cinema / 『25時』

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25時
原題:“25th hour” / 原作・脚色:デイヴィッド・ベニオフ(新潮文庫・刊) / 監督:スパイク・リー / 製作:スパイク・リー、ジョン・キリク、トビー・マグワイア、ジュリア・チャスマン / 製作総指揮:ニック・ウェクスラー / 撮影:ロドリーゴ・ブリエト,A.S.C.,A.M.C. / 美術:ジェイムズ・チンランド / 編集:バリー・アレグザンダー・ブラウン / 衣装:サンドラ・ヘルナンデス / 音楽:テレンス・ブランチャード / キャスティング:エイシャ・コーリー / 出演:エドワード・ノートン、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ペッパー、ロザリオ・ドースン、アンナ・パキン、ブライアン・コックス、トニー・シラグサ、レヴァーニ、DJサイファサウンズ / 配給:Asmik Ace
2002年アメリカ作品 / 上映時間:2時間16分 / 日本語字幕:松浦美奈
2004年01月24日日本公開
2004年09月10日DVD日本発売 [amazon]
公式サイト : http://25thhour.jp/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2004/01/31)

[粗筋]
 モンティ(エドワード・ノートン)の飼っているのは、麻薬取引に出かける道中、瀕死の有様で道端に転がっているのを拾った犬だった。全身に煙草を押しつけられ虫の息だったにも拘わらず、とどめを刺してやろうとしたモンティに吠えたその犬を気に入って、モンティは動物病院に連れて行った。ものの名前を覚えようとしない相棒コースチャ(トニー・シラグサ)の台詞から取って、ドイルと名付けた。
 それは、モンティが自分の生涯でたった一度成し遂げた「いいこと」だった、と、その日を目前に控えてモンティは述懐した。何者かの密告により、プエルトリコ系の恋人ナチュレル(ロザリオ・ドースン)と暮らすアパートに麻薬取締局が踏み込んできて、ソファのクッションに隠してあった札束と、1キロを越える麻薬の固まりを押収されたモンティは、ニューヨーク州知事だった頃のロックフェラーが制定した州法によって、有無を問わず実刑が確定した。明日から七年間の刑期、アイルランド系である彼に味方はなく、顔立ちの整った白人青年を待ち受けているのは屈辱の日々だと解っている。たとえ無事に刑期を勤め上げたところで、明るい未来の保証など何処にもない。
 選択肢は三つある、とウォール街で成功を収めつつあるモンティの幼馴染みフランシス(バリー・ペッパー)は、グラウンド・ゼロを見下ろす彼のアパートメントで、やはり幼馴染みでロシア系の悩める英語教師ジェイコブ(フィリップ・シーモア・ホフマン)に言って聞かせる。ひとつは、何もかも捨ててニューヨークを逃げ出すこと。もうひとつは銃口を脳味噌に向けて引き金を引くこと。もうひとつは七年間の刑期を勤めること――いずれにしても、明るいそぶりをして送り出すのは難しかった。
 今夜、モンティと縁のあるクラブで送別会を催すことになっている。モンティの取引の元締めをしていたニコライ(レヴァーニ)が有名なDJダスク(DJサイファサウンズ)を招いてフロアを盛り上げるその片隅で、モンティと古い友人たちは、複雑な思いを秘めながらグラスを酌み交わすのだった……

