遠江国への侵攻を企てた甲斐国の武田勝頼は、徳川家康方の要衝・高天神城を天正2年(1574)6月に降した(高天神城の戦い)。その後に勝頼の命によって駿河国方面からの兵站基地として遠江国榛原郡に築城あるいは整備されたのが諏訪原城である。
高天神城攻略に成功した勝頼は、家康に更なる圧迫を加えるべく翌天正3年(1575)4月より三河国長篠城を攻めるが、後詰に来援した織田・徳川連合軍によって壊滅的な大打撃を被って大敗を喫した(長篠の合戦)。
この戦勝を反撃の機と見た家康は攻勢に転じ、同年6月下旬頃には武田方の光明城を攻め落とし(光明城の戦い)、二俣城を包囲して機能を奪うことで信濃国からの進撃路を扼し(二俣城の戦い:その2)、当時の本拠地としていた遠江国浜松城への圧迫を解放することに成功すると、休む間もなく軍勢を東に向けて遠江・駿河国境に近い諏訪原城攻めに臨んだのである。
諏訪原城での戦いは7月になって始まったようで、徳川勢は桜井松平忠正が諏訪原城の出丸である亀甲曲輪を攻めて落とし、ついで大給松平真乗が菊川方面から猛攻を加えているが、諏訪原城守将の海野・遠山氏らもよく守って容易に陥落は許さず、攻防戦はおよそ1ヶ月に及んだ。この間の8月初旬、勝頼は諏訪原城を後詰するために陣触れを行っているが、長篠での敗戦による痛手のために軍勢を集めることができず、8月下旬になっても出陣することができなかったという。
8月23日には家康自身が出陣して本陣を日坂久延寺に移し、総攻撃を敢行した。後詰のない諏訪原城兵はこれを支えることができず、翌24日に開城して小山城へと退去したのである。
この後、諏訪原城には守将として松平康親・松井忠次らが入れ置かれ、城の名も牧野原城(または牧野城)と改められた。
ところでこの諏訪原城攻めにおける徳川陣中に、かつて駿河・遠江・三河国の守護で、武田信玄や家康によって没落させられた今川氏真が同道していたことが知られており、氏真の記録した『今川氏真詠草』には詠んだ歌とともに「7月中旬より諏訪原取出対陣」、「8月24日諏訪原新城降参」と記されている。
没落したのちの氏真は北条氏を頼って相模国の小田原に住んでいたが、元亀2年(1571)末に北条氏が武田氏との同盟を復活させると小田原にもいられなくなって家康の庇護を受けていたが、家康はこの氏真を擁することで今川旧臣や反武田勢力の糾合を図ったようであり、のちには氏真を名目上ではあるが牧野原(諏訪原)城主に据えたようである。