長窪(ながくぼ)城の戦い

天文11年(1542)7月に信濃国諏訪郡の領主である諏訪頼重を滅ぼし(桑原城の戦い)、同年9月には諏訪一族でもある高遠頼継の反抗を退けて(宮川の合戦)信濃国佐久郡を掌握した甲斐国の武田信玄は、次の標的を小県郡の長窪城に据えた。
この長窪城は天文9年(1540)に武田氏の支配下に入り、同年の佐久郡侵攻後に諏訪頼重に与えられたが、諏訪氏の滅亡後に大井貞隆に奪われていたのである。
天文12年(1543)9月9日、信玄はこれを討伐するために約5千の軍勢を率いて甲府を進発し、翌日には若神子、12日には海ノ口より信濃国佐久郡に侵入。17日に長窪に到着すると早速に城攻めが開始され、19日には長窪城を攻略した。
武田軍の素早い攻撃に対処できなかった大井軍はあっけなく破れ、貞隆は捕えられて甲府に護送された。
通説ではこの後に貞隆は処刑されたと伝わるが、天文16年(1547)に信玄は大井貞隆・貞清父子に対して出仕を命じたともされる。
この後、武田軍は望月一族の拠る佐久郡の望月城を攻めて落とし、10月1日には甲府に帰陣した。