中東イランの首都テヘラン。19年前、空港へと必死に急ぐ日本人たちがいた。商社マンに技術者、子連れに妊婦もいた。イランで働くサラリーマンとその家族200人だった。激化したイラン・イラク戦争。空爆の中、出国まで猶予はなかった。空港に着いた日本人たちに突きつけられたのは、搭乗拒否。外国の航空会社は自国民救出を優先した。取り残された日本人たちに空爆の危機が迫った。そのとき立ち上がったのは還暦間近の外交官。そして、思いがけない国のパイロットが命がけの飛行を買って出た。国境を越えた世紀の救出作戦。そこに、あの男が立ちはだかった。民間機の撃墜を予告した。救出機が飛び立とうとしたそのとき、攻撃が始まった。
昭和58年4月、成田空港に一組の親子の姿があった。妻と7ヶ月の長男を連れていたのは、縣直樹(あがた・なおき)30歳。夢を叶えようとしていた。縣は大阪の小学校の教師。7年のキャリアを積んできた。30歳を機に新たな挑戦をしたいと思った。海外日本人学校の教師の仕事だった。国の試験に合格した。
やりがいありましたよね。海外希望したからにはどこにでも行くつもりでしてましたからね。
赴任先は中東イランだった。首都テヘランは人口850万の巨大都市。縣は三階建てのアパートの一室に居を構えた。テヘラン日本人学校で18人の小中学生を教え始めた。テヘランに住む日本人は450人。産油国イランで働く商社マンや技術者たちだった。その一人、小松製作所の笠松東(かさまつ・はじめ)。子供の教育は日本人学校が頼みだった。
絶対必要だと思いますね。まあ、日本人学校があるってことが、やっぱり子供を連れて行く上での、ひとつのやっぱり大事なあれですね、条件っていうことになっていましたよね。
縣は一人一人の生徒とじっくり向き合えた。翌年次男も生まれた。
毎日、こう、いろんな体験してて、本当に面白かったですね。素晴らしい暮らしでしたね。うん。
そのころ、同じテヘランで深刻な顔をした男がいた。駐イラン大使の野村豊(のむらゆたか)。当時58歳。緊迫の情勢が届いていた。イランでは6年前、ホメイニ師が革命を起こし、新政権を樹立。その勢力拡大を恐れる男がいた。隣国イラクのフセインだった。国境線で両国の衝突が続いていた。4ヶ月前、フセインはアメリカとの国交を回復。それを背に、激しさを増す軍事行動。野村は案じた。
この戦争もいつ果てるとも分かりませんし、まあ、どうなるか大変心配してたわけです。
縣がイランに来て2年が経った。昭和60年3月11日。縣は笠松一家と夕食をともにした。すき焼きを囲み、子供の話で盛り上がった。帰宅し、床について間もなく、爆発音で飛び起きた。ガラスが部屋中に突き刺さっていた。
ガーンっていう音ね。すごい音。もう今まで自分が耳にしたことない音ですよね。非常に大きな音がガーッと。
イラクの空爆だった。なんと2軒隣に爆弾が命中。5人が死亡した。衝撃を受けた。首都が襲われている。夫婦は子供を抱き地下への階段を駆け下りた。ボイラー室に隠れた。泣きじゃくる妻芳美、このとき3人目の子を身籠っていた。出産まで一月だった。
破水が起きると、もうどうしようもないので、それが一番心配だったです。
2人の幼子は恐怖に身体を硬直させていた。スープも飲まなかった。
首を振りもしないんですよ、もう、無表情っていうか、そんな感じですね。いやもう、これはいかんなと思いましたね。
そのころ、日本大使公邸の屋上でイラク軍機をにらむ男がいた。大使の野村。焦っていた。日本人が多く住む市の北部が狙われている。そこは最高指導者ホメイニ師が住む地域だった。
こりゃもう大変だと。もうこれまいかんというふうにですね、早くどうにかせにゃいかんと。
2日後またイラクの爆撃があった。市の北部で更に3人の犠牲者が出た。野村はイラン在住の日本人に緊急勧告を出した。「一刻も早くイランから出国してください。」450人の日本人。緊急脱出がはじまった。東京銀行の毛利悟(もうり・さとる)1年間有効の航空券を持っていた。座席さえとれればと思った。すぐにドイツの航空会社に駆け込んだ。カウンターには出国を急ぐ外国人が並んでいた。毛利の番が来た。妻と2人分の座席を頼んだ。しかし、信じられない答えが返ってきた。「ドイツ人救出が最優先。次はEC加盟のヨーロッパ人です。残念ながら日本の方々の席はありません。」テヘランに日本の航空会社は乗り入れていなかった。他の航空会社も回ったが、すべて断られた。
大変ショックでしたですね。もう、あの、脱力感と言いますかね。
