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2005年11月はじめより、ラオスに来ています。ここでは、山の村での日々を中心として、日々のできごと、思いを、ありのままに書いていきたいと思っています。
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2006年4月
 4月。村の人たちも、忙しく畑へと向かう日々。すでに、トウモロコシの種は蒔かれ、陸稲の種まきも間近でしょう。水田の準備もそろそろはじまっています。
 爺さんの家の庭も、つい最近まで、乾季の終わりのためか、枯れ果ててキャベツしかなかったのに、今は豆や野菜、トウモロコシなどが次々と芽を出し、日々勢いよく元気に大きくなっています。
 
 色が変わっている日にちが読めます
活動日誌

『2月下旬から4月上旬までの建設プロジェクトの経過 
               
               
2006411日 鈴木晋作

 コンピューターの不具合等もあり、以前の更新から長く空けてしまいましたが、
2月下旬以降これまでの経過をダイジェストで振り返ります。

1月末の基礎工事終了以後から、基礎は遺跡のように現場にそのままの状態となり、材木と石の材料手配等を挟んで、2月下旬から3月上旬にオンドル工事と家具工事を本体木工事に先g行して工事を進めました。小さな家であるけれども、材木を集めるのに、こんなに時間がかかるとは予想が付きませんでした。

 2月中旬より材木が揃いたかと思うと、材木の不良による交換、作業する人の不在で時間がかかることもあり、3月上旬に1週間その間一時帰国しました。3月中旬の木工事再開後は完成もしくは、屋根、床ができ、戸締りが出来るまで村に残る方針です。

411日現在は、柱梁の建て方が終わり、建物の全体が少しずつ見え始めています。

そのことで村の人の反応も(ようやく建て始めたか・・・)変わりこのプロジェクトも具体的な形をようやく村の人に見せることになりました。

この建物が出来るのを一番楽しみにしているのは、何より子供達で、この中の活動こそが重要なのだと言うことを自分も再認識している日々です。

○柱材のカンナがけ 2月22日〜 3日間(二人)

○「家」もないのに「家具」工事? 2月25日〜 4日間(二人)

2月の末にもなろうと言うのに、材木は完全には揃っていない。しかも構造材が届かない。

これでは、詳細も決められないし、先に揃えた柱材(乾燥材)の加工も出来ない。考えた結果、カンナがけだけして、それからは、先に家具工事をしようと言うことになった。工事関係の道具を仕舞う棚、絵本を置ける見せ棚一つ、子どもが絵を描いたりする低い机二つ、物が書ける椅子と机の一セット。この作業で木工事をするノーポーとジュアテンの二人との息の取り方もわかる。

道具・エンジンの機嫌を損ね、度々工事は停まる。
5メートルの厚板を30本カンナかけするのに3日もかかってしまった。


上.やっと現場が動き「プロジェクト」らしくなる

○オンドル工事 2月26日〜(5日間) 

屋根、床が出来てから行うべきだが、材料と人の都合を理由に、オンドル工事を先行させた。

熱い排気の通り道(煙道)は石積みで行い、オンドル石(煙道の蓋、床盤)は平たく薄い石を使う。煙道の一部を版築(板で型枠を作り、土をひたすら叩いて固める)で行った。雨に晒されなければ強く、熱にも耐えられるので(砂分が多い)彼らの言うようにやってみた。作業の中で彼らの方から具体的に提案が出てきたのは嬉しい。一日に幅35cm×高さ40cmの版築も数メートルしかできない。作業の効率は良くないし、また村の他の人に、何も言われるかわかったものではないけれど、喜んで行うべきものだ。


上.小学校に相談し、石は大きな子に崖から道まで運んでもらった。
   車で行ったので遠足気分だ。  2月17日



上.石の角をを切りそろえ、並べる。パズルのよう。  2月24日

モンの人たちは、オンドルを暖かくなる床と言うよりも、大きな竈と考えているところが面白い。だから、モンのやり方でやろうという発想が出てくるのだろう。


上.モンの版築で煙道を作る  2月28日

煙道の一列だけを、版築で作り、他は出来るだけセメントを少なくし、土で積んだ。あくまでも石積みの作業のため、セメント(体積比、一三分の一程度)も藁(熱で炭化してしまう)も初期強度を出す程度に用いた。


上.煙道の上に石を並べて確認  3月3日

用意を含めると、作業の7割方はできただろうか。

何と言っても「石を集める」のと、「全部形の違う石を床に並ぶように組み合わせる」ことが難しい。石は、我が家のサイガウ爺さんと二人で採取、学校の子どもたち40人弱で運搬した。オンドル石は、通り掛かりの人に「何をやってるの?」と言われながら、一日頭を抱えて自分でやった。当初は10平米強を考えたがその半分の広さとする事にした。平たい石も4割程度しか床には使えない。逆に言えば、余分な量があって初めてできる。それは、自然素材を扱うこと(平らに並べる)の難しさかもしれない。


