討幕を企図した後醍醐天皇の同志が、幕府によって鎮定された事変。
後醍醐天皇は腹心の日野資朝・日野俊基らを中心として「無礼講」と称する会合や種々の読書会などを装って討幕の策を練り、その機会を窺っていた。そして元亨4年(=正中元年:1324)9月23日に行われる北野の祭りの警備に武士が動員される間隙を衝いて、鎌倉幕府の出先機関で朝廷の監視役でもある六波羅探題を襲撃するという計画が立てられたのである。
しかし、これは事前に六波羅探題の探知するところとなる。
この六波羅探題襲撃に先立ち、その実働部隊として美濃国の土岐頼兼・多治見国長が召し寄せられていたが、土岐一族の土岐頼員からその妻を経て情報が漏れたのである。頼員の妻は六波羅探題の奉行人・斎藤俊行の娘であったという。
六波羅探題は9月19日の早朝に土岐・多治見の邸宅を急襲して両名を討ち取り、討幕軍を鎮圧。これを知った後醍醐天皇は23日に万里小路宣房を鎌倉に派遣して弁明に努め、幕府もこれを容れて日野俊基を赦免、日野資朝のみを佐渡へ配流するという軽い処置で済ませた。