外国人たちが次々出国する中、日本人は取り残された。そのころ教師の縣は、運良くソビエト航空のチケットを手に入れた。座席も確保した。出発は4日後の21日。臨月の妻と2人の子を連れて帰れる。そのとき、日本人会から恐ろしい知らせが飛び込んだ。「フセインがイラン領空を飛ぶ民間機を撃墜すると宣言した。攻撃開始はあさって19日夜8時半だ。」縣の航空券は4日後の21日。撃墜される。
もう破って捨てたかったですね。気持ちとしてはね。もう、なんやクソってな感じですよ。
相次ぐ空爆に、撃墜予告。戦場と化したテヘランに、日本人たちは閉じ込められた。
3月17日、撃墜開始まであと2日。縣に毛利、日本人たちは陸路での脱出を検討し始めていた。しかし、隣国までは800キロ、20時間はかかる。治安が悪化し、かつて日本人が山賊に銃撃されていた。
脱出の手段は、もうなくなったと、まあ、一種の、その、パニック状況になりましたですね。
大使の野村。東京の外務省に連絡をとり続けていた。「救援用の特別便を派遣してください。」日本政府は航空会社と協議。結論が出た。イラン・イラク両国から安全保証を取り付けなければ、飛ばせない。野村は、うなった。あのフセイン政権から保証をとるのは事実上不可能だ。他国の飛行機で日本人の座席をとるしかない。大使館員たちは、各国の大使館や航空会社に電話で頼んだ。3席、5席、ヨーロッパの会社がわずかに座席をくれた。しかし、200席以上が足りない。野村は追いつめられた。
そりゃ、本当に、まあ、身を切られるような辛い思いでございましたですね。どうにもならんけれどもですね、ええ、やっぱりイライラいたしましたですね、本当に。
野村は意を決すると、一人の男のもとに向かった。イラン駐在のトルコ大使、イスメット・ビルセルだった。ビルセルは2年前、野村と同じ日に着任。野村の人柄に惹かれ、家族ぐるみの付き合いを始めた。当時、トルコはテロの恐怖にさらされていた。世界中で外交官30人以上が殺され、ビルセルの暗殺計画も発覚していた。極限の日々、何でも腹を割って話せる友。野村の存在が、ビルセルの支えだった。
野村は、ビルセルに言った。「日本人を救う手はないか?」。友の苦悩を知ったビルセル。うなずくと、本国にとんでもない電報を打った。『日本人のためにトルコ航空の特別便を飛ばせないか?』。その要請は、一人の男の元に届いた。トルコの首相トルグト・オザルだった。オザルは思った。日本人を救うために、トルコ人を危険に曝せるのか。そのとき、1本の電話が入った。「飛行機を出してください」。声の主は、森永尭(もりなが・たかし)。伊藤忠商事のトルコ駐在員だった。同僚とその家族、34人がテヘランに取り残されていた。森永がトルコに赴任したのは10年前。経済は破綻していた。中東の国ながら、石油は出ず、工業技術もなかった。そのころ、経済官僚出身のオザルに出会い、相談された。「トルコを中東に日本にできないか?」。森永は、トラクターの生産を提案。日本の農業機械メーカーから技術協力を取り付けた。メイド・イン・トルコのトラクター。輸出にも成功した。オザルに電話する森永は思った。自分は一ビジネスマン。しかし、仲間のためにやるしかない。
あの、本当に無鉄砲なことですよね。ええ、それでもやり遂げなきゃいけない。もう、オザル首相に頼むしかないわけです。
オザルは、考えた。森永の電話、そして、ビルセルからの要請。時間切れまで、あと25時間半。大使の野村に知らせが入った。相手は、ビルセル。「明日、トルコ航空が日本人のために特別便を飛ばすぞ」。オザル首相の決断だった。
本当に、涙のこぼれるような思いでしたですね。まあ、地獄で仏にあったという感じでしょうかね。もう、本当に、やったぞと。
トルコでは、特別便の準備が始まった。日本人を救う運命のフライトを託されたのは、アリ・オズデミル機長。パイロット歴36年。空軍上がりの腕利きだった。首相命令と聞き、奮い立った。
タイムリミットが迫る中、アリたちは飛行ルートを検討した。トルコからイランへ。危険なイラクを避け、北に大きく迂回。カスピ海を南下し、テヘランに向かう。遠回りだが、これしかない。イランの日本大使館は、在留邦人への連絡を始めた。しかし、避難先が分からない者が続出。このままでは、日本人を特別便に乗せられない。撃墜開始まで残り24時間を切った。
3月18日夜、タイムリミットまで23時間。日本人との連絡がつかず、大使館員の焦りは募った。そのとき、声をあげる男がいた。私がみんなを捜し出し、伝えます。二等書記官松山美憲(まつやま・よしのり)。剣道4段、肝の据わった男だった。空爆の危険も顧みず、夜の町に繰り出した。