上.オンドルの床全体、ここに土を厚く塗って最後に和紙を貼り油を塗って仕上げる。

○工事の段取りあれこれ 〜2月後半

「エンジン、発電機、その他を巡る奮闘」

作業の道具、方法に関しては、当初はできるだけ、村人が普段使っているような鋸、ノミを使い、最小限の設備を考えたが、エンジンと発電機に頼ることになる。

今となっては、村には機械(簡易製材、かんながけ)を使いこなして家を作る人、精米機や農作業用トラクターを所有している人もおり、何人分の仕事をするエンジンは身近な存在である。もちろん、牛、水牛の活躍には及ばない。

工事を少人数で作業すること、時間の節約の為である。その理由は、焼畑が始まり、同じ人がずっと作業に従事するのが難しくなっているからだ。

工事が始まっても、村の人は手ぶらで来るので(こちらの説明不足もある)、ほとんどはこちらで用意しないといけない。

これまで、気が付くことにいろんな道具を揃えた。

ネジ一本足りない為に、作業が滞ることもある。

そんな時は、「スズキィ、おうよぉ、困ったなぁ」と慰められる。

中国製の多くは、必ず何らかの修理を必要とした。

買ってそのまま使えることのほうが難しい。手工具の中には、全然使えないものもあり、ビエンチャンに戻った際に、返品交換した。製品(と言えるか?)の値段と品質を見極める目と、使いこなす腕が必要。

もちろん、その機械の癖を読み、成り立ちを理解しないと使いこなせない。

村の人は、そういうものと付き合って、電気(電流と電圧の関係や直列並列など)のことを理解しているというよりも、どうやったら「使える」「直せる」を知っている。

これまでずっと付き合ってくれたノーポー夫妻。旦那は、本当に動くのかなと思った、ボロボロのエンジンもなんとか動かし、使えるところまで直してしまった。

不安定で、馬力がでないことで結局は、こちらで新たに購入することになった。

これで、3日も時間が経ってしまった。その間、手配した材木の輸送を急かしに行く。

その後バイクで、県の中心までエンジンと発電機を購入しに行く。

街で一日走り回って、少ない選択肢と未熟なラオス語と中国語の理解力の中で中国製の赤いエンジンを購入。村の人の熱視線を受けることになる。

日本製は、保証済みだが、自分たちでは修理できない、長いこと壊れないが壊れたら、遠くまで持っていかないといけない。作りがシンプルな中国製(アタリ・ハズレがある)の方が村では、使いやすい。

《村の中で自力建設すること 〜野次馬は未来の味方?好「奇」心》

山間の小さな村なので、野次馬が多く、村を歩いても声がかかる。

「おうよー、鈴木の家は、4人で基礎を4日で作っていたナァ。わしの家は二人で2日じゃ」

「まだ家はできないのかぁ」

「木は、こんなに曲がっているなぁ」

「何で日本人が日本製を買わないんだ!」

そんな時は

「これはぼくの家じゃないよ。あんたたちのだよ」

「ぼくは、家には帰りたくないんだ」

「この木は、曲がっていた方が、強いんだ」

「この機械は、フランス製だからオイルの代わりに酒を入れるんだ」

と答える。あんまりまともに受け取っていると、だんだん耳が痛くなり、夢にも出てくる様になっていた。

子どもが木を割く円盤鋸をおもちゃのように回して遊んだり、機械を使っている手元に寄ってくる。作業をしている人も冗談言ってなんとかかわしているがきっと気になってしょうがないはずだ。日本人と仕事をしていると思うと,それを妬む人がいても不思議でない。


上.一人の作業に通りかかりの人が寄って集る

幸い我々は、ズボンの裾が破れていたり見窄らしいので、金持ちには見えないだろうし、小さなプロジェクトだと言うことは、みんな理解していて少しは安心だ。

木工事が始まって以来、中心の二人は、概して、丁寧に作業を行ってくれている。釘も使わずに、堅木のダボと楔でやるのは手間がかかる。きっと、それが影響して、今まで冷やかしてばかりだった人が「きれいだねぇ」「ゆっくり作ることは良いことだ」と言ってくれる。それはうれしい反応だ。建て方(基礎に柱と合成梁を設置)も6、7人が手伝ってくれた。

そういえば、それから村の人の反応が良くなった様だ。これからも、多くの人を巻き込みたい。

《本工事始まる》

3月18日から柱の加工を始める。ちょうど安井さんは、用事で不在。

始めは材料も足りずどうなることかと思ったが、4月始めには、建て方を行い、実際に建物の大きさ、存在を実感することになった。4月中には、なんとか工事の目途をつけたい。

○柱加工 4日間

乾燥した断面の大きな材を探すことが出来ず、既乾燥の15cm×5cmに製材された広葉樹の堅木を3本(実際は4045cmの長さの半端もの2本の柱材で抱く)併せた複合柱(見かけ断面15cm角)とした。柱のスパンは5尺(15m)と短くする。広葉樹の堅木とは言え、小さい材径なので十分な補強が必要だ。アイデア、基本設計は、こちらから提案しているが、実際の作業を村の家造りの得意な人にやってもらう。作ったことはなくても、「強い弱い」、「できるできない」はわかるのである。あらかじめ作り方は考えているが、材径は作りながら選んでまたは切って実物を作る。できて、初めて実感する建物である。


