文字化資料

プロジェクトX『釧路湿原  カムイの鳥  舞え』

鶴の舞。雛鳥を守り育てる親の姿を表わす。アイヌの人々が神様と呼ぶ鳥がいる。タンチョウ。羽を広げれば2mを超える、日本最大の美しい鳥である。タンチョウがただ1カ所、生きながらえた土地がある。釧路湿原、広さ20000ヘクタール、2000種が息づく野生生物の王国である。そこに列島改造の嵐が吹きつけた。石油コンビナートに工業団地、30を超す開発計画が動き出した。
「このままでは皆死に絶える。」
立ち上がったのは、地元の人々。
「生き物をすべて調べ上げ、湿原の価値を示そう。」
調査に乗り出した。しかし、氷点下20度、底なし沼が待ち構えていた。そして、突如起きた大火災。炎が湿原を焼きつくした。

プロジェクトX
釧路湿原  カムイの鳥  舞え

昭和26年、北海道釧路地方。川で連日網を引く男がいた。土佐良範、先祖代々漁を営んできた。春はウグイ、夏は鯉、冬はワカサギがとれた。

脂のっているでしょう。丸々してるでしょ。どこへ出しても負けない。

川の周りには20000ヘクタールの湿原が広がっていた。豊かな水を求め、多くの動物たちが集まっていた。土佐は思った。この湿原の恵みで俺たちは生きている。

しかし、湿原はもうひとつの顔をもっていた。敗戦直後、焼け野原の都会から人々が押し寄せた。水が豊かな湿原は良い農地になると、開墾を始めた。しかし、夏でも気温は18度。米は育たなかった。ならば畑と耕したが、湿原の水は抜けなかった。まもなく、開拓者の7割がこの地を去り、不毛の大地のレッテルが貼られた。

10年が経った。湿原脇のぬかるんだ道を走る車があった。たびたび脱輪した。積荷は小麦粉。乗っていたのは林田恒夫、当時26歳。釧路で小さなパン屋を営んでいた。林田は2年前まで東京でサラリーマンをしていた。しかし、家業を継げと呼びもどされた。待っていたのは、5人の幼い弟たち。ひたすら働く毎日。俺はついてないと思った。真冬のある日、配達途中の林田、突然車をとめた。道端に純白の鳥が舞い降りた。タンチョウ、地元の人々が湿原の神と呼ぶ鶴。幻の鳥といわれた。美しかった。

生まれてはじめて見た、白い鶴で。それで、しかも降りたとたんに、踊りがこうやりだしたんですよ。もう、あ、これが鶴の舞というものかと思ってね。

もっと知りたいと、町の博物館に足を運んだ。そこに生き物好きの地元の人々が集まっていた。その中心に、あの湿原を釧路湿原と名づけた男がいた。地元大学の田中瑞穂。湿原に棲むすごいものを見せてくれた。氷河期から生き残るキタサンショウウオ。世界で唯一ここに生きるエゾカオジロトンボ。幻の魚イトウもいた。そして、極寒の湿原の不思議な風景。ふるさとはすごい。林田はタンチョウの写真を撮り、月に一度の勉強会に参加した。張りができた。

しかし、5年後、日本を揺るがす計画が持ち上がった。列島改造。全国各地に産業基地を作る。候補地のひとつに釧路湿原があがった。まもなく国や道庁は30を超える開発計画を出した。湿原の海沿いを石油コンビナートや工業団地にする。釧路の町は沸いた。さらに山沿いの湿地は土砂で埋め、牧草地にする動きも出た。

ひときわ喜ぶ人々がいた。多くがこの地を捨てる中、留まった農民たちだった。その一人、中尾幹夫。田畑をあきらめ、酪農に賭けていた。幼い頃から三度の飯は、麦に蕗を混ぜた蕗ご飯。スカスカの飯に腹が減った。

牛も増やして、そして、機械もどんどん入れてね。かなりやれるなっちゅう、これはやっぱりチャンスだと思ってましたけどね。はい。

林田は農家の気持ちがわかった。タンチョウは気がかりだったが、配達ですら苦労する湿原。耕すことがどれほど大変なことか。

これは、むげに反対するっていうのが心情的にはできないなという思いでしたね。

そのとき、田中瑞穂がメンバーに言った。
「湿原の価値を証明するには科学的なデータをとるしかない。湿原に棲む生き物の生態を一種残らずに調査しよう。」
「俺がタンチョウを調べる。」
林田は真っ先に手をあげた。昆虫は、林業を営む飯島一雄、植物は、博物館の臨時職員新庄久志が買って出た。
「魚は俺が手伝う。」
駆けつけたのは、地元漁師のあの土佐良範だった。湿原がなくなれば自分たちは生きていけない。

