エステラ・フィンチについて
         エステラ・フィンチ(日本名星田光代) 
 <略歴>
 原名エステラ・フィンチ Estella Finch (1869 - 1924)
 米国の超教派婦人宣教師。
 米国ウィスコンシン州に生まれ、ニュ-ヨ-クの神学校を卒業後,宣教師となり、24才で来日。
 5年後に日本伝道の夢をあきらめようとしたとき、黒田惟信牧師と邂逅。軍人の町横須賀の地で再び伝道
 する決意を固めたフィンチは1899年(明治32)に「陸海軍人伝道義会」を黒田と共に設立し、爾来25年
 間56才で没するまで軍人伝道にその一生を捧げた。
 40才で日本に帰化し、星田光代となる。多くの軍人達や日本の人々に「マザ-」と呼ばれて慕われた。
 墓所は横須賀市の曹源寺。

                                           
<1> ミス・フィンチの生い立ちと伝道義会設立まで  
・ <その生い立ち><来日まで>
 -星田光代先生墓碑銘より-
 
『先生原姓ハフィンチ名ハエステラ西暦一八六九年一月二十四日ヲ以テ米国ウィスコンシン州サンプレ
 リー町ニ生ル
 父名ハジョン母名ハアンヌ先生ハ其第三女ナリ生レテ殊色アリ然レドモ資性剛毅反リテ丈夫ニ類ス妙齢
 学成リテ後身ヲ外国伝道ニ委ネ始メテ我邦ニ来朝セリ時ニ明治二十六年二月十日ナリ後事ヲ以テ余ト
 相識リ同三十一年十月十七日横須賀ノ地ニ来住シ翌年九月二十三日ニ至リ相共ニ日本陸海軍人伝道
 義会ヲ設立セリ爾来茲ニ二十余年先生慈母ノ愛ヲ以テ軍人諸氏ヲ待ツ開導誘掖ノ益ヲ受ケシ者少カラズ
 宣ナリ諸氏ノ先生ヲ呼ブニ「マザー」ノ称ヲ以テセルヤ
 先生曾テ我邦ノ歴史ヲ読ミ心大ニ感ズル所アリ同四十二年一月十一日ヲ以テ帰化シ姓名ヲ改メテ星田
 光代ト日ヘリ
 大正十三年六月十六日先生多年ノ積労疾ヲ成シ終ニ起タズ年五十六歳鳴呼先生ノ如キハ我邦軍人ノ為
 ニ其青春ヲ捨テ国籍ヲ捨テ遂ニ生命其者ヲサヘ捨テタル者ナリ其献靖ノ精神「死セリト雖モ尚言ヘリ」ト
 謂フベシ』

             
  -
慿吊紀游序文〈漢文)黒田惟信記よりの抜粋(1)
 ”琴湖女史〈琴湖はイスラエルのガリラヤ湖の事。ヘブライ語で琴の事をキネレットと言う。黒田牧師は後に
 書を学んだフィンチの雅号にこの名を用いた)は米国の生まれである。姓はフィンチ、名はエステラで、西
 暦1869年1月24日日本では明治元年12月12日に当る。〈当時日本では旧暦を用いていた)詳しくは
 ウィスコンシン州、サンプレリ-町。
 父の名はジョン、母の名はアン、父は工芸家で女史はその第三女であった。女史は生まれつき人に秀れて
 才色兼備の人であった。
 小学校、高等学校を経て、大いに学問に進み、後キリスト教を奉じた。操を守る事堅く、志気益々振るい,
 又女太夫の風があった。終には志を立て、ニュ-ヨ-クの神学校(ミッショナリ-トレーニングカレッジ(注:
 現在のNyack College,  Dr.Albert B.Simpsonが1882年に創設した神学校)を卒業後、インディアナ州
 グリンウッドで1年間民間伝道、その後感ずる所あって外国伝道に献身を志し、我国に来日した。
 時は日清戦争が起こる1年前の1893年(明治26)2月10日、芳紀24才であった。


  
          
                 8才の頃                                神学校時代



 <来日後の伝道><黒田惟信との出合い>
  <伝道義会設立> (1893-1899)

  
当初兵庫県姫路市の日ノ本女学校を本拠に伝道をしていたが、その後、関東に活動の場所を移した。
  やがて新潟・高田に赴き、ここでの伝道を志すが、在日既に4年に及び、日本人伝道に失望を感じはじ
  め、諦めて帰国しようと考えていた時、たまたまこの地に来ていた黒田惟信(当時横須賀基督教会牧師
  をしていた)と信仰談を交わした。黒田は横須賀の地で軍港を見てきた事から,かねがね「軍人には軍
  人の教会が必要である」との持論を抱いていた。この時二人の間で軍人伝道についての相談がまとまっ
  たとされる。
  フィンチは自分の偏見を悟り、再び日本伝道への決心を新たにする。一旦帰米したフィンチは翌年再び
  来日。
  2ヶ月間の祈りに導かれた後、1899年(明治 32)9月23日、横須賀市若松町に陸海軍人伝道義会を
  黒田と共に設立した。


  -
慿吊紀游序文〈漢文)黒田惟信記よりの抜粋(2)
  
”最初の地は姫路で、後東京角筈に移り、最後には高田に住んだ。それは明治30年3月22日だった。
  私はそこで高田に赴き、女史と初めて相識る事になった。女史は私を古城の跡に導き、老松の根元に,
  旧知の間柄の如くにして座った。女史はその時、伝道の地を巡視する事を希望したので、私も同行する
  ことにした。相携えて岡山、荒井等、各地を三日間巡って伝道した。その間、私は軍人伝道の素志を語っ
  たところ、女史は私の話に耳を傾けて、よく聴かれた。 この事をよく神に祈り求めようと申されて袂を分
  かった。
  6月十日、女史は卒然、我が家を訪ねて来られ、明後日は皈省の途に着かれた。神が許し給うならば、
  貴方は諸反に尋ねて、その志を成し、その企てを願い具えるべきであると申されて、以後ずっと手紙を
  取り交わしていた。
   その年6月、女史は再び来日し、東都橋の我が家を訪ねられ、数時間会談した。〈1898年) 女史は
  私と相共に軍人伝道をなす事を請われた。その後も再三往復され、女史の決意は遂に決まり、その年の
  10月17日、横須賀の地に住み始められて、その仕事をなす事となり、私の住んでいる若松町にて、軍
  人伝道義会を設立された。
  実に明治32年9月23日である。”
    
<2>伝道義会におけるフィンチの働き
 <会長として>
  伝道義会は、何れのミッショナリーにも属せず、一切の費用は日本各地の協力者や、フィンチの内外の友人、
  その他の浄財寄付による運営であった。このように会の経費は主に各地からの有志の寄付によって賄われ
  ていたが、義会運営の責任を一身に負い、アメリカの友人、知人に、又日本での後援者らに寄付を仰ぐ事も
  フィンチの大切な、大きな仕事の一つであった。
・<伝道者として>

 フィンチの伝道は極めて地味で、浅く広くよりは、狭くとも深く教えるものであった。一人の魂を重んじて、愛と祈りを以て仕え、近い者には親しく交わる事において、遠い者には手紙によって伝道した。非常に筆まめな人で、殆どタイプライターを使わず、日々多くの伝道通信を英文又はローマ字で書き、晩年手指はしびれ、こわばった程だったと言う。フィンチの祈りと心血を込めた手紙は軍艦上に、陸上に、学校に、至るところに軍人の後を追った。
  当時の機関学生で後の太田十三男少将は「彼等は、或いは海上荒寥たる 境に、或いは艦内激務の間に、女