上.3本の併せ柱を12本作るのに、3日間。日毎に速度は上がる。

矩形の建物(柱が梁直行する)ではないので、墨つけが間違っていたら建物全体が歪んでしまう。切り間違いや設計変更のため、数本の柱と1日中にらめっこしているのは、村の人には不思議だったろうし、さぼっているようにしか見えないかもしれない。材木も届いていないのに、進めていく困難は、後でつじつまを合わせないと行けない。

○合成梁加工 5日間

柱の加工を終えた頃、梁の材料が届く。しかし割れや変形の問題から半数しか使えないことが分かり、設計変更をすることになる。これを逆手にとって、単純な合成梁(トラス)から短材をダボでつなぎ合わせた合成梁(アーチ系)を作る。釘は使わず、ボルトも出来るだけ少なく使う。今年は、茅が載るだけで構造としては明らかに過剰だが、上屋と来年度に載せる屋根材の考慮もしないといけない。

その他 

合間にカンナがけ、機械の修理、道具の手入れ、相談をする。

○併せ柱と合成梁の接続 日間

基礎の上に柱と梁を移動し、接続する。翌日の建て方に備える。

○建て方 3日間(2006411日進行中)

基礎の上に柱と合成梁を立ち上げ、柱と根貫、桁貫で構造を楔で固める(複雑な仕口、継ぎ手はない)。柱を叩いて、水を見る。


上.まずは真ん中の2本から建てる 4月8日


上.貫で固定  4月8日

柱に合成梁を固定し、登り梁を載せるまで釘を使わずに行っている。

そう言うところからも手のかかる仕事であることが伝わると思う。

それは中心的に作業を行っている二人にとっては、時間が長く感じられたようだ。

普段、止まる時間もなく仕事をしているモンの人にとっては、方針を決めるために座って話をしているのは時間の浪費である。一日に終わらせたい仕事量が必ず頭に入っている。


上.合成梁同士と登り梁を繋ぐ横架材  4月9日


上.道から見る「小さい」けど大きく感じる。  4月10日


上.向かいの家の子が掃除を手伝ってくれる  4月11日朝

垂直水平の精度が悪く、やり直しを相談しても、最後の判断は、彼らに投げている部分がある。あなた方の家だから任せるというと(無責任だが・・・)、すぐに一部解体し、やり直しを始める。ぼくの言っている事からいろんなことを想像して作業しながらお互いに確認していく。決して、技術指導でもなく監督と言うわけでもなく、共同作業である。 (続く)

4月5日(水)材木の交換                  (安井)
 3月末、注文していた全ての材木が届いたものの、中にはひびが入っている木、腐っている木もあった。本当はその場で突き返さなくてはいけなかったのだが、その時は一本一本ちゃんと見る余裕がなく、お金も払ってしまったし、今さら取り替えてくれるのだろうか?という不安もあったが、とにかく不良材を車に積んで、交渉しにいった。安井1人では木のことがわからないので、ジュアテンに付いて行ってもらう。
 材木の購入の仲立ちをしてくれているK氏の奥さんは口では、サバイディー(こんにちは)と言いつつ、目が怒っている。「また文句言いにきたか!いい加減にしろ」という顔である。「今さら、返すなんて受け取らないわよ」と言う。「ラオスの村ではね、伐った木は全部買わされるのよ。不良材だからって、返せないの!」と血相を変えて言う。私も負けずに血相を変えて言う。「私たちだって、悪い材木だって値切りもせずに全部お金払ったでしょう。返すとは言ってないよ。使える木と取り換えてくれって言っているの。」「ラオスの家だったら、この材木使えるわよ」「でも、これは外国のコンカーン(活動)だから、そうはいかないのよ。割れが入っていたり、曲がっていたら使えないの。私たちも責任を持たなくちゃいけないから」などと、K氏の奥さんとやり合っていたが、奥さんはだんだん和やかになってきて、「あんたと私は、話せば分かり合えるのにねぇ・・・いつか私も日本に連れていってもらおうかしら、ハッハッハ」などと言いはじめ、結局、「好きなの選んでいきなさい」と、もっとまっすぐな材木と取り換えてくれることになった。ダメもとで乗り込んでいったのだが、交換してもらえて、ほっとした。(やすい)

