cinema / 『21グラム』

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21グラム
原題:“21 grams” / 監督・製作:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ / 脚本:ギジェルモ・アリアガ / 製作総指揮:テッド・ホープ / 撮影:ロドリゴ・プリエト / プロダクション・デザイナー:ブリジット・ブロシュ / 編集:スティーヴン・ミリオン / 衣装デザイナー:マーレーナ・スチュワート / 音楽:グスターボ・サンタオラヤ / 出演:ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロ、シャルロット・ゲンズブール、メリッサ・レオ、クレア・デュヴァル / 配給:GAGA-HUMAX
2004年06月05日日本公開
2004年11月05日DVD日本盤発売 [amazon]
公式サイト : http://www.21grams.jp/
新宿ピカデリーにて初見(2004/06/05)

[粗筋]
 クリスティーナ・ペック(ナオミ・ワッツ)は平凡で幸せな主婦だった。建築家の夫マイケルと娘二人に囲まれた平穏な日々は、だが唐突に終わりを告げた。携帯電話の留守録に入っていた夫からのメッセージを確認した直後、自宅の電話が鳴り響き、夫と娘二人が揃って轢き逃げにあったという連絡をクリスティーナに齎した。娘一人は即死、もうひとりは出血多量で間もなく絶命し、マイケルは脳死状態に陥った。絶望に噎ぶクリスティーナは更に、過酷な選択を突きつけられる。ドナーとして、マイケルの心臓を提供するか否か。
 ジャック・ジョーダン(ベニチオ・デル・トロ)は無数の犯罪歴を持つろくでなしだった――かつては。キリスト教との出会いから改心、信仰に目醒めたジャックは二年前に出所して以降は真っ当な暮らしを送るようになる。ただ、あまりに行き過ぎた信仰心は時として家族から煙たがられ、過去を窺わせる刺青のために仕事は長続きしなかった。それでも、ジャックは神の思し召しとすべてを受け入れていた。クジに当選して自分の車を手に入れたことも、また。だが、彼の誕生パーティーの夜、そうして幸運で手に入れた車で人をはね、いちどは逃げおおせてしまったことが、ジャックを絶望に追いやった。
 ポール・リヴァース(ショーン・ペン)は心臓疾患のために余命一ヶ月と宣告された。数学の教授として高いプライドを持ったポールにとって、妻の収入に依存し、ヘルパーに介護される生活は決して望ましいものではなかった。妻の目を盗んで禁じられた煙草を呑み、ヘルパーを勝手に解雇しながら、遺してしまう妻のために人工授精を承諾した。だが、その直後の深夜、彼に新たな心臓を提供するドナーが現れた、という連絡が入った。
 ――三人を送ったあと、クリスティーナは抜け殻になった。スポーツセンターのプールで泳ぎ、かつて嵌っていたドラッグにふたたび手を染め、誰とも会話のない乾いた生活を送っていた彼女の前に、ある日ポールが姿を現す。
 皮肉にも、健康を回復したことがきっかけで、ポールは妻マリー(シャルロット・ゲンズブール)との関係を悪化させた。通常、レシピエントにドナーの素性が明かされることはないが、ポールは自らの心臓の過去をどうしても知りたがった。その為に頻繁に探偵と接触していることが妻の不興を買っていた。そのうえ、妻の不妊の原因が、一時期訪れた別居期間にマリーが彼の子供を堕胎していたために妊娠が困難になっていた、という事実が決定打となり、二人の関係は一気に冷え込む。そうして、ポールはやがてドナーの妻であるクリスティーナの存在と、彼女の孤独を知り、彼女に接触を図ったのだった……

