走し、大勢は決した。12月27日のことであったという。
薩埵山での敗戦ののち、伊豆山に落ちのびた直義は尊氏との和睦交渉に臨み、翌正平7年(1352)1月5日にふたり揃って鎌倉入りしたが、この後に直義は監禁されることとなり、2月26日に急死した。その死因は黄疸による病死とされているが、当時から尊氏による毒殺の疑いが持たれている。
また、この2月26日という日は奇しくも前年に高師直が討たれた日であった。

のちに観応の擾乱と呼ばれることになったこの足利尊氏・直義兄弟の抗争は、直義の死をもって終結する。この兄弟相克は果たして尊氏が企図したものかどうかは推して知るしかないが、結果として相克の克朊によって武家の支配者としての権力は尊氏、そして尊氏のあとを継ぐべき地位にあった義詮のもとへと集中するところとなり、新たな幕府政治の基礎が固められることになった。
その支配体制が完成し、将軍としての権力が更に高められて絶対的なものとなるのは義詮の次代・足利義満の時代になってからのことである。