4月8日(土)やっと、棟上げ!            
 モンの人たちは、チャッジェー(棟上げ)の時は、朝から大勢の人々を頼む。私たちも、そうするつもりでいたが、前日の夕方まだ準備が整っていなかったので、朝からの棟上げはできないだろう・・と人々に声をかけるのはひかえた。それなのに、朝から、何人かが覗き半分に集まる。
 それに加えて、朝も暗いうちから、ニアノーポーが、「あとで食べなさい」と米は届けてくれるし、二人から「豆腐作ったから」と、手作り豆腐をもらった。とてもありがたい。棟上げの日のお昼ご飯は、こちらが準備するべきで、そうするつもりでいたのだが、結局、今日か明日か・・・はっきりわからなかったので、肉やら野菜やらを市場から仕入れてきていなかった。でも、結局、朝10時くらいの段階で、今日棟上げできそうだということになり、私はあわてて爺さんの娘のシェンに頼んで、豆腐づくしのお昼を準備してもらった。
 これから畑へ行くと通りがかった人にも声をかけると、「いいよ手伝うよ」と、10人ほどの男たちが集まってくれた。こんな重そうな合成梁が立ち上がるのだろうか?と思うが、モンの男たちが力を合わせて、エイヤァと梁が立ち上がる。まるで神社の鳥居みたいに見えた。その鳥居の向こうに、きれいな三角形の山が見え、なんだかまるで神社から聖山を拝んでいるような不思議な気がした。
 合成梁を真ん中に二つたて、柱を立て貫を入れ、家の形が見えてきた。それまで、土の上に横たわっていた柱や梁が、垂直に立っているのを見るのは、本当に嬉しかった。
 夕方暗くなった頃、ビールを買ってきて、中心となって作業をしてくれたノーポー、ジュアテン、ゾントゥアらと、晋作氏、安井で「カンパ〜イ」ではなく、モン式に「太郎くんの魂を呼んで」回し飲みした。通りがかった人が「屋根がついたら、プリー(魂)は家の中にいるっていうよ。あんたたちの魂も家の中にいることになるね」と言う。魂までこの村にいつくつもりはないけれど、この家ともきっと長いつきあいになっていくんだろうな。太郎くんの魂、まぁ、時々この家にも遊びに来て、モンの村の図書館活動を見守ってくださいね。きっと、楽しい場所になっていくでしょう。(やすい)

4月11日(火)ナーリーと絵本
 最近、爺さんの孫娘、3歳になるナーリーは「「シャイシャイ(見る見る)」と、絵本を箱から出してきては、持ってくる。最近、お気に入りは「3びきのくま(ポール・ガルドン。ほるぷ出版)」である。お話をしながら絵本を見せていると、ウンウンとうなづきながら見ているのが可笑しい。女の子がおかゆを食べるページでは、自分もおかゆに手を伸ばし食べるまねをしている。また、女の子がこぐまの椅子を壊すページでは、自分も床に尻餅をついて、「ポンポン・アァ」(落ちちゃったぁ)と、床の上にいちいちひっくり返るので、笑ってしまう。「はらぺこあおむし(エリック・カール。偕成社)では、あおむしの食べる果物の枝に手を伸ばして、全部もぐもぐと食べるまねをしたが、最後に、あおむしが蝶になると、わぁ・・・と声を上げた。よほどチョウチョがすてきだったのだろう。チョウチョになるページの前を何でもめくって、「ポ、ポ、ボンバイ(チョウチョが見える)」と言っては蝶になるページをめくって、わぁ・・・と言っている。
 つい1ヶ月ほど前は、ワニの絵を見て、本気で怖がっていたが、今は、「ンチャインチャイ(怖いよ)」と言いつつも、おもしろがって平気で見るようになった。(やすい)
        
         チョウチョのページを見るナリー

4月13日(木)また、赤ちゃんが亡くなる
 「また」と書いたのは、おととい、11日にも、生後2ヶ月ほどの赤ちゃんが亡くなったばかりだからである。昨日、村の人々が総勢で手伝ってのお葬式で、夕方、赤ちゃんを山の畑の中に葬ったばかりであった。昨日の今日・・・また、2ヶ月ほどの赤ちゃんが亡くなった。別に特別病んでいたわけではないらしい。ちょっと調子が悪くなって、すぐ死んでしまった。その知らせを聞いて、家に駆けつけると、若いお父さんとお母さんが、土気色だけれど、まだ柔らかそうなまるで寝ているような赤ちゃんに頬を寄せて泣いていた。
 原因はわからないが、以前から山の村では(山の村だけかどうかはわからないが・・)赤ん坊が喉が痛くなって、すぐ死んでしまう病気があるのだという。
 つい先日も、他の赤ちゃんの具合が悪くなり、みんなが家に集まっていた。その赤ちゃんは元気になったのだが、その後、二人続いての急死である。いったい何の病気なのだろう。
 モンの人々は、誰かが病気になって具合が悪いと、その人の家に詰めかける。みんな治療法を知っているわけでもなく、ただ「いる」だけのようだが、「心配だから一緒にいるよ」という気持ちを表すためなのだろう。お葬式の時も、みんなが駆けつけ、嘆き悲しんで泣く。嘆きのうなりのような、まるで歌のような泣き声である。私は、「泣きに行こう」と言われて行った時には泣けなかった。モンの人たちは、まるでいきなりスイッチオンになったように嘆き泣く。そして、お葬式が終わるまで、太鼓とケーン(竹の笙)が鳴り続けている。悪霊がよってこないようにであろう。男たちは葬式の間中、酒を振る舞われ、葬式が終わり、埋葬に行く頃には酔っぱらっている。私は、昨日、その男たちが山の畑に小さな遺体が埋葬するのについていった。両親は来ない。来させないそうである。酔っぱらってフラフラになっている人もいるけれど、一つの小さな命を送るための儀式を、村の人たちが大勢集まって、お互いに助け合いながら、時間を費やして一生懸命役割をこなしている。「おいおい、酔っぱらうなよ」と思いながらも、温かいものを感じた。「こんなに大勢の人に一生懸命送ってもらえたね」と小さな亡骸に語りかけていたら、泣いてしまった。