自分の生活がダメなるのわかって、黙っている人いないでしょ。

昭和46年夏、釧路湿原全域調査が始まった。挑むのは14人。緊張に顔が強ばっていた。奥地は人跡未踏の地。分け入った林田、泥をこぎ、道なき道を進んだ。そこでタンチョウの巣を見つけた。全体を撮影しようと、後ずさりした。次の瞬間、体が沈んだ。もがくとさらに沈んだ。それは、谷地眼、湿原に点在する底なし沼だった。

昭和47年、底なし沼谷地眼にはまった林田、仲間に助けられた。その直後、恐ろしい光景を見た。放牧の馬が谷地眼に落ち、もがきながら死んだ。

いやぁ、私ひとりで入ってたら、ああ、あの馬のように死んじゃうんだなっていう。

幼い5人の弟たちの顔がよぎった。俺が死んだら、路頭に迷う。湿原に入れなくなった。数日後、林田はパンの配達にある家に向かった。顔なじみのアイヌの老人。林田たちの調査を楽しみに待っていた。口ごもる林田に、アイヌに伝わる鶴の舞いのことを話した。それは、雛を守るため命を張る親鳥の姿。
「タンチョウはわが子のためなら、クマとも戦います。愛情豊かなタンチョウを守り抜いてほしい。」
林田は再び湿原に向かった。30もの巣を見つけた。新事実に気がついた。雛の主食は湿原の小魚だ。親が多く与えるほどよく育つ。湿原の恵みでタンチョウが生きている証拠を掴んだ。調査は一気に進み始めた。植物の新庄久志、湿原全域の草花を追った。調査箇所は実に6000、海抜0mになんと高山植物の大群落があった。昆虫の飯島一雄、すごい技を炸裂させた。3mの網を自在に操るツバメ返し。飛び交う虫を次々捕らえた。土佐良範も燃えた。ここでしか穫れない魚を集めた。怒るとトゲを出すトゲウオ、内陸30キロの湿原に海の魚がいた。データはそろった。土佐の魚、30種を確認。新庄の植物、600種を数えた。飯島の昆虫はすごかった。蝶やトンボなど1200種。釧路湿原は実に2000種類が息づく生き物の宝庫だった。このデータを示せば、住民も湿原の大切さをわかってくれる。住民総会を開くことを決めた。

しかし、考え込む男がいた。釧路湿原の名付け親田中瑞穂。開発を支持する人々には暮らしがかかっている。いい方法はないか。昭和47年11月、住民総会の日が来た。会場に入った林田、足がすくんだ。集まった住民は300人、大半が開発支持だった。メンバーが調査データを発表、保護を訴えると、罵声が飛んだ。
「保護で飯が食えるか!」
そのとき、田中が胸に秘めた策を語り始めた。国立国定公園化構想。湿原を国の公園に指定してもらい、保護する。
「釧路湿原は、すばらしい観光資源にもなります。公園になれば客が訪れ、産業も発展します。」
会議に参加した商工会議所の木村勲。

あ、そういう利用の仕方があるんだと、釧路の将来にですね、ひとつの曙光を見出したというか。

さらに田中は具体的な提案を行なった。海岸から6kmまでは工業団地建設に認める。湿原中心部は完全な保護地域。山沿いは牧草地の開発を認め、今後その範囲を農家と話し合う。酪農家の中尾幹夫、これなら飲めると思った。

それで十分だろうっていう。周辺は草地改良をしてもいいじゃないかという。

住民の意見はまとまった。すぐさま、プロジェクトは環境省への公園指定を打診した。しかし、衝撃の事実を知らされた。
「釧路湿原の景観は誰もが美しいとは思えない。しかも、観光客が中に入れないのでは、公園に値しない。」
メンバーは立ち尽くした。まもなく、山沿いで国と道庁による開発が始まった。湿原はみるみる土砂で埋められ、山の木々も伐採された。土佐良範、呆然としていた。漁獲高が半分に落ちた。開発部分から流れ込んだ土砂、ワカサギやハゼの産卵場所が壊滅した。林田もタンチョウの異変に気づいた。雛が育たずに死んだ。餌の小魚が激減した。親鳥の悲鳴がこだました。