[感想]
 本編はちょっと変わった編集の仕方をしている。出来事を時系列通りに配置していない。視点に立つ人物が三人存在するので、それ自体は格別おかしなことではないが、序盤からかなりあとのほうの出来事を突如挿入し、一見平穏な生活や静かな言動の向こうにある波乱を予見させ、観客に対して謎を投げかけるとともに、異様な緊張感をかき立てる。
 だが、それが趣向として成り立つのは、登場人物の造型と物語の目指すところが極めて明確だからだろう。視点人物は三人、ひとりは事故によって愛する家族三人を一瞬にして失った女、ひとりは信仰によって過去を断ち切ったと思った矢先にその事故を起こしてしまった男、もうひとりはその事故によって新たな命を与えられた男――三者のあまりに明白でいて、実際的にも感情的にも多くの矛盾を孕んだ、しかし決して特別ではない人物像がきちんと完成されており、それが止めるべくもなく結びついていく様が自然であることが、編集の冒険を支えている。
 そのくせ、決着は容易に想像できない。ポールとの出会いを契機に、家族を失ったことから来る虚脱状態をようやく抜けだし、感情を蘇らせたクリスティーナは、加害者であるジャックに対して復讐することを誓い、それをマイケルの心臓を受け継いだポールに託す。健康を取り戻した代わりに妻との確執が顕在化し、暮らしに目的意識を持てなくなったポールはクリスティーナに接近するが、その結果クリスティーナに復讐を託され、同時に辛い事実をも知ることとなる。加害者であるジャックは、いちどは地獄のような生活から救ってくれた“信仰”があることにより、逆に激しい罪の意識に苛まれる、というジレンマを課せられてしまった。自ら死を選んでも許されず、潔く刑期を勤めようとしても、ふたたび何年も子供達に父親のいない苦痛を味わわせることを拒む妻によって雇われた弁護士が彼を外へと連れ出してしまう。自分の子供でさえ彼が“人殺し”と知っている状況から、ジャックはどうやって抜け出せばいいのか。途中、親しい牧師に向かって、自らの頭を指しながら口走る「地獄はここだ」という台詞があまりにも重い。彼らのそうした姿が悲惨な形で巡り会うことを予見させながら、そのあとどうなるかは予想しがたいのだ。
 そうして煩悶する彼らの様子が時間軸を相前後して描かれ、じわじわと結束していく。その後の行動が解りながらも結果が見えない、という状況が緊張感と、行動ひとつひとつの重みを深めていく。さりげない描写ひとつひとつがキリキリと胸に穴を穿つようだ。
 一方で、本編には決して特異な人物が登場していないことも注目の必要がある。メイン三人は無論のこと、余命一ヶ月のポールとの繋がりを求めて人工授精を願い、その夫との絆が薄れてからも執着する妻マリー、事故を告白したジャックに対して出頭せずに家に残り子供達のために生きるべきだと懇願し、車を売って捻出した費用で弁護士を雇い夫を刑務所から連れ出したマリアンヌ(メリッサ・レオ)――物語全体を俯瞰すると、主役格を追い込んでいるだけに見える彼女たちの行動もまた、常識的には逸脱しておらず、共感できる人も少なくないはずだ。その、あまりにも感覚が身近であることが、物語の重みを増している。
 結果として訪れるラストシーンは、その場では不条理なものに感じられるかも知れない。何故彼らはああいう選択肢を選んだのか、なぜ彼らはある者を許し、ある者から奪い、遺していったのか――容易には受け入れがたい、という思いを抱く人も少なくないだろう。だが、それこそがこの物語の重みを最後に立証するものだ。
 何より、気づいて欲しい点がある。物語の最後は、ある一部を除いて、すべては最初にそうなるはずだった結果を齎しているだけだということ。もしかしたら、はじめからそうなるべきところに戻っただけだったのかも知れない。だが、この関係者の心を切り刻むような出来事がもしなかったら、彼らはそのあるべき結末を受け入れられたかどうか。
 現象としての救いはない。ただ、たとえネガティヴではあっても、遺された人々には確実に生きるための力が与えられている。たとえこの先、更なる苦しみが待ち受けているのだと解っていても、それでも作中彼らが繰り返し呟くように、「人生は続く」。
 題名は、人が死んだとき、その肉体から現実に失われる正体不明の“重さ”を意味している。5セント硬貨5枚、ハチドリ1羽ぶんの僅かな重さが齎すものに、思わず震えさえ感じる――そうして、見たものに必ず何かを遺す、畢生の名作。
 正直なところ、大スクリーンで観る必要はない、と思う。基本的にハンディカメラのみで撮影し、主要登場人物三人とその周辺だけに焦点を絞った物語と映像は、本来ミニシアターかそれよりも小さな画面のほうが似合う。ただ、どんなコンディションであっても、観て損はない一篇であることは保証する。

(2004/06/06・2004/11/04追記)


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