4月15日(土)またまた・・・・
 昨日、今日と涼しい・・・・というより寒い。
 今はラオスの正月のはずである。(ラオスにはいるけれど、ラオス人の村ではないので、全然関係ない)。ラオス正月は水かけ祭りで、いくら水をかけられても平気なほど、本来はこの時期は1年で一番暑いのであるが、何故か、おとといからえらく寒くなった。再びセーターを着込んでいる。
 夕方遅く、また1人の子が亡くなった。この子は2歳半になっているが、数ヶ月の赤ちゃんほどにしか成長しておらず、身体もほとんど動かせず言葉も話せない。ご飯も食べられないので少しおかゆをすするくらいである。以前「いったい何を食べさせれば大きくなるのだろう?」と言われ、ちょっと難しいだろうな・・・・と思ったことがあるが、その子が亡くなった。症状としては、先日の2人の赤ちゃんと同じだそうだ。喉がつまるようになり?息ができなくなって半日ほどで亡くなった。小さい抵抗力のない子どもが、感染してしまうのだろうか?これまで他の地域で、あまり聞いたことがないのであるが・・・・いったい何の病気なのだろう?霊がどうの・・・というよりも、きっと今ここに蔓延しているかもしれない見えない病原菌を恐ろしく思っているが、いったいどうすればよいのだろう?
 夜、爺さんの娘のシェンとともに、子どもを亡くしたネントンの家を訪ねた。すでに大勢の人々が集まり、1人が亡くなった子の枕元で、クワゲェ(亡くなった人がこの世からあの世へ向かうための道筋をつけるための言葉であろう)をずっと語っていた。お母さんがずっとその子の横についている。集まった近所の人たちは、お父さんと葬式の段取りの相談をし、必要な竹を伐ったりあれこれ準備を始めている。一部の男たちは、この家で夜明かしする準備?トランプを始めている。しんみりせずに起きているようにだろう・・・・葬式の段取りをする人々がいる一方で、トランプを一晩中、家の片隅でするのである。こう立て続けに葬式続きでは、実のところ、みんな疲れるだろうと思うが・・・死がより身近なのであろう、人々は淡々と死を受け入れている気がする。
 私たちは、4月末には、日本に戻らなくてはいけないので、図書館準備小屋?の建物作りは、終わるかどうか?いや終わらないのだが、いったいどこまでできるか?微妙である。昼間は、今日は屋根部分の大工仕事を進めるとともに、4人の男たちが、2階(というか、屋根に突き出す、明かり取りの部分となる上屋部分)に使うために木を伐りに山の方まで行ってくれた。この上屋は、普通の人々ができるモンの家の作り方で作ることになっている。村の生活の中で、村の人々のリズムに合わせて、村の人々に協力をお願いしながら作業を進めていくのは、なかなか思うようには進まないし、なかなか難しい。(やすい)