昭和48年冬、開発は湿原の周辺全域に広がろうとしていた。ある日、林田がとんでもないことをメンバーに言った。
「この厳冬期にタンチョウの調査ができませんか。」
冬、一面凍りつく釧路湿原。しかしタンチョウはここで冬を生き抜く。そのなぞを解けば釧路湿原の本当のすごさがわかるはずだ。いちかばちかの厳冬期調査が始まった。メンバーは8人、目指すはタンチョウが越冬するといわれる奥地。現場に到着したのは夕刻。氷点下20度、凍りつく寒さに、林田は一睡もできなかった。翌朝、メンバーの新庄は朝食のため、雪を溶かし水を作ろうとした。そのとき、仲間が声をかけてきた。

おいおい、そんな雪で水作らなくてもいい。あそこに水ある。水あるって。

林田は驚いた。真冬に凍らない水がある。一目散に現場に向かった。次の瞬間、ポッカリと氷が開いた池が現れた。そこにタンチョウの餌となるハゼやドチョウが泳いでいた。調べると、山から絶え間なく水が湧き出ていた。

あ、これだから、やっぱり釧路湿原でも冬を越せる鶴がいたんだな。

タンチョウ越冬のなぞをつきとめた。林田たちは、調査結果を発表。まもなく信じられないニュースが飛び込んできた。釧路湿原がラムサール条約に登録された。それは水鳥の生息地をまもる世界最高権威の国際条約。林田たちの調査が世界を突き動かした。環境庁も腰を上げた。
「国立公園化を検討する。」
プロジェクトは一気に動き始めた。北海道庁も保護範囲の検討に入った。自然保護係係長の松岡治。

なんとかしなきゃならんという気持ちは一緒でしたからね。形にしなきゃならんだろうと。

保護地域の原案をまとめた。湿原の中心部はもとよりタンチョウの餌場となる湧き水が出る周辺部も加えた。保護範囲は28000ヘクタールに広がった。

しかし、そこに怒鳴り込んできた人々がいた。湿原周辺部で暮らす農民たち。その中心に血相を変えた中尾幹夫がいた。保護範囲が広がり、予定した牧草地の開発ができなくなっていた。中尾はその牧草地を見込み、牛舎を大きくした。息子も生まれた。

まあ、少なくとも自分の子供たちにもやっぱり、まあふつう、まあ世間並みの生活をさせてやりたいなという気持ちもありましたからね。

中尾たちは断固拒否を表明した。

その半年後、湿原で大事件が起きた。ごみ処理場から出た火が、湿原の枯れ草に燃え移った。またたく間に大火災となった。炎は湿原の1割、2000ヘクタールを焼き、中尾たちの集落に近づいた。地元消防団の服をまとった中尾。真っ先に現場を着くと、竹箒で炎に立ち向かった。そのとき、衝撃の光景が飛び込んできた。燃えさかる木の上に無数のアオサギの巣があった。親鳥は煙にまかれても、決してその場を離れようとしなかった。

じっと、アオサギは巣から離れないで、たぶんあの卵をまあ守るつもりで、抱いてたんだと思うんですよね。自然と、やっぱりそのここはみんなで守ってやるべという。

中尾たちは、丸二日夜を徹し、菷を振った。巣は守られた。直後、中尾たちは、北海道庁を訪ね、言った。
「国立公園に賛成します。」

最後の勝負のときが来た。環境庁の審議委員による現地調査。漁師の土佐に命運が託された。土佐は審議委員を船に乗せ、川を下り始めた。すぐさま動物たちが顔を覗かせた。中尾たちが守ったアオサギ、彩り豊かなオシドリ、しぐさがかわいいミンク、そしてとっておきの場所に船を向けた。審議委員が息をのんだ。土佐は言った。
「これが湿原の守り神です。」
昭和62年7月31日、釧路湿原は、ついに国立公園になった。ひとつになった住民たちの心。不毛の大地と呼ばれたふるさとを日本の宝にした。

国立公園誕生から6年後、釧路に世界の研究者たちが集結した。そこでプロジェクト20年の苦闘の歴史が報告された。世界でも例がない住民の心をひとつにした保護運動。拍手は鳴り止まなかった。今、釧路には年間250万人が訪れる。

プロジェクトの戦いは今も続く。漁師の土佐良範さん、魚を売ったお金で、10年前から湿原の周辺を購入している。そこは国立公園からもれた場所。タンチョウに手つかずの自然を少しでも残したいと思っている。

今度は、人間が、タンチョウの恩返しじゃなくって、人間が恩を返さなきゃだめですよ。

酪農家の中野幹夫さん、その後新たな牧草地の開発をあきらめ、懸命に働いた。現在、90頭の牛を飼う。遠回りはしたが、自分の決断に悔いはない。

林田恒夫さん、これまで12万点の写真をとった。その中で忘れられない写真がある。雪原に舞う2羽のタンチョウ、日本の紙幣となった。

今年、タンチョウは1000羽を超える。

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