万力(まんりき)の合戦

永正12年(1515)、甲斐国巨摩郡上野城主の大井信達が駿河・遠江守護の今川氏親と結び、甲斐守護の武田信虎に反旗を翻した。これを受けて信虎は同年10月17日に上野城を攻めたが、一方的な大敗を喫した(上野城の戦い)。
このとき今川氏も信達を支援するため軍勢を送り込んでおり、今川勢は甲斐・駿河の国境を封鎖したうえで曽根の勝山城に拠り、甲斐国に楔を打ち込んだのである。

今川勢による国境封鎖は、年が明けて永正13年(1516)になっても続けられていた。このため甲斐国内では、物資が不足したことに加えて撰銭も行われたこともあって、相場は高値で推移し、領民は困窮した。
しかし、この事態に信虎が対処した形跡は見受けられない。むしろ、動いたのは今川勢であったようである。
9月28日、勝山城に駐留していた今川勢が七覚山円楽寺、松本の大蔵経寺、八幡の普賢寺などに火をかけながら笛吹川沿いにさかのぼり、山梨郡の万力で武田信虎率いる軍勢と合戦となったのである。
この合戦の推移は不詳であるが武田軍が敗れ、信虎は恵林寺に逃げ込んだことが知られている。そして、居地の川田館への帰還できたのは翌月になってからのことという。