cinema / 『宇宙戦争』

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宇宙戦争
原題:“War of the Worlds” / 原作:H.G.ウェルズ / 監督:スティーヴン・スピルバーグ / 脚本:ジョシュ・フリードマン、デヴィッド・コープ / 製作:キャスリーン・ケネディ、コリン・ウィルソン / 製作総指揮:ポーラ・ワグナー / 撮影:ヤヌス・カミンスキー,A.S.C. / プロダクション・デザイナー:リック・カーター / 編集:マイケル・カーン,A.C.E. / 衣装:ジョアンナ・ジョンストン / 音楽:ジョン・ウィリアムズ / シニア視覚効果スーパーヴァイザー:デニス・ミューレン / キャスティング:デブラ・ゼイン、テリー・テイラー / 出演:トム・クルーズ、ダコタ・ファニング、ティム・ロビンス、ミランダ・オットー、ジャスティン・チャットウィン / ナレーション:モーガン・フリーマン / 配給:UIP Japan
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間57分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2005年06月29日日本公開
公式サイト : http://www.uchu-sensou.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/06/29)

[粗筋]
 港でコンテナの積み卸しに用いるクレーンの操縦士として働いているレイ・フェリアー(トム・クルーズ)は家路を急いでいた。この週末は別れた妻のもとからふたりの子供が泊まりに来る約束になっている。父親らしく振る舞おうと努力するレイだが、もうだいぶ生意気盛りになり、無免許運転もお手のもののロビー(ジャスティン・チャットウィン)も、聡明で大人しいがレイに対してどこか壁を作っているレイチェル(ダコタ・ファニング)も、もはや扱いやすいとは言い難い。素直に従わないふたりの我が子に、いささか自堕落なところのある父親はただただ途方に暮れるばかりだった。
 兆候は、しばらく前から現れていたのだ。テレビの報道は世界各地で発生する磁気嵐の被害を盛んに伝えていた。やがて、レイたちの暮らす街にもその“嵐”はやってきた。通常の嵐と異なり、激しい風はその渦の中心に向かって吹き荒れ、落ちる雷は執拗に一箇所を打ち続ける。ようやく収まったとき、電気を用いた機器はすべてその機能を停止していた。
 落雷現場に蝟集した人々の中央には、深い穴が穿たれている。野次馬と共に恐る恐る覗きこんだレイは、熱されうっすらと蒸気を吹き上げる穴のそばに、やけに冷たい金属が落ちているのを発見する。
 次の瞬間、レイたちの足許が大きく揺れ、陥穽を中心に地面が裂け始めた。アスファルトを押し上げ、家屋を引き裂いた大地の亀裂から姿を現したのは、逆三角形の基部に巨大な眼を持ち、三本の長い脚部と何本もの触手に似た機関を備えた、巨大な機械であった。遠巻きにしながら呆然と見守る人々を、その巨大な眼で睥睨していた機械はやがて、にわかに触手を蠢かし、触手から放った光線は、直撃を受けた人間を一瞬で灰にした。
 瞬く間に大パニックとなる一帯。嘲弄するかのように機械はそのひょろ長い脚で建物を踏み潰しながら進行し、人を、車を、建物を薙ぎ払っていく。レイは間近で吹き飛んだ人々の灰を満身に浴びながら、辛うじて我が家に舞い戻った。不安げに見守る子供ふたりに、彼は言い放った――1分で、ここを出る。
 21世紀初頭の人類は夢想だにしないことだったが、地球は遥か昔から、外宇宙の超知的生命によって観察されていた。さながら、我々が細胞のなかの微生物を顕微鏡で覗きこむように。そうして数百万年もの昔から、機会を窺っていたのである――地球を侵略する機会を。

