cinema / 『姑獲鳥(うぶめ)の夏』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


姑獲鳥(うぶめ)の夏
原作:京極夏彦(講談社・刊) / 監督:実相寺昭雄 / 製作:荒井善清、森隆一 / 企画:遠谷伸幸 / プロデューサー:小倉悟、神田裕司 / 脚本:猪爪慎一 / 脚本協力:阿部能丸 / 撮影:中堀正夫 / 照明:牛場賢二 / 美術:池谷仙克 / 編集:矢船陽介 / 衣裳デザイン:おおさわ千春 / 音楽:池辺晋一郎 / 世話人:明石散人 / 制作:GENEON ENTERTAINMENT、電通、日本ヘラルド映画、東急レクリエーション、小椋事務所 / 企画・製作プロダクション:小椋事務所 / 出演:堤真一、永瀬正敏、阿部寛、宮迫博之、原田知世、田中麗奈、松尾スズキ、恵俊彰、寺島進、原知佐子、三谷昇、すまけい、いしだあゆみ、清水美紗、篠原涼子、諏訪太郎、三輪ひとみ、京極夏彦 / 配給:日本ヘラルド
2005年日本作品 / 上映時間:2時間3分
2005年07月16日公開
公式サイト : http://www.ubume.net/
新宿ミラノ座にて初見(2005/07/16)

[粗筋]
 妊娠二十ヶ月を越えて、なおも身籠もったままということなどあり得るのだろうか――?
 いちおう作家という肩書きはあれど、生計を立てるためにカストリ雑誌の記事も手懸けている関口巽(永瀬正敏)は『稀譚月報』の記者・中禅寺敦子(田中麗奈)からそんな謎めいた話を持ちかけられる。江戸期には四国の大名の御殿医として栄え、開化ののち東京は雑司ヶ谷に開業した久遠寺医院の次女・梗子(原田知世)は戦後、ドイツで医学を学んだ牧朗(恵俊彰)と結婚したが、一年半前に牧朗は謎の失踪を遂げ、以来梗子の大きくなったお腹は現在まで赤子を産み落としてはいない、とのことだった。どうにも引っかかりを覚える関口は敦子の姉で学生時代からの友人・京極堂こと中禅寺秋彦(堤真一)を訊ねるが、一笑に付せられるばかりだった。
 京極堂との会話で梗子のもとへ婿入りした牧朗が一級上の先輩であったことを思い出した関口の不安はいや増す。京極堂に勧められた関口は、やはり共通の友人であり、大富豪の令息でありながら道楽ともつかぬ探偵家業に勤しむ榎木津礼二郎(阿部寛)に協力を仰ぎに赴き、そこで偶然にも捜査の依頼に訪れた久遠寺梗子の双子の姉・涼子(原田知世・二役)と巡り会った。牧朗失踪の謎を解いて欲しい、という彼女の姿に、関口はなぜか既視感を抱く。戦争で片眼の視力を失った代わりに、他人の過去が視えるようになった榎木津もまた何故か、関口と涼子とを知り合いだと断言するのだった。
 敦子を伴い、にわか探偵の関口と型破りな探偵の榎木津は久遠寺医院を訪れる。何かを訴え暴れるもと患者を追い払っている最中という修羅場を目の当たりにしつつ案内された失踪の現場――図書室で、榎木津は不快感を催して頽れる。
 同じころ、軍隊時代の関口の部下であり、榎木津の幼馴染みでもある刑事の木場修太郎(宮迫博之)は戸田澄江(三輪ひとみ)という女の死を追っているうちに、やはり久遠寺医院にたどり着いていた。かつて看護婦として久遠寺医院に働いていた澄江は、そこで生まれた我が子が死産だった、と聞かされていた原澤伍一(寺島進)という男に、実は久遠寺医院では子供が攫われ、殺されているのだと教えていた――事実、久遠寺医院では何人もの子供を誘拐し殺害しているという黒い噂がまとわりついている。更に久遠寺家は、“憑き物筋”であるという話も出てくるのだった……
 果たして久遠寺梗子の二十ヶ月に及ぶ妊娠は何を意味するのか、牧朗はいずこへと消えたのか、そして久遠寺家を取り囲む不気味な影の正体は……? 遂に関口をも巻き込んでいくあやかしを、“拝み屋”京極堂が祓う。

