cinema / 『コンスタンティン』

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コンスタンティン
原題:“Constantine” / 監督:フランシス・ローレンス / 脚本:ケヴィン・ブロドビン、フランク・カペロ / 原案:ケヴィン・ブロドビン / DCコミック刊“ヘルブレイザー”のキャラクターに基づく / 製作:ローレン・シュラー・ドナー、ベンジャミン・メルニカー、マイケル・E.ウスラン、アーウィン・ストフ、ロレンツォ・デポネヴェンチュラ、アキヴァ・ゴールズマン / 製作総指揮:ギルバート・アドラー、マイケル・アグィラー / 撮影監督:フィリップ・ルスロ,A.F.C.,A.S.C. / 美術:ナオミ・ショーハン / 編集:ウェイン・ワーマン,A.C.E. / 衣装:ルイーズ・フロッグリー / 視覚効果:マイケル・フィンク / 音楽:ブライアン・タイラー&クラウス・バデルト / 出演:キアヌ・リーヴス、レイチェル・ワイズ、シア・ラブーフ、ジャイモン・フンスー、プルイット・テイラー・ヴィンス、ギャヴィン・ロズデイル、ティルダ・スウィントン、ピーター・ストーメア / 配給:Warner Bros.
2005年アメリカ作品 / 上映時間:2時間1分 / 日本語字幕:林 完治
2005年04月16日日本公開
公式サイト : http://www.constantine.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/04/21)

[粗筋]
 人間の住む世界は、天国と地獄の中間にある。天使も悪魔も、基本的に人間の住む世界に姿は見せない。ただ、時折“干渉”してくるのだ、その狭間に棲む者たち=ハーフ・ブリードをはじめ、様々な手段を介して。
 そのふたつの世界を目撃し、認知することの出来る能力を備えた男、ジョン・コンスタンティン(キアヌ・リーヴス)はいま、その力を駆使してにわかエクソシストを務めている。別に望んだわけではなく、ほかにすることがないからだ――加えて、強い能力を備えながら、日々耳許に囁きかける声に屈して酒浸りになり、些細な“悪魔払い”も困難になってしまったヘネシー神父(プルイット・テイラー・ヴィンス)のお呼びがかかれば、友人として出向かないわけにはいかない。
 その日の悪魔払いも、簡単に終わると思っていた。だが、ベッドに括り付けられた少女と相対してみて、それが並々ならぬ相手であることを悟ると、話は違った。少女に取り憑いていたのは、悪魔の騎士――現世には来るはずのない、本物の悪魔だったのだ。並ならぬ事態が発生していることを直感したコンスタンティンはヘネシー神父に、お守りを外し“囁き”に耳を傾け、異変の兆候を探して欲しいと頼む。
 教会の外にありながら最強と言ってもいい力を備えたコンスタンティンだが、若いころからの慢性的な喫煙癖によって躰はボロボロで、既に“あちらの世界”に足を踏み入れかけていた。だが、幼いころから三つの世界を目の当たりにした彼には簡単に死ねない理由がある――今のままでは、確実にコンスタンティンは地獄に迎え入れられる。己の目にする異常な世界に耐えきれず、いちど自殺を図った彼は天国に受け入れてもらうことは出来ない。現世にいる大天使ガブリエル(ティルダ・スウィントン)に、どれだけ悪魔を葬れば救いが与えられるのか、と詰問すると、返るのは冷たい答だった――幾ら貢献しようと変わりはない。自分のために行う悪魔払いでは意味がないのだ、と。
 ――同じころ、刑事のアンジェラ・ドッドソン(レイチェル・ワイズ)の身に不幸が降りかかった。精神病院に収容されていた双子の妹イザベル(レイチェル・ワイズ=二役)が投身自殺したのだ。“異界のもの”を見てしまう彼女を案じて両親と共に加療を続けたアンジェラだったが、文字通り水泡に帰してしまった。しかも、カトリックである彼女は、自殺という大罪を犯したために、公式に葬ってもらうことさえ出来ない。
 アンジェラは意地になった。敬虔な信徒であったイザベルが自ら死を選ぶはずがない、背景にきっと何かがあるのだ――そう信じ込んだアンジェラは単身調査に乗り出すが、状況はすべて自殺を証明している。病院の監視カメラが捉えていた自殺の一部始終を、意味もなく繰り返し見返していたアンジェラは、一瞬こちらを顧みた妹が何かの名前を口にしたように思った。しかし、場面を巻き戻しても何故か再現しない。しかし、その名前ははっきりとアンジェラの耳に残っていた。“コンスタンティン”――妹は間違いなくそう言った。
 一方コンスタンティンは、非常事態に備えて武器の充実を図っていた。だが、まったく油断していた隙に悪魔の襲撃を受け、猶予があまりないことを悟ると、やはり異能の人間として悪魔払いを生業としていたが、やがてハーフ・ブリードを受け入れる中立地帯として機能するナイトクラブを経営するパパ・ミッドナイト(ジャイモン・フンスー)のもとを訪れ、協力を請う。だが、その場に居合わせた地獄方のハーフ・ブリードであるバルサザール(ギャヴィン・ロズデイル)の睨みもあって強く請うことは出来ず、加えて喀血の発作に襲われたコンスタンティンは這々の体で店を出る。
 帰宅し僅かな余命を削るように煙草を吸いグラスを傾けるコンスタンティンのもとを、アンジェラが訪ねてきた……

