野田(のだ)城の戦い

元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の合戦徳川家康を破った武田信玄は、浜松城を攻めずにそのまま三河へと向かった。三河国の野田城が徳川方に奪われていたため、その奪還をはかったのである。
信玄が野田城を囲んだのは翌年(1573)の1月11日からで、城将・菅沼定盈率いる4百余人の徳川勢はあっさりと降伏するものと思われたが、周辺は低湿地帯に囲まれているために武田勢は機動性が発揮できず、そのうえ城兵の守備は堅く、多数の鉄砲を使って激しい抵抗を見せたため、容易に落ちる気配はなかった。
そこで信玄は金掘り人夫を呼び寄せ、城壁や地下に穴を掘って井戸水を抜いてしまったのである。家康も5千余の兵を率いて救援に駆けつけたが、武田勢の大軍に阻まれて近づけずにいた。
水の手を切られ、援軍も期待できないとなって、ついに定盈は自分の切腹を条件に城兵の助命を要求、開城に至った。開城は2月10日のことである。
しかし信玄は定盈を生かし、この定盈の武勇と胆力を見込んで士官を勧めたが、定盈はこれを受けなかったため、やむなく徳川方の人質となっていた者との人質交換に使ったという。

結果として、この野田城攻めは信玄にとって最後の戦いとなった。病が重くなり、これ以上出陣を続けることが困難になり、帰途についたのである。そしてこの年の4月12日、信濃国伊那の駒場で病没したのであった。
なおこの城攻めにおいて、信玄が城中の笛の名手・村松芳休の笛の音に聞き惚れ、城壁近くまで出てきたところを鳥居三左衛門に狙撃され、これが元で死に至ったという伝説も伝わっている。