4月16日(日)お葬式
 村の人々はまた朝から総出でお葬式の準備である。もちろん中には、「今日は畑に行かなくちゃいけないから失礼する」という人もいる。でも、一家から誰か一人は手伝いに出ているようである。私たちが、朝、家を覗きに行くと、すでに大勢の人たちが集まって、ブタをしめての料理を始め、またあれこれ準備をしていた。村長に、「この病気の原因が何かはわからないけど、でも、お母さんたちに、小さい赤ちゃんは連れてこないように言った方がいいんじゃない?感染するとかはわからないけれど、小さな赤ちゃんは抵抗力がないから」と言う。またこれ以上の赤ちゃんが死んだりしたら大変だ・・・3人目となっては、いささか心配になってきた。実は、この家では昨日、同じ日に息子の子が産まれた。同じ日に同じ家で、一人の命が逝き、一人の命が生まれた。
 男たちはみなお葬式の手伝いで、今日も建設作業はお休みなので、私たちはふもとの町ノンヘートへ電話や雑用をしに行ったが、午後、再び家を覗いた。お葬式もそろそろ終わりに近づいていた。
 モンの葬式は、太鼓をドンドンドンドンと鳴らし続け(遠くで聞いていると、まるで日本の祭り太鼓のようである。でも、モンの人にとっては、太鼓の音=葬式 である)、竹の笙ケーンを吹き続ける。今回も昨晩から二人の男がケーンを吹き続け、一人が太鼓を叩き続けている。
 小さな遺体は家の壁と並行に備え付けられた台(モン語で馬と呼ぶ。あの世へ乗って行く馬なのであろう)の上に安置されて、朝から村の人々が次々と泣きに来ていた。まるで嘆きの歌のような泣き声が鳴り響いてきたが、もうそれも終わっていた。そろそろ出棺なのである(まだお棺の中には入っていないが・・)。村の長老たちが呼んでこられた。何をするのかと思ったら、彼らは赤ちゃんの額などに黒い炭をつける(どうも緑のペンキのようにも見えたが・・・)そして、
「もう、行きなさい。ここはおまえのいる場所じゃないぞ。もう行きなさい。行ったら二度と戻ってくるな。戻ってきたら、その炭のついた顔なんだから、あの世から戻ってきた者だってことはばれてしまうぞ。そんな恥ずかしいことはするなよ。もう二度と帰ってくるんじゃないぞ。行きなさい。同じ姿で生まれてはいけないぞ。もうあっちへ行け。おまえの顔なんぞ見たくないぞ」
などなど、赤ちゃんの遺体に向かって、え!それはあんまり・・・というような言葉を投げかけるのである。きっと、それは、魂がこの世に未練を残して留まるようなことなく、あの世へ行くように・・・ということであろうし、また、短くて終わってしまった命が再び生まれ変わる時には、長生きするようにとの願いもこめているのだろう。また、いかにモンの人たち魂が悪霊になってこの世に留まることを恐れているか・・・・そんなことも感じた。
「生まれた時から顔にあざがある人がいるでしょう?ああいう人は、こうしてどこかで死んだ子の生まれ変わりなんだよ。顔に塗った炭の跡があざになるんだよ。でもね、そうしてあざを持って生まれて来た子は、今度は長生きするって言われているよ」とおばあさんが耳元で教えてくれた。
 小さな遺体は、男たちに担がれ、山の畑へと埋葬された。
 葬式の後、女たちが、「私たちの村で、こんなに人々が連続して死んだことはないのよ。何か呪いでもかけられているんじゃないかしら・・・あぁ、怖い怖い」と話していた。その上今度は大人が病気になったという話を聞き、みんな心配そうな顔をして見舞いに行っていたが、この人は大事にいたらなかった。(やすい)

4月17日(月)再び作業始める
 3回連続して、お葬式の次の日に再び子どもが亡くなる・・・という繰り返しだったが、ここのところ寒かった天気もやっと少し温かくなり、なんだかやっと普通の日に戻ったな・・・という気がする。作業も再開。これまで、村の大工さん、ノーポー、ジュアテンが作業をしてくれていたが、今日から二人は、村の他の人の家を建てなくてはいけない。頼んだ人たちはすでに家を壊していて「これ以上は待てない」とのことだが、私たちも大工さんたちにいてもらわないと困るので、交替で一人ずつ作業に来てもらうことにする。
 建物には2階部分があるのだが、それは、モンの家の作り方で、大工さんではない普通の人たちに作ってもらおう・・・ということにしていた。先週、ワンザウ、ニアブー、チャイ、パーイェンという4人の男たちと話をして、彼らにやってもらうことに決めた。実は彼らの中に、「大工仕事の技術を持っている人だけが収入になって、ずるい」と文句を言っている人がいた。だからわざと、2階部分の建設の話を持ちかけたのだ。2階部分は、山から丸太を伐ってきて、丸太と竹のひもと、茅葺き屋根で作る方法で、モンの男たちであれば誰でもその家の作り方は知っているという。彼ら4人は先週から村の回りの山に入っては木を伐っている。夕方、皮をはいだ白い丸太を何本も担いできた。
「あの山の向こうの森で伐りだしてきたんだよ」と。家を作る自体よりも、材料の材木を伐りだして運ぶことが重労働である。  (やすい)
      

 家では、ここのところ爺さんが「しょうがのガピ炒め」に凝っている。ガピとは本当はタイのエビ味噌みたいな調味料のことだが、これはそれではなく、ただ爺さんがそう呼んでいるのだが、ベトナム製の魚の発酵調味料で、塩辛みたいなもんである。ベトナムに行った親戚が大瓶をくれたとのこと。しょうがは庭で作っている。ここのしょうがはおいしいでのであるが、そのしょうがとにんにくを豚脂で炒め、この発酵調味料を入れる。おお、臭い。「これは臭い、けど食べるとうまいんじゃあ」とえらくお気に入りで、今日の食事は、朝:ご飯、しょうがのガピ炒め、青菜汁。昼:ご飯、しょうがのガピ炒め、キャベツ炒め。夜:ご飯、しょうがのガピ炒め、青菜汁・・・であった。どちらかというと、おかずというより、酒のつまみにしたらおつな味である。私もおいしいと思って食べているが、婆さんや娘さん嫁さん、女性陣には不評で、婆さんは「チュッチュー。あぁ臭い臭い。食べた後の息なんて、臭い臭い。食べている本人たちはわからないけどね」と言う。爺さんは「あぁ、うまいうまい。これを食べんと、飯を食った気がせんぞ」と言う。私は爺さん組で、一緒になって食べている。(やすい)