[感想]
 主演であるキアヌ・リーヴスは本編を、『マトリックス』に続く作品と認識してマスコミに語っていた節がある。確かに、フラッシュ風の止め絵や特殊なカメラワーク、CGによって構築された地獄の様相などの映像美、そしてどこかダーティな雰囲気を纏った主人公のイメージにも『マトリックス』を彷彿とさせるものがある。だが、根本にSFへの憧憬と造詣の秘められていたあちらと、オカルトやキリスト教(特にカトリック)に対する知識に裏打ちされた本編とは、根本のところが異なっている。あまりそういう格好で期待しすぎると肩透かしを食いかねないのでご注意を願う。
 本編の世界観は、言ってみれば行き着くところまで行き着いてしまった『エクソシスト』だ。カトリック正教会に所属する、悪魔払いを生業とする彼らの存在はあの傑作映画によって世間に広く認知されたが、同じテーマを真っ向から扱ってあの作品を超えたものは今のところ存在しない。ドキュメンタリータッチで悪魔との対決の過程を描写する一方、その怪異を生々しく画面に焼き付けてしまったあの作品以上の“恐怖”と“臨場感”を演出するのは並大抵のことではないだろう。故に追随する製作者は勢い、異なったアプローチから挑まねばならなくなる。その“異なったアプローチ”として、本編は真っ当であり、また極限にあると言ってもいいのではないか。
 タイトルロールであるコンスタンティンは、現世にありながら天国と地獄とを垣間見ることが出来る。双方の使者は直接人間界に出没することはないが、中間点にいる存在=ハーフ・ブリードなどを介してあるときは災いを、あるときは幸いを齎している。力がある故に、コンスタンティンは災いを為す悪魔の正体を覗き見ることが出来るために、最終的にそれを生業とすることを選んだ。だが、有り余る力は彼にとって恩寵ではない。この世ならぬものを見てしまい、干渉にも限度があることを自覚するのは苦痛以外の何ものでもないだろう。作中にはやはり同様に異界のものを目にすることの出来る人々が登場し、それぞれが苦悩の果てに選択した道を窺わせる。しかもその苦しみの理由は、悪魔から齎されるものばかりではない。神がこれほどの至難を与えながら、報償をも同時に齎してくれる存在ではないことを知ってしまうことにもある――結果、彼らは揺るぎない信仰を抱きながらもその意義について懐疑的でいるほかない。その極点にあるのが、コンスタンティンの過去の行動であり、遂に彼を死の淵にまで追いやろうとしている喫煙癖である。
 きちんとキリスト教を把握し、解釈したからこそ辿り着ける設定であり、根底には真摯な態度が窺われる。特に“神”の意思に対して懐疑的にならざるを得ない現代の社会情勢を鑑みれば、この設定は非常に現代的であり説得力に富んでいると言えよう。ほか、重要なアイテムとして登場する、イエスを刺し貫いた“運命の槍”やコンスタンティンが扱う各種のオカルト的装飾の為された武器の類にも、研鑽の痕跡がある。かといって過剰に設定を語ったりせず、程良く遊戯じみていることで娯楽映画としてのバランスも保っている。このあたりの匙加減が絶妙だ。
 ただ、その一方で、やはり宗教的解釈に深入りしすぎて、キリスト教の定義や理念にまるで興味を抱けない向きには結末の展開が理解しづらくなっている、という欠点も否めない。話運びも実に堂に入ったもので、随所に見せ場があるのだが、それは反面全体を通しての波を均してしまうという弊害をも齎している。結果、オカルト的なガジェットに興味が持てないままだとただただ退屈な代物になってしまうのである。観客の姿勢次第ではあるのだけれど、娯楽映画として、また世界各国に提供されるコンテンツとしては少々問題を抱えてしまっている。
 しかし、設定に対する真摯さを反映してか、ヴィジュアルや音響の面でもよく練り込まれた様子があり、その点で不満を抱く向きは少ないだろう。現世で発生する怪奇現象のヴィジュアルも、有り体なグロテスクさばかりではなく、たとえば突如消えていく街灯や火を灯したように赤い瞳といった捻った格好で提示されたかと思うと、悪魔や天使の翼をそのまま画面に描き出してしまう大胆さも覗かせる。一方で、悪魔によって害を被る場面では、直接の干渉をさせない点にもセンスを感じた。
 とりわけ強烈なのが地獄世界の情景描写である。岩と砂だらけの荒涼とした情景ではなく、文字通りの煉獄として描いており、その迫力は著しい。コンスタンティンは幾つかの手段によって自ら地獄へと直接赴くのだが、その接触の仕方や結果もなかなかに効果的で巧い。
 惜しむらくは、均質にアイディアやセンスを注ぎ込んでいるために、全体に平板で『マトリックス』などのような突出した見せ場を欠いてしまったことだろう。いったん気を惹かれれば瞬く間に捉えられてしまうが、理解が半端だったりまるっきり懐疑的でいると最後まで曖昧とした感じしか受けないはずだ。
 かなり乗って観ていたとしても、終盤の出来事には若干の疑問を抱く恐れもある。張り巡らせた伏線にうまく乗っかったクライマックスなのだが、同時に様々な綱渡りをしているようにも思える。この手のオカルト映画では考えられなかった“大物”をかなり説得力充分に引っ張り出した点だけでも個人的には評価したいが、反則スレスレであったことも否めない。
 あれこれと欠点をあげつらったが、全般としては製作者の真摯な態度が窺われる、かなり高い水準にある娯楽映画と言っていい。決して正義のために動いているわけではない、如何にも昨今のアメコミ・ヒーローらしくも、しかしそれが堂に入ったキアヌ・リーヴスの勇姿が拝めるという点だけでも一見に値する良作である。

 なお、本編はエンドロールあとにもひと場面残っているので、画面が文字だけになってもすぐに席を立たないよう願います。ただの付け足しではなく、救いであると同時に本編でコンスタンティンが抱えている苦悩を微妙に増大させる、なかなか洒落たエピローグだと思いました。

(2005/04/22)


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