[感想]
 およそ、正道を辿るミステリほど映像化の難しいものはない。綾辻行人原作のドラマ、と記すだけで顔を顰めるファンも多いはずだ。説明過多になりがちなので大幅に省略が施されるだけならまだしも、ヴィジュアル面を再現するのが困難だからと舞台が大幅に改竄され、人物も整理された結果、原作の面影を留めない代物が世に出てしまう。原作ファンにとっても厭な話だが、原作を知らずに監督や俳優目当てで観に来た人々に与える第一印象を思うとどうにもやりきれない。
 本編にしても、避けがたく多くの省略が施されている。そりゃオリジナルの新書判で430ページ、最新の文庫分冊版だと297+339ページにも達する小説をそのまま映像化することなど出来ないし、仮に原作のあの長広舌をそのまま俳優にやらせたら退屈なだけだろうし多分観客は寝るだろうから、致し方ないことであるとは承知しながらも寂しさを禁じ得ない。
 説明が大幅に削られたことで、案の定だいぶ理解しづらいポイントが出て来ている。特に民俗学や妖怪の知識に関する発言は、咄嗟に字をイメージ出来るか出来ないかで観客の反応はまるっきり異なる。まるで何も知らなければ困惑するだけの箇所もかなり多いように見受けられた。翻って、二時間ちょっとの尺のおよそ四十分強(正確に測ったわけではないが)が解決編に用いられていることにバランスの歪さを感じる向きもあるだろう。
 が、いま掲げたポイントは本編の欠点と言えるかどうか。省略が施されるのは、映画として適当な尺に収める上での不可避的な約束であるし、同時に原作に忠実であろうとすれば説明が端折られ(原作を読んでいれば解るが、映像だけでは掴みづらく)意味不明に陥る箇所だって出て来てしまうのが必定だ。また、解決編が長いのは、原作がそうなっているのだから仕方ない。そもそも本編のスタイル、事件の謎を妖怪に比定し、それを逐一解きほぐしていくことで事件のみならず関係者の懊悩の根っこから断つ、という文字通り“憑き物落とし”の手法は、それだけ丁寧にやらなければ再現は出来ないのだ。だいいち、腰の入ったミステリ映画で解決編の短いものなどあっただろうか?
 もともと京極夏彦作品のトーンは、その饒舌さを切りつめていけば必然的に横溝正史や江戸川乱歩などの世界に接近していく。そう承知のうえであれば、当時は罵られながらもやがて懐かしさも含め再評価を受けるようになった往年の怪奇映画や、最盛期の横溝正史原作映画にも近接したヴィジュアル・イメージと、原作の味をほとんど損なわずに取りこまれた謎やトリックは、映像化作品としては極めて優秀であると思う。
 説明が足りないのは残念だが、そのぶんだけ吟味のしがいのある作品になっているとも言える。無論まっさきに原作を読んで補完するのもありだろうが、敢えて原作に触れず、独自に調べて描かれていない箇所を埋めていくというのも楽しみ方のひとつである。少なくとも、解決のために最低限必要な情報は解決編手前でだいたい提示されているのだから、ミステリ映画としての問題点はさほど多くない――こういう言い方になってしまうのは、解決編でいきなり提示されたように感じられる、或いは実際にそういう証拠も一部に残っていたためで、この辺はミステリ愛好家としてちょっと否定的にならざるを得ないのだが。
 そして、弁えた上で徹底的に怪奇映画風にしつらえた舞台装置、癖のある映像は、原作を下敷きに映画ならではの異空間を構築している。とりわけ、演劇でもあるまいに用いられるスポットライトの効果は極めて大きい。眩暈坂を登っていく関口に、久遠寺邸で弁舌を振るう京極堂に、解りやすく焦点を当てることで、場面場面の不気味さや提示される状況や真実のインパクトを強めている。
 京極作品ならではのお遊びもふんだんに盛り込まれている。のっけから画面いっぱいに表示されるお馴染みの“御祓済”の印や、他ならぬ京極夏彦氏自らが出演するシーンなど、ファンならばニヤリとせずにいられない。この辺の意を汲むためにも、可能なら映画で触れた方には何らかの形で京極ワールドへと手を伸ばしていって欲しい、と思う。
 ともあれ、そこまで窮屈に考えずとも、往年の怪奇映画や横溝映画が好きだった、という方であれば、カットされながらも随所で異彩を放つペダントリーやあまりに複雑な仕掛けにいささか戸惑いはするはずだが、かなり楽しめるはずである。原作に愛着があり、登場人物に自分なりのイメージを付与してしまっている人も、いったんまっさらにして鑑賞すれば、却って感心するはずだ。
 個性の明確な俳優陣と、キャリアを積み重ねてきたスタッフならではの職人仕事と言える作品。個人的には高く評価します。

(2005/07/17)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る