武士から政権を取りもどそうとした天皇

 後鳥羽天皇  (ごとばてんのう)

※ 後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう)ともいう
  
● 活やくした時代   1180年〜1239年
                鎌倉時代(かまくらじだい)

● 活やくしたこと

  1180年 高倉天皇(たかくらてんのう)の第4皇子として生まれる。
         名は尊成(たかひら)という。

  1183年 平氏が安徳天皇(あんとくてんのう)を擁して京都から去ったため、
         急きょ、尊成親王(たかひらしんのう)が即位し、後鳥羽天皇(ごとばてんのう)となる。
             ↓
         後鳥羽天皇は幼かったため、後白河法皇が院政(いんせい)で政治を行う。

  1192年 祖父の後白河法皇が亡くなる。

  1198年 第1皇子の為仁親王(ためひとしんのう)が土御門天皇(つちみかどてんのう)
         になる。
         後鳥羽天皇が後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)となり、院政(いんせい)を始める。
       
          後鳥羽上皇は、けまり、囲碁(いご)、やぶさめ、和歌などに
         相当な腕前(うでまえ)を持っていた。また、武芸(ぶげい)にも
         すぐれ、盗賊(とうぞく)を捕らえるために自ら指揮をしたとも
         言われている。

       

  
1201年 後鳥羽上皇が「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)」にのせる和歌を選ぶた
         めに、和歌所(わかどころ)を再興(さいこう)する。


  1202年 後鳥羽上皇が思いのままの院政を行い、鎌倉幕府の打倒(だとう)に燃える。

  1210年 後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒(だとう)に消極的な土御門天皇を退位(たいい)させる。
         新たに、後鳥羽上皇が第3皇子の守成親王(もりなりしんのう)を順徳天皇
         (じゅんとくてんのう)にする。

  1219年 鎌倉幕府の3代将軍の源実朝が暗殺される。
             ↓
         源氏が絶え、鎌倉幕府がうろたえているのをチャンスと見て、後鳥羽上皇が
         鎌倉幕府を打倒(だとう)する計画を進める。

  1221年 後鳥羽上皇が「鎌倉幕府の執権(しっけん)の北条義時(ほうようよしとき)を討て」
         という命令を出す。
             ↓
        
承久の乱(じょうきゅうのらん)がおこる。
       
         
 【承久の乱(じょうきゅうのらん)】
             朝廷が鎌倉幕府から政権をとりもどそうとした戦争
               [ 朝 廷 ]    対    [ 鎌倉幕府 ]
               後鳥羽上皇         執権 北条義時
                                    北条政子
                                     ↓
                               鎌倉幕府軍が勝利する
       
                           ↓
        逆に鎌倉幕府の大軍に京都に攻めこまれ、後鳥羽上皇の軍が大敗する。
             ↓
        鎌倉幕府によって後鳥羽上皇が隠岐島(おきのしま 島根県)に流される。

  1239年 死去(60才) 


● 人 物 評

 後鳥羽天皇は祖父の後白河上皇(ごしらかわじょうこう)にあこがれ、院を中心とした院政(いんせい)で日本をおさめたいと考えたのであろう。そのためには、当時、政権をにぎっていた鎌倉幕府がじゃまであり、そのじゃま者の鎌倉幕府を討ち、政権を朝廷にとりもどしたいと考えたのだ。
だが、そのような行動は時代への逆行(ぎゃっこう)でしかなかった。院政(いんせい)に与えられた役目は藤原氏による貴族政治を終わらせることであり、藤原氏の貴族政治が終わった時、院政(いんせい)はその役目を終えていたのである。世はすでに武士中心の世の中に移っていた。後鳥羽天皇は運悪く、時代の流れに乗り切れなかったといえるだろう。 


歴史人物いちらんへもどる