文字化資料

NHK『プロジェクトX〜挑戦者たち』より
「革命トイレ 市場を制す」


サラリーマンやOLの多くが悩むオフィス仕事の大敵がある。人目を憚る病である。一歩歩くごとの激痛。日本人の実に3割が抱えると言われ、皆その痛みにじっと耐える。最も辛いのはトイレ。かつて洗面器にお湯を入れて駆け込んだ。そこは、暗く冷え込む場所だった。昭和55年、若者たちがトイレ革命に挑んだ。温水洗浄便座。お湯でお尻を洗い、温風で乾かすハイテク・トイレ。清潔さと人への優しさを求める開発となった。しかし、熱湯でお尻を火傷した。そして、見つかった謎の欠陥。会社の廊下は、返品で埋まった。トイレは不浄。宣伝も拒否された。そのとき現れた天才コピーライター。男たちは一か八かの大勝負に打って出た。これは、世界商品となった革命トイレに挑んだ技術者たち、笑いと涙のドラマである。

プロジェクトX〜挑戦者たち
革命トイレ 市場を制す

えー、最新のトイレのショールームに来ています。私たちが暮らす上で欠かすことができないのが、排泄、つまりトイレです。まあ、最近では、ただ用を足すというだけではなくて、より快適により便利にトイレを使いたいという要望を受けまして、各メーカーは次々と新製品を開発しています。ええ、こちらは近づくと自動的に蓋が開くトイレです。つまり、直接、手に触れることなく清潔なんですね。介護用のトイレです。脚の弱くなったお年寄りなどには非常に便利ですね。脚に負担をかけることなく、このように、まあ、着座できるわけですね。ええ、こちらは、用を足すときに自分の健康状態がチェックできるという優れもののトイレです。まあ、このように尿が掛かります。ええ、そうしますと、こちらの機械が尿の中に含まれる糖分を検査します。はい、このように150と出ました。ちょっと高めです。このデータは蓄積されますので、自分の健康管理に役立つというわけです。ええ、こうしたハイテク・トイレの原点となったのが、今から24年間に開発された温水洗浄便座。今日は、その抱腹絶倒、涙の物語をお伝えします。

昭和45年、日本は高度成長のただ中にあった。マイホームを求め、空前の住宅建築ラッシュが起きていた。その波に乗った会社が北九州にあった。東洋陶器。地方のハンディを乗り越え、住宅に納める水回り製品のトップメーカーに躍り出た。主力商品はトイレだった。手を触れずにセンサーで流せるトイレ。お風呂と一体化させたユニット・システム。新商品を次々と発表。開発の先頭に立つ男がいた。設計課のエース、本村久、当時36歳。「トイレの鬼」と呼ばれていた。

トイレというのはね、非常にその奥深いんですよね。ハマってしまってね。非常に面白いんですよ。

本村は東京の大学で水力学を専攻した。水回りのライン設計ができると、この会社を選んだ。しかし、配属されたのは水洗トイレの金具設計課。たかがトイレと甘く見た。自信満々で設計図を引いた。それを見た工場長が破り捨てた。「なめるな」。杉原周一、かつて世界に名を轟かせた技術者だった。戦前、三菱重工で戦闘機のエンジンにガソリンを送る特殊燃料粉霧装置を世界で初めて開発。戦後は、平和産業にと、この会社に身を投じていた。杉原は言った。「トイレは人の暮らしを支える尊い商品だ。誇りを持って取り組め」。本村も目が覚めた。

商品を設計するときに、その商品に魂を打ち込めと。そういうことを、杉原さんは気付かしてくれたんですよね。

本村は、仲間と水洗トイレの勉強会を開いた。節水に役立つ金具の開発に打ち込んだ。

昭和45年春。会社のイメージアップのため、広告がつくられた。最新トイレを全面にデザイン。担当は宣伝課の岩塚守男。雑誌に掲載を頼んだ。ひどい答えが返ってきた。「便器は汚い尻をイメージさせる。雑誌の品位が落ちる」。大手新聞社は言った。「トイレは『ご不浄』でしょう」。掲載を拒否された。

われわれが日々、毎日やってる仕事に対することを否定されたようなですね。

話を聞いた本村、悔しかった。「自分たちの技術は恥ずかしいものではない」。間もなく会社を危機が襲った。二度のオイルショックで、住宅着工戸数が激減。水回り製品は売れなくなった。ある日、本村は取締役に呼ばれた。「会社を救うため、これを開発しろ」。本村の顔が引きつった。それは、14年前、大問題となったアメリカ製の欠陥商品。お湯でお尻を洗う医療用便座だった。発射されるお湯は、温度も方向も不安定。遠藤周作に書かれた。『ものすごく熱いお湯……一度しか使わないこんなもの』。本村は、職場に戻ると4人の部下に相談した。若手の重松俊文が言った。「やりましょう。うちの親父は痔で苦しんでいます」。父の明久は、毎朝、トイレにお湯を持ち込んでいた。痔に苦しむ日本人は、何と3割。ビジネスマンやOLの大敵だった。本村は思った。この商品ができれば、トイレのイメージを一新できる。仕事への誇りを若手も持てる。やってみよう。