4月19日(火)夜のミーティング
 夜、村のミーティングがあるので参加。夕方、カンカンカン・・・(モンの人はグレングレングレン・・と表現するが・・・)と鐘がなる。2回目が鳴ったら、村長の家に集まるのである。
 村長の家には所狭しと人々が集まっていた。電気はなく真っ暗で、囲炉裏の火の明かりだけがほんのりと明るい。「近々、選挙があるから、みんな遠出はしないこと。朝、グレングレンが鳴ったら、その日が選挙だ」とのこと。選挙の投票日には、なんと1ヶ月の幅がある。以前、4月には選挙があるとのお達しがあったが、投票日は決められておらず、このような田舎では、選挙管理委員の人たちが、1村1村奥の村から順番に回ってくるのである。彼らが到着したら投票だそうだ。
 選挙の話題の次は、「村の共同の闘牛場(闘牛をしない時は放牧場)を作るために、その回りの畑を柵で囲うのを誰がやるか?」で、人々は大激論を交わし始めた。畑を柵で囲わないと、牛が作物を食べてしまう。でも、柵を作って、その後ずっと管理修理していくのは、結構な手間なのであろう。「ぼくはゴメンだね」という人もいて、なかなか決まらない。若い村長は怒り出し、「せっかくみんなの楽しみである(特に男たちだが)闘牛場を作るっていうのに、協力できないっていうんだったら、もう知らないよ。やめたやめた」などと言い出す始末。みんなが暗がりの中から、あれこれ自分の意見を勝手にわいわい言い始め、結局どうにもならないのか・・・・と思っていたら、不思議と段々にまとまってきて、最後には「ぼくはやるよ」「ぼくは20メートル分責任を持つ」「ぼくは10メートルだ」などなどという人々が名乗り出て、柵作りを共同作業でやることになった。
 もう10時を回った頃、やっと話が一段落ついた。そこで、私が言わせてもらう。
「家はまだ出来上がってはいないけれど、私たちは4月25日には村を出て、一度日本に戻ります。本当に、予想以上に時間がかかってしまって、出来上がらなかったのは残念だけど、また9月には来て、完成させますから、それまでみんなで見ていてくださいね。でも、私たちの目的は、家が出来上がることではなくて、家の場を使って、本を見たり読んだり、モンの文化を伝える活動をしたり・・・みんなが使える場所にすることで、みんなの家なのだから、そう思って大切にしてくださいね」と言った。モンの人たちは暗がりの中で、フンフンと頷いて聞いてくれていたようだ。(や)

4月20日(水)2階部分はモンの家
 4人の男たちが2階部分を作る。大工さんでなくても、モンの家はみんな作れる。丸太で2階部分ができると、なかなか立派。これまで1階部分の真ん中が空いていたので「いったいどんな家?」と不信がっていた人たちもやっと納得!という顔をする。1階部分は晋作氏が細かく指示しながら作り上げたが、上はモンの人たちがどんどん作っていく。
「下は日本式の家で、上はモンの家だね。2つが一緒になった家だね」と、人々が言う。
 晋作くん曰く、「これまで、柱の加工したり、何やっているか見えにくい仕事をしている時は、野次馬たちが『何やっているんだ?』と批判していったけど、家が立ち上がってからは『おぉ、すごいな。建ったな』と好意的な言葉を言うよ」と。確かに最近、「よかったね。やっと建ったね。いいのが建ったね」と声を掛けてくれる人も多い。みんなも「一体いつ建つのかな?本当に建つかな?」と思いながら見ていたんだろうな・・     (や)
         

4月22日(土)選挙のち仕事
 朝、グレングレングレンと鐘がなる。今日が選挙らしい。当然、外国人の私たちは関係ないが・・・ 人々はみな投票所となる学校へと歩いていく。みんなが揃ったら、話を聞いてから投票するそうだ。「半日かかるよ」と言っていたが、早く行った人は、さっさ投票を終え、遅い人は並んで順番を待って投票し、昼前には、大半の人が投票を終えたようだった。「まだ7人来ていない」と言う。今日投票できなかった人は、後日、町へ下りて投票しなくてはいけない。投票率は100%に近いそうだ。
 午後からはみんな仕事に来る。

 私は、この1週間看板作りをしていた。本来ならば、もっと前に作って置かなくてはいけなかったのだが、最後にやっと作った。・・・
「G村図書館建設プロジェクト」
「この家は、村の人たち、子どもたちが、本を読んだり、また自分たちの文化や伝統の保存のために使う家です。みんなの家だから、ぜひみんなで大切にしてくださいね。 
 資金援助:太郎さんのご両親と日本の友だちたち 
 第一工期:2005年11月〜2006年4月 第二工期:2006年9月〜10月・・・・・」
 などとラオス語とアルファベット表記のモン語で書き、そして、この家で子どもたちや3びきのクマ、ネコや犬が絵本を見ていたり、モンのケーンを吹いたりしている絵を描いた。
 建設途中の家の前に立てて、「みんな、こんな楽しい家ができるんだよ。楽しみに待っていてね」というメッセージにしたかったのだ。また、「日本人が寝泊まり料理する家」だと思いこんでいる人も多かったので、「そうじゃないよ、みんなの家だよ」ということも知らせたかったのだ。看板を描いている途中も、みんなが声出して一生懸命読んでいく。もっと早く作って置けばよかったなと思う。(や)

