越中国砺波郡井波の瑞泉寺は明徳元年(1390)に浄土真宗本願寺第5世法主・綽如(しゃくにょ)によって建立された古刹で、この地方で大きな力を持っていたが、文明7年(1475)に本願寺8世法主・蓮如が加賀守護の富樫政親によって越前国吉崎から逐われて以来、北陸地方における一向一揆の一大拠点となっていた。
この一向一揆勢力の増大に不安を感じていた砺波郡福光城主・石黒光義は富樫氏の勧めもあり、瑞泉寺の討滅を企てたのである。
石黒光義は天台宗医王山惣海寺の衆徒の支援を取り付けて出陣の準備を進めたが、瑞泉寺側もこれを察知して一揆一揆を動員、両勢は文明13年(1481)2月18日に山田川の田屋河原で激突した。このときの勢力は惣海寺衆徒を加えた石黒方が1千6百、23人の坊官に率いられた瑞泉寺方が5千人ほどだったとされる。
この両勢の本軍同士は田屋河原で戦っていたが、この間に加賀国湯涌谷の一向宗門徒2千余人が二手に分かれて出撃し、それぞれが手薄になっていた石黒氏の福光城と惣海寺を襲撃して焼き討ち、その戦火が田屋河原で戦う両軍に見えると瑞泉寺方の意気はさらに上がり、逆に石黒方はたちまちのうちに動揺が広がって浮き足立ち、総崩れとなって大敗を喫した。
合戦にも敗れ、居城を失った石黒光義主従36人は、安居寺に入って自害した。
この合戦以後、砺波郡は山田川を境として東は瑞泉寺、西は安養寺が分割して治めることになったという。