レトリックは大衆化された論理学である(カイム・ペレルマンによる)
▽レトリックは、日常的な思考(いつものものの考え方)を分類・整理したものである。言い換えれば、レトリックは〈発想〉と関わるものである。
▽発想とは、表現の背後に想定されるもののことだが、発想や表現の本質は〈単純な命題の組み合わせ〉にある。この命題の組み合わせを体系化するものがレトリックである。
「話し手と聞き手との間に魂の触れ合いが予めなければならぬ。言論は聞かれなければならず、本は読まれねばならない。聞かれもせず、読まれもしないならば、何もなかったことになる(ペレルマン1980:32)」
▽ことばには、必ず聞き手が存在する。スピーチでは、聞き手の存在を意識することが重要である(例:原稿を棒読みにしない)。
「限られた人を相手とする言論が説得を目指すものであり、普遍的聴衆を相手とする言論は確証を目指すものである。(ペレルマン1980:42)」
▽会場の聴衆を相手に行なうスピーチは説得を目指す。厳密な議論は必要なく、複雑な話をする必要もない。
▽目的が説得である場合、手段は問われない。スピーチでは自分の信じていることのみを言う必要はないし、内容が事実である必要すらない(例:脚色、フィクション)。
「テレビは複雑な話は語らない。事実、同じ話を繰り返し繰り返す傾向がある。それがプログラムやフォーマットの意味である。テレビ番組の圧倒的多数は、現実の社会的葛藤の複雑なニュアンスを意図的に避けている。物事を手際よく小ぎれいに解決する。しかも、あらかじめ決められた、三十分なり一時間という時間枠のなかで。長編小説や短編小説は、読者を曖昧さに直面させ、読者に意味をじっくりと考えるように促すが、それと違ってテレビ番組は、あちらの側で要約してまとめてくれる。テレビ番組は、どんな問題を提示しても、その回答をすぐに与えてくれる。テレビ・ショーは皆、カタルシスを提供している。情報を提供している。(サンダース1998:57)」
▽スピーチで難しい話を語る必要はない。また、同じことをくり返すことも有効である。
表現は"expression"の訳語だが、expressionは以下のように分析できる。
expression→ex(外へ)+pression(押し出す)
▽外へと拡張するということは、内部を外部にとりこむということである。表現が〈考え〉を外に出すということなのなら、表現は外部の世界を自分の内部にとりこむことでもあることになる。つまり、表現することは、自分の考えを伝えるというだけでなく、世界を自分自身が知ることでもあるわけである。
「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するものではなく、見るようにすることにある(クレー1973:122)」
ことばとは、それ自身では不定形の思考に形を与えるものである。(フェルディナン・ド・ソシュールによる)
▽表現は思考に形を与える行為であり、形を持つことで表現=思考は人間の感覚にとられられるものになる。