昭和53年、プロジェクトが動き始めた。本村はとんでもない行動に出た。社内を回り、頭を下げた。「パンツを脱いで実験に協力してください」。お尻に当てるお湯の温度、何度なら快適に感じるのか。どこに当てればいいのか。男女300人のデータが必要だった。男性社員は言った。勘弁してくれ。女子社員は、にべもなかった。自分たちでデータを取るしかない。若手技術者の池永隆夫が手をあげた。「俺がやります」。お湯を出す、トイレに似せた実験室をつくった。池永はパンツを脱ぎ、お湯を浴びた。温度を0.1度ずつ上げた。そのとき「熱い、熱い!」。

飛び上がるような感じですね。もう、やめてくれ。

前途多難な船出となった。

男たちのトイレ実験は続いていた。パンツを脱ぎ、1日16時間、交替でお湯を浴び続けた。池永隆夫。

お尻はヒリヒリしてましたね。過激な人体攻撃じゃないですけど。そういう感覚がありましたけどね。

女性のデータも必要だ。池永は試作機を家に持ち帰り、妻に頭を下げた。「この商品に賭けている。使ってくれ」。妻の広子、気迫に押された。

引き摺られました。私も。まあ、主人がこれだけ一生懸命になってるんだったら、私も頑張らなくちゃね。

社運を背負い奮闘するメンバーを見た社員たち。一人また一人、実験に協力を申し出た。女子社員120人も参加した。4ヶ月後、データがまとまった。男女あわせて300人。理想の温度は38度。人肌ほどの温かさ。お尻の的も絞り込まれた。データは掴んだ。開発開始。目指すは、前代未聞のハイテク・トイレ。本村は檄を飛ばした。「トイレのイメージをわれわれが変える」。

噴射口担当の飯田正己。どうすれば正確にお湯を的に当てられるのか、試行錯誤を続けた。ある日、道端に停まった自動車からラジオのアンテナがまっすぐに伸びるのを見た。「これだ!」。便座から一直線に伸びるノズルを設計。先端に噴射口を取り付けた。的に近づき、当たりやすくなった。更に、お湯を出す角度の実験を繰り返した。60度、50度、そして43度に傾けたとき、どんなお尻でも確実に当てることができた。

ピタッと当たるよというお話を結構よくいただきました。それはやっぱり、すごく嬉しかったですね。

最大の壁に挑む時が来た。お湯の温度を38度に維持する温度制御システムの開発。かつての欠陥商品で使われたのはバイメタル。お湯の温度が上昇すると金属が曲がり、ヒーターのスイッチを切った。しかし、温度は一定せず、熱湯も水も出た。若手の重松が言った。「ICを使いましょう」。集積回路、IC。当時、コンピュータに取り付けられた半導体の電子頭脳。精密部品をトイレに組み込むことなど、考えられなかった。本村は家電メーカーに問い合わせた。担当者は冷ややかだった。「直接、水を使う商品に、ICは無理だ。壊れて漏電したら、大変なことになる」。

ICみたいな、そんな敏感なものをね、このトイレの非常に使用環境の悪いところにね、使ったら、すぐに壊れるよと。

重松は言った。「安全な回路を作ってみせます」。ICを取り寄せると、回路作りに没頭した。あるとき、肘がICに触れた。漏電が起きた。100ボルトの電流が、重松の身体を駆け抜けた。

ギャッという感じでですね、あっ、これはもう死ぬかもしれんなと。

尿は、塩分を含む伝導体。漏電すれば、人体が危ない。プロジェクトは行き詰まった。

1週間が経った。季節は梅雨。長雨が続いていた。重松は、会社への道を歩いていた。交差点で待っていた時だった。青に変わった信号に目が止まった。ハッとした。信号は風雨に曝される電機製品。しかし、正確に点滅を繰り返す。横浜にある信号機メーカー、小糸工業。ICを特殊な樹脂でコーティングする技術を持っていた。その名は、ハイブリッドIC。担当者は言った。「自分たちの技術が広がるのであれば、協力します」。重松は、ハイブリッドICを取り寄せ、回路につけた。その上をプラスチック製の強化カバーで覆い、防御システムとした。尿と同じ塩分を含んだ水を浴びせた。恐れていた漏電、克服した。

昭和55年6月。ついに温水洗浄便座が完成。洗えるトイレ「ウォシュレット」と命名され、全国で販売がはじまった。3か月が経った。本村は営業担当者に呼び出された。「すぐに来い」。駆けつけた本村。声をあげた。

どうしよう。

廊下に返品されたウォシュレットの山ができていた。重松自慢の温度制御システムが謎の故障。突然、温水が冷たい水に変わった。返品の山の前で、プロジェクトメンバーは立ち尽くした。

昭和55年暮れ、返品の山は増え続けていた。リーダーの本村、円形脱毛症になった。しかし、重松に言った。「これは革命商品だ。もう一度、頑張れ」。重松、湯が水になる原因を突き止めた。ヒーターの電熱線が真っ二つに切れていた。38度を維持するため、1日1500回のオン-オフ信号がICからヒーターに伝えられる。その都度、電熱線が収縮を繰り返し、金属疲労で断線した。ハイテク製品故のトラブルだった。