もう、何としても連絡して差し上げたいと。他に方法がないということで、まあ、無我夢中。
真っ先に向かったのはホテルの地階。避難していた日本人家族を見つけた。「明日のトルコ航空で出国してください」。他の大使館員たちも。夜通し連絡に走った。翌19日。撃墜開始まであと14時間。早朝から、人々は空港に押し寄せた。タクシーを飛ばし、空港に向かう男がいた。縣だった。2日前から39度の高熱を出していた。
もう身体がフラフラしてましたからね。もう、自分であって自分でないような。もう半分意識がなかったですよ。
傍らには臨月の妻と二人の幼子。必死だった。空港にたどり着いた。もう限界だ。そのとき、縣を呼ぶ声がした。大使館員の三本松進(さんぼんまつ・すすむ)だった。「安心してください」。家族4人のトルコ航空のチケットを確保していた。縣は、その場にへたり込んだ。三本松は代わりに搭乗手続きを済ませてくれた。タイムリミットまで12時間。隣国トルコではイランに向けた特別便が飛び立とうとしていた。離陸体勢に入ったそのとき、アリ機長に連絡が入った。イランから運行許可が出ない。待機しろ。ただでさえ遠回りのルート、出発が遅れればイラクの攻撃を受ける。イランの日本大使館にその連絡が入った。野村がすぐ街に飛び出した。空襲警報が鳴り響く中、イラン外務省に向かった。玄関で、顔見知りの幹部を捕まえ、迫った。「すぐこの場で運行許可を出してください」。
せっかくここまでうまく来てるものが、もう、一気にダメになっちゃうと。まあ、一種の体当たりのつもりでね。
1時間半後、イラン政府の運行許可を取った。その連絡を受けたアリ。直ちにトルコを離陸した。特別便はカスピ海を南下、イラン領空に入った。そのとき、イランの管制官が何とジグザグ飛行を指示してきた。大きな時間のロスになる。アリの傍らにいた航空機関士のコライ。指示の意味がわかった。従わざるを得なかった。テヘラン空港では、日本人たちが待ちわびていた。毛利と妻、気を張りつめていた。
イラクが攻撃するという刻限が迫ってきてましたんで。不安感というのがすごくありましたね。
午後3時。特別便が現れた。機長のアリ。搭乗を促した。
家族と乗り込んだ縣。高熱で座席に倒れ込んだ。機長のアリ。時計を見た。残り4時間でイラン領空から出ねばならない。そのとき、凄まじい攻撃音が耳をつんざいた。イランの対空砲火だった。イラク機が迫っている証だった。
日本人乗客全員が搭乗した。給油完了。大きく深呼吸したアリ。エンジン全開。午後5時10分、テヘランを離陸。野村は特別便が西へ消えるのを見送った。撃墜開始まであと3時間。早く、イラン領空を出てくれ。撃墜の不安。乗客たちは祈っていた。2時間を切ったそのとき、アリ機長のアナウンスが流れた。"Welcome to Turkey."ようこそ、トルコへ。歓声が上がった。毛利悟。
ありがとう!っていう感じですね。夜も寝てない、その疲れとかですね、これが一瞬にしてですね、身体の中から消えてしまうような。
沸き立つ機内で、ぐっすり眠る男がいた。家族を守った縣だった。悪夢の8日間。無事脱出に成功した。
イラン離陸から4時間後、日本人215人が無事イスタンブールに到着した。トルコ在住の日本人たちが、出迎えに駆けつけた。その一月後、日本に帰った縣直樹さん。妻芳美さんが無事三男を出産した。二人が必死でイランから連れ帰った命、力強く泣いた。
よう、お前生まれてきてくれたなって。あんな中くぐってきてね、よう元気に生まれてきてくれたなって。それは思いましたよ。
ずっと、気がかりなことがあった。イランにまだ3人の教え子がいた。テヘランに踏みとどまった大使館員の子供だった。3年の任期半ばだった縣さん。情勢が安定した5ヶ月後、今度は単身イランに戻り、教壇に立った。教師としての責任を果たした。
日本人を救った機長のアリさん。それから14年後のある夜、突然激しい揺れに襲われた。トルコ大地震。15000人を超える人々が犠牲となった。そのとき、立ち上がった日本人がいた。あのときの乗客たちだった。東京三菱銀行の毛利悟さん。会社挙げての義援金集めを提案。先頭に立った。1ヶ月後、毛利さんは首都アンカラに足を運び、社員が出し合った500万円を手渡した。
無償の好意でですね、助けていただいた、あの、ことについては、絶対に忘れちゃいけない。
34人の同僚を助けてもらった伊藤忠の森永さんも、世界中の社員に呼びかけた。各社挙げての支援の輪が広がった。アリさんが、そのことを知ったのは、ずっと後のことだった。