4月23日(日)茅でやねを葺く

 朝から茅が届く。10人に230枚ほどの茅屋根を編んでもらっていた。やっと、いよいよ今日茅屋根を葺けるということで、朝からみんなが建設現場に運んできてくれた。茅屋根が何枚あれば足りるか?というのは人によって全然意見が違い、爺さんなんかは「おまえたちの家は小さいんだから、80枚もあれば十分さ」と言っていたが、「300枚なくちゃダメだ」という人もいた。厚く葺けば、それだけ長持ちするということで、本当はもっと手に入れたかったが、山の茅畑にはすでに火が入って焼かれてしまっていたので、230枚集めるのがやっとであった。
 男たちが、屋根に上って、茅屋根を葺いた。屋根がつくと、急に家が大きく見えた。
         

 私の方は、ギアとトンという2人の兄弟に頼んで、材木を並べ直して片づける作業をした。下の方にすでに製材された材木を並べ、上にまだ製材されていない重い木を載せる。材木が曲がらないようにと、また盗まれないようにである。モンの人自身が、「村には泥棒がいるからね。ちゃんと盗まれないように片づけて置かなくちゃダメだよ」というのである。こんな重い木の固まりを盗むのは、ちょっと大変だろうが、やはりお互いの安心のため、金網を買って、材木小屋を囲うことにした。
 たまたま昨日、ギアが建設現場を見に来ていたので、「手伝ってもらえる?」と声をかけた。彼は、力持ちの弟を連れてきて、一緒にやってくれた。彼らはやっつけ仕事ではなく、よりよく保管するためにどうしたらいいか?を考えながら、黙々と力仕事をこなしてくれた。その丁寧な真面目さがとても嬉しかった。(やすい)

4月24日(月)片づけ。家をシートでまく
 屋根と、材木の片づけの続き。掃除。お昼頃、豪雨。もう雨季に入っているのだと実感。
 夕方、サイガウ爺さん、元村長のゾンニア、女性リーダーのニア・ノーポー・・・村の長たちに、屋根のかかった家に来てもらい、「まだ途中で申し訳ないけれど、屋根はつきました。私たちは明日帰ります。また来る時まで、ぜひみなさん、よろしく面倒見てくださいね」とお願いする。
 さて、長老たちに、「でも、この家、どうしましょう?このまま柱むき出しでもいいか?シートで囲った方がいいか?」と相談すると、みな口を揃えて、「いやぁ、モンの子どもたちはいたずらで、言うこときかないのが多いから、柱をナイフで傷つけたり、いたずら描きしたり、あれこれ心配だ。囲った方がいい。看板も高いところに掛けた方がいいぞ」と言う。自分たちの子どもたちの癖に、みんな「モンの子どもたちは信用ならん。手におえん」と言うのが可笑しい。(私はそこまででもないと思っているが・・・)
 もう暗くなりはじめていたが、「よし、今、我々がやろう」と、長老たちと回りに集まっていた人たちが、どんどん動いて、大きなビニールシートで、家を囲ってくれた。シートが足りなくて、一部、破れたシートも使ったので、なんだかオンボロ家みたいになってしまったが、でも、こうして最後みんなが協力してやってくれ、あっという間に最後の締めの作業が終わった。そして看板も「いたずら描きできないように」と高い位置に掲げてくれ、ほっとした気持ちになった。(や)

4月25日(火) しばらくさようなら。シンチードゥア
 安井は朝の乗り合いバスで、鈴木はバイクでポンサワンへ向かう。3時のバスに乗り換え、ビエンチャンへ。夜中の2時に到着。1ヶ月ぶりのビエンチャン。安井は29日着で東京へ。鈴木晋作くんは、中国経由で、5月中には日本へ帰国予定です。
 過ぎてしまえば、あっという間だったか?というと、なかなか長かった。本当に材料集めから始めて、村の人と一緒に作り出していくことの大変さ・・・を実感している。でも、村の人たちの協力を得ることが出来、少しずつ進んで、完成はしなかったけど、とにかく建った。屋根がついた。
「何はともあれ、建ってよかったなぁ」というのが実感。途中、もう今年は諦めて出直そう・・・と話し合ったこともあったが、とにかくできるところまではやろう!ということにした。そうしてよかったと思う。とにかく柱が立ち上がって、形が見えたことで、村の人たちも「本当に出来るのだな」という実感を持ったようだった。本当はこれから。家ができたら、その中の活動を作り上げていく。それこそが本番だ。まだまだ先は長い。
 でも、とにかく第一段階を怪我も事故もなく、無事終えられたことに感謝しています。
 そして、村の人たちに・・・日本で応援してくださっている方々に・・・お互いうんざりしたり文句言いつつも、一緒に頑張ってきた鈴木晋作くんに・・・感謝しています。
 数ヶ月ですが、日本で充電して、それからまたスタートです。
 これまで読んで下さり、ありがとうございました。
 シンチードゥア(また会いましょう) 。               (安井清子)


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