完璧な、あの、まあ商品を作り込めてなかったということで、まあ、開発者としては非常に責任を感じましたね。

修理のため、メンバー総出で全国を回った。「とんだインチキだ!」。罵声を浴びながら、トイレに潜り、電熱線を換えた。仲間に済まない。重松は、新型ヒーターに打ち込んだ。アルミ箔の電熱線をステンレスに換え、さらに断線を防ぐため太くした。すると、連続3000時間、38度のお湯を出し続けた。商品は完成した。一度拒否された商品。「俺に宣伝をやらせてくれ」。名乗り出たのは岩塚守男。10年前、雑誌と新聞からお尻はタブーだと、広告を拒否された男だった。

ならば、テレビCMに賭ける。命運を託したい男がいた。仲畑貴志、34歳。ウォークマンやウイスキー担当する商品を次々とヒットさせる天才コピーライターだった。昭和56年12月。岩塚はメンバーと仲畑を訪問。引き受けてほしいと商品説明を始めた。しかし、仲畑が首をひねった。「商品価値がピンと来ません」。そのとき、メンバーの池永が立ち上がった。最も長時間トイレで実験を続けてきた池永。青い絵の具を自分の手に塗り付けると仲畑に言った。「この絵の具を紙で拭いてください」。仲畑が拭いたが汚れは落ちない。池永が言った。「お尻だって同じです。水で洗えば綺麗になります。常識への戦いなんです」。

その商品に惚れてるわけですよね。まあ、一生懸命にアピールしたんでしょうね。やっぱり。

仲畑は汚れた手を睨んだ。かつて工業高校で旋盤に向かい、技術者を目指した日々があった。

やっぱり、新しい、そういう新しいものっていうのは、何か世の中をワクワクさしてくれる力があって、広告屋として担当させてもらえれば、もう、そんな幸せなことはなくて。

仲畑は言った。「地に足がついた技術で作られた商品ですね。担当させてください」。4ヶ月後、本社に取締役とメンバーたちが集められた。仲畑がCMのキャッチコピーを発表する日だった。静かに赤いペンを走らせる仲畑。高らかにコピーを掲げた。皆、息をのんだ。『おしりだって、洗ってほしい』。タブーのはずの「おしり」の3文字が書き込まれていた。仲畑は語った。「これは、ソニーのウォークマンやニコンのカメラ、そうした商品に負けない技術です。堂々と勝負しましょう」。

トイレっていうものを、何も後ろ向きに見ることなくて、正々堂々と胸張って、提案して行こうっていう。

宣伝担当の岩塚、胸のすく思いがした。

みんなが表現したかったことを、代わりに言っていただけたというか。もう、感激。その言葉のみですね。

リーダーの本村、痺れた。

それだけ評価してもらえる。嬉しいな、という感じが非常に強かったですね。

運命のCM放送日が来た。岩塚は、放送時間をあえて夜7時台に絞った。それは、一家団欒、食事の時間。岩塚、本村、テレビを見続けた。7時10分、CMがはじまった。 こうして紙で拭く人っていませんわよね。紙じゃ、とれません。おしりだって同じです。おしりだって、洗ってほしい。

そのとき、宣伝課の電話が一斉に鳴り始めた。「飯を食っている時間に、便所の宣伝とは何だ!」。激しい抗議の電話だった。岩塚は部下に言った。「俺が替わる」。受話器を取ると語りかけた。「皆さんは今、食事をされています。それと同じくらい、排泄も尊い行為です。暮らしを快適にする商品です。自信と誇りを持って作っています」。長い電話になった。皆、岩塚に倣い、懸命に説明を続けた。一月後、クレームの電話はゼロになった。仲畑のコピーとともに新型便座の名は日本中に広がり、全国から注文が殺到した。10万台を超える大ヒット商品となった。日陰の商品だったトイレ。若者たちがトイレ革命を成し遂げた。

温水洗浄便座の開発から22年。機能は更に充実。日本の家庭の実に5割に取り付けられた。今やインテリア売場に置かれる。世界20カ国に輸出。デジカメ、ウォークマンに並ぶ、日本が誇る世界商品となった。温度制御システムの開発を成し遂げた重松俊文さん。第一号機を、長く痔に苦しんでいた父明久さんに届けた。よろこんで欲しいと思った。息子の作ったトイレに座り、父はニッコリ笑った。「お前は、いい仕事をしているな」。

親父が一番喜んだプレゼントじゃないかなというふうに思います。親孝行できたかなと。

リーダーの本村久さん。平成6年、定年を迎えた。最後の日、工場を訪ねた。33年前、トイレは尊い商品だと教えてくれた工場長。不浄といわれ、宣伝すら拒まれた日々。工場を覗くと、若い技術者たちがひたむきに最新トイレと向き合っていた。

なかなか、他の人が経験できないことですしね。ある意味では、非常に幸せだった。我がトイレ人生に悔いはなしと。

一途に仕事を続けた者だけが喜びに辿り着ける。その思いに浸った。

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