[感想]
 あの日以来、アメリカで製作されるほとんどの映画から、ワールド・トレード・センターの姿が消されるようになった。他でもない、本編の製作に携わったトビー・マグワイアをスターダムに押し上げた娯楽大作『スパイダーマン』でもCG処理により覆い隠され、その惨状から目を背けることでどうにか明るい未来を模索しようとしているかのように。故に、2002年にカナダ作品として発表され2003年前半の話題を攫った『ボウリング・フォー・コロンバイン』で、あの衝撃的な場面がそのまま使用されているさまが衝撃的だったのだ。
 本編の制作時期はほぼ『ボウリング〜』と同一だろう。つまり、ほぼ時を同じくして、初めて本気であの傷跡に目を向けた作品が製作されていたわけだ。その事実に、まずちょっと驚いた。
 粗筋を御覧いただければ解るとおり、本編の基本的な筋はあのテロとも、その後の戦争ともまったく関係はない。あるひとりのハンサムで頭も切れる若者が、たった一度の裏切りで事実上人生にピリオドを打つこととなり、最後の自由な時間のあいだに限られた選択肢から最後の道を選ぶ、という非常に重い一日を描いた、だがシンプルな物語である。大きな仕掛けやどんでん返しがあるわけでもなく、若者=モンティは幼い頃からの親友たち、逮捕以来疎遠となっていた仲間たちと最後の時間を過ごし、そして運命の朝を迎える。
 エピソードを単純に連ねただけなら、ただ淡々とした退屈な映像が続くばかりになるだろうが、そこはヒップホップの感覚をいち早く映画に導入したスパイク・リー監督だけあって、実にリズミカルに、二時間を越える尺の長さをほとんど感じさせることなく活写していく。ある一場面を別アングルで、やや行動を重複させながら描く手法で物語にテンポを生み出している、といった技巧的な点もさることながら、細かにコミカルな要素を含んでいることも作品の単調さを軽減している。冒頭のモンティと物覚えの悪いコースチャのやり取りをはじめとして、終業のベルと共にまさしく蟻の子を散らすように立ち去っていく生徒たちの姿とか、フランシスとジェイコブの女性観を巡るやり取りとか、その深刻な背景を察していても妙に可笑しい。なかでも白眉と言えるのが、モンティがレストランのトイレにある鏡に映った自分に延々と毒づくシーンだろう。恐らくアメリカで暮らす白人の若者なら一度ぐらいは感じるだろう不満や恨み辛みを果てしなく並べ立てる一幕は、それ故に滑稽さとおぞましさの境界線を思わせて、迫力をたたえると共に奇妙な楽しさを感じさせる。
 同時にここは、恐らくスパイク・リー監督が本編の通底音として響かせたかったメッセージをいちばん剥き身のまま投影した場面でもある。時間制限付きの命を生きる若くハンサムな白人青年――麻薬密売に手を染め、大金を稼ぎながら裏切りによって告発され、死に直結しかねない監獄へと送り込まれる運命にある彼が剥き出しにする感情は、そのままアメリカという社会のカリカチュアだ。アメリカ都市部に暮らすあらゆる民族に毒づきテロリストに憎悪を突きつけ、果てはキリストにまで繰り言を漏らすモンティの姿は不遜でも傲慢でもなく、ごくありふれた若者としか映らない。顔を背けていた方角から突然飛び込んできた旅客機に深手を負い、その憤りを何処にぶつけていいのか解らずにいるさまは、まさに現代のアメリカの姿そのものなのだろう。際限なくあらゆるものに罵詈雑言を飛ばす鏡の向こうの自分に、最後になって「いや、いちばんのクソはお前だよ、モンティ」と言い放つのも、また偽りのない想いではないか。
 その生々しさを題材として採りあげる以上、グラウンド・ゼロから目を逸らすことも出来なかったのだ。だから、オープニングタイトルにはワールド・トレード・センターの代わりに天に向けられた照明を映し、死地に赴くも同然の友人の境遇を語る男ふたりの背景に、最も沈鬱な後始末を黙々と続ける人々の姿を入れ込んだのだ。日本では奇しくもほぼ同時期に公開されることとなった、オムニバス映画『10ミニッツ・オールダー』のなかの一篇「ゴアVSブッシュ」と、手法はまったく異なるが同一のテーマを別の切り口から描いた作品と言えるだろう。
 だが、しかし。
 所詮人生はあらゆるものに喩えることが出来る。どれほど物語が現実のアメリカ社会と似ていようと、そんなことなど無視してしまっても構わないのだ。発端を誤ったことで人生を台無しにしてしまった若者が最後に経験する濃密な数時間を描いた、シンプルな青春映画だと捉えても、何ら差し支えはない。
 本編のラストシーンには具体的な結論は何もない。確かな未来像を提示するわけでもなく、その後のモンティがどうなったのかは実のところ定かではない。ただ、モンティとの別れの場面で号泣するフランシスの姿に、或いはモンティの父ジェイムズ(ブライアン・コックス)が語る言葉に、ほのかな希望をたたえるばかりだ。
 未来はまだ決まっていない、と自明なことを綴って陳腐にも教条的にも陥っていない。生々しくて厳しくて、それでいて不思議な暖かみのある作品。

 ちなみに、粗筋にも感想にも登場させられませんでしたが、アンナ・パキンはジェイコブの生徒という役柄。モンティに直接関わらない彼女が果たすのは、ジェイコブら友人たちの物語を深める役割である。言及しきれなかったものの、御覧の際には是非脇役の深みにも注目していただきたい。いや寧ろ、日本人はこのジェイコブ先生の言動にこそ感じるところがあるかも知れません。
 更に関係のない話だが、バリー・ペッパーはクリストファー・ウォーケンをそのまま若くしたようなイメージがある。観ながら面影が重なって仕方なかった。……だからどーということもないけど。

(2004/01/31・2004/09/10追記)


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