cinema / 『ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ』

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ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ
原題:“Hide and Seek” / 監督:ジョン・ポルソン / 脚本:アリ・シュロスバーグ / 製作:バリー・ジョセフソン / 製作総指揮:ジョー・カラッシオ・Jr. / 撮影監督:ダリウス・ウォルスキー,A.S.C. / 美術:スティーブン・ジョーダン / 編集:ジェフリー・フォード / 共同製作:デイナ・ロビン、ジョン・ロジャース / 衣装:オード・ブロンソン=ハワード / 音楽:ジョン・オットマン / キャスティング:アマンダ・マッケイ・ジョンソン,C.S.A.、キャシー・サンドリッチ・ゲルフォンド,C.S.A. / 出演:ロバート・デ・ニーロ、ダコタ・ファニング、ファムケ・ヤンセン、エリザベス・シュー、エイミー・アーヴィング、ディラン・ベイカー、メリッサ・レオ、ロバート・ジョン・バーク、モリー・グラント・カリンズ、デイヴィッド・チャンドラー、アンバー・マクドナルド、ジョシュ・フリッター、アリシア・ハーディング / ジョセフソン・エンタテインメント製作 / 配給:20世紀フォックス
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間42分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2005年04月23日日本公開
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/hideandseek/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/04/23)

[粗筋]
 心理学者デヴィッド・キャラウェイ(ロバート・デ・ニーロ)はしばらく休職し、ひとり娘エミリー(ダコタ・ファニング)を連れて郊外へと転居した。血まみれの浴槽に横たわる母アリソン(エイミー・アーヴィング)の屍体を目の当たりにして以来鬱ぎ込んでいるエミリーを気遣っての行動であった。デヴィッドの教え子であり、エミリーの担当医でもあるキャサリン(ファムケ・ヤンセン)は自分に任せて欲しいと訴えるが、いまは環境を変えて気持ちを切り返させるのが先決だ、と言ってデヴィッドは引っ越しを行う。
 ニューヨーク郊外にあるウッドランドは湖の畔にある、人口2000人強の小さな集落である。デヴィッドはこの土地の、森にほど近い静かな場所にある家を選んだ。都会にいるときは娘を顧みてやれなかった、という自覚の生じたデヴィッドは、極力娘と共に過ごし、エミリーのために遊び友達を作ってやろうと考えた。だが気になるのは、母が存命の時から“アレックス”と名付けて可愛がっていた人形を、エミリーが「もう要らない」と言って捨ててしまったことである。代わりにエミリーが口にした新しい友達の名前は、チャーリー。
 心理学者であるデヴィッドはそれが孤独に苛まれる思春期の子供によくある、頭のなかで創造した“想像上の友達”だと判断し、いよいよ友人の必要性を感じた。湖の近くで出逢ったエリザベス(エリザベス・シュー)とその姪エイミー(モリー・グラント・カリンズ)を自宅に招待し、娘とエイミーとを近づけようとするが、エミリーの奇矯な行動に初日にしてエリザベスの姪は音を上げてしまった。
 そのあいだにもエミリーは“チャーリー”と少しずつ親しくなっているようだったが、同時にキャラウェイ家の周辺に奇妙な出来事が起きるようになる。深夜、妻の屍体を発見した時刻にふと目醒めたデヴィッドが誘われるように浴室に向かうと、浴槽には包丁と、エミリーのクレヨンで壁に記された「お前が殺した」という文字――デヴィッドは我が娘に、自分が母親を殺したと思いこまれていると考えて、より懊悩を深める。だが、そんな生易しい程度で済まない事態に陥っていると悟ったのは、ふたたびの深夜、浴槽に沈められていた愛猫を発見した瞬間のことであった……

[感想]
 もっとがんばりましょう。
 予告編や各種プレスで公表されている情報のみからでも一目瞭然のスリラーである。しかも、“衝撃の結末は誰にも明かさないでください”という近頃ではお約束の文句も添えられている。ミステリ読みでサプライズ・エンディングにも拘りのある身としては否が応にも期待が高まろうというものである。
 ……30分ぐらいで解ってしまった。
 もともと予告編の内容から幾つかの可能性が思い浮かぶ。序盤のとある描写でその可能性のひとつに思い至ると、何とそのまんま、否定されもせずに佳境へと向かってしまい、まさに予想通りの真相が明かされる。残り時間のうちにもう一ひねりあるのかと思いきや、単に襲い襲われる展開が続くだけで、ラストもほぼ想像通り。単純にもほどがある。
 サプライズ・エンディングというのは基本的に作りづらい代物である。いちど使われたネタを多少捻っただけで再利用してもまるで感心されないし、極端なネタは荒唐無稽だと嘲笑われるだけに終わったりする。そんななかで敢えてこのスタイルに挑んだ意思は買いたい。が――ここまでひねりがないと、さすがにどうかと首を捻らざるを得ない。このネタのいったいどの辺に独創性を感じたのか、監督をはじめとする製作者を問い詰めたくなる。本編の脚本家はこれが初の長篇作品であり、「彼以外に手を入れることは出来ない」として、近年のハリウッドの流れに逆らい単独でのリライトを行ったというが、この出来ならスリラーに造詣のある第三者に監修なり補筆なりしてもらうべきだっただろう。
 また、公式サイトにある<超感動スリラー>という惹句もどうか。このクライマックスのどのへんに感動があるのか。ラストシーンから齎される余韻も、ある意味“感動”ではあるが、そういうコピーに一般客が期待するものとは異なっているだろう。広報担当者は更にきつーく問い詰めたいところである。製作者のほうはリップサービスで嘘も吐くだろうが、コピーでここまで詐欺紛いのことをしていいと思ってるのかおい。信用失くすぞ。
 と、かなりきつーく書いてしまうのは、ネタのひねり云々を別にすればけっこう堅実な仕上がりになっているからだ。サプライズの内容はさておいて、そこに繋げるための伏線の張り方は丁寧で、種明かしの場面では短時間のうちに纏めて、漫然と眺めている観客にも解りやすく仕掛けを解き明かしてみせる描き方はいい。説明のためにダラダラと長引かせがちな作品もままあるので、この点は評価されて然るべきだと思う。そういう意味では、処女作にしてはなかなかに練られた脚本だと言ってもいい。
 恐怖を盛り上げるための雰囲気作りもなかなか良かった。影と光を絶妙に配し、闇そのものの恐怖は無論、闇から光に転じる瞬間にも恐怖を感じさせる舞台設計とカメラワークがいい。出来ることなら、家の周辺にある森の拡がりや、恐怖の顕現に至るまでの“間”をもっと随所に鏤めて欲しかったところだが、概ね及第点と言っていい。
 何より主演ふたりの演技の質の高さは一見に値する。ちょっとした動きにも重厚感を滲ませるロバート・デ・ニーロは言うまでもなく、撮影当時10歳前後だったはずのダコタ・ファニングの表情が特に素晴らしい。初登場の場面ではまだふくよかで幼さを窺わせる笑みを浮かべていた少女が、母の死を境に一転無口になり、不気味な雰囲気を纏っていくさまを見事に表現している。恐らくはメイクであろうが、保育室での場面以降、頬が削げ目の落ち窪んだ姿には鬼気迫るものさえ感じた。名優デ・ニーロに一歩も引けを取らない名演ぶりである。
 そんなわけで、細部の作りそのものは標準のレベルにあるのだけれど、いたずらにサプライズを訴え意識させてしまったことで割を食った作品、という気がした。驚きから生じる恐怖よりも、その過程における緊張感を堪能するべきスリラーである。

(2005/04/23)


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