[感想]
 上記は冒頭20分程度の出来事である。いつもならもうちょっと先まで記すところなのだが、こればっかりはなるべく予備知識を最小限にして、現場で驚愕し畏怖した方がいいだろう、と判断してここまでに留めさせてもらった。ていうか、これでも書きすぎかも知れない。
 原作は『タイムマシン』などを執筆しSF小説の基礎を築きあげた伝説的な作家H.G.ウェルズの小説である――が、恥ずかしながら原作は未読なので、そちらとの比較で語ることは出来ない。ただ、知人から譲り受けたDVDにて、事前に本編の原型となった1952年製作の作品を事前に鑑賞出来たので、そちらと比較検討してみる。
 それで解るのは、本編が1952年版に対してきちんと敬意を払っていることだ。1952年はイメージ映像を背景にナレーションが外宇宙からの脅威の存在を知らしめるが、本編もまた宇宙にぽつんと存在する地球の姿を見せつつ、ナレーションにてオープニングを飾っている。
 1952年版は、外宇宙の極度に発達した科学技術による攻撃を、当時としては先進の技術で描いているが、いま見ると陳腐であるし、侵略者の兵器の能力に一貫性がなく行動原理も統一されていない、という欠点が認められる。一方で、冒頭の襲来場面のインパクト、戦闘描写の迫力、パニック状態に陥った人々の凄惨な行動を衝撃的に描き、そして鮮烈な結末に持って行く手管など、美点も少なくない。
 本編はそれらをきちんと研究した上で、変更するべきところはすべて理を通したかたちで脚色し、美点については更に活きる形で作り直している。変更点において最も顕著なのは、旧作では最初の襲来地点に居合わせた科学者の視点から綴り、彼が英雄的な行動で侵略者の謎を解き事態の解決を図ろうと奔走する様を(あまり筋は通っていなかったが)描いていたのに対し、本編では科学的知識はおろか、父親になりたくてもなりきれない欠陥を抱えた港湾労働者を主人公に据えることで、のっけから自分では何も解決出来ないジレンマを与えている。この未曾有の災厄のなかにあっても彼の意思に従わないふたりの子供に半ば振り回され、苛立ちを隠さない姿は、何も出来ないわりに言動だけはまともだった旧作の主人公よりも身につまされるような親近感を観客に齎すはずだ――少なくとも、観客がもし同じ状況に置かれたら、と考えた場合、旧作よりも本編の主人公のほうがよほど行動にリアリティがある。
 反面、とりあえず事態の打開のために出来る範囲で行動する、という理念のあった旧作の主人公と比べ、本編の主人公の言動が全般に無軌道で恣意的に陥りがちに感じられることも否めない。行く先々で偶然に軍隊に出くわし、偶然に匿ってくれる人が現れる、という展開も、御都合主義と捉える向きもあるはずだ。いちおう彼はある場所を目指して進んでいるわけだが、根拠はたったひとつであり、状況を考えれば目的地が無事であると予測するのも困難だったのだから、どうしても無思慮な行動に映ってしまう――但し、その点も含めて、前作以上に親近感を与える設定になっているのも事実だろう。
 しかし、こういう指摘の仕方はいちばんつつかなくてもいい重箱の隅を指先でいじっているだけに過ぎない、と思う。未知の侵略者と、その襲来により恐慌に陥った人々の群像を、ひとりの人物の視点をメインに描いたパニック・サスペンスとして本編は基本に忠実に、高い水準で完成させた作品であることは間違いない。人間の力ではどうしようもない外敵が襲来したとき人はどんな挙に出るのか。自らとその家族を優先し他人を犠牲にするという、災害状況では止むなしとされる状況に置ける人間の醜さと、そこに漂うどうしようもない無力感、切なさ。そんななかで少しずつ父親という立場を振り翳し子供達の信頼を損なっていった己を自覚し、初めて本気で我が子を守ることを第一に考えるようになっていく主人公の、自然でかつ崇高な姿。何より、どの建物よりも高い位置から光線を放ち、触手を伸ばし、人類とはまるで異なる姿を晒す侵略者たちの迫力と名状しがたい恐ろしさが凄まじい。
 ここ数年、ハリウッドではリメイク全盛となっている。往年の名作はむろん、ヨーロッパやアジアなどで製作された良作をハリウッド流に話を組み直し、技術的にもドラマ的にも洗練された形で世界へとふたたび送り出す。『ザ・リング』や『Shall we dance?』のような作品的にも興行的にも成功した例があり、またオリジナルとの時代的、土地柄的な違いが明確になるという意味でそれはそれで決して意義のないことではないが、しかしあまりに多すぎる傾向にあることもまた事実だ。洗練されたがあまり、オリジナルに備わっていた衝撃度を大幅に緩和してしまうことも少なくない。だが、本編はそうした安易なリメイクや失敗例と確実に一線を画している。1952年製作の映画版に対して最大限の敬意を払い、それが本来追求しようとしていたテーマを、現代において用いうる限りの技術を投じて再現し、また深化させた本編は、これまでになく意義のあるリメイク作品であると思う。
 ハリウッド屈指の巨匠として認められたのちも、基本的にオリジナル中心でコンスタントに作品を発表してきたスピルバーグ監督としては恐らく初めてに近いリメイクであるが、さすがにただでは済まさなかった。スピルバーグ監督作品としてもここ数年のなかで屈指のクオリティではなかろうか。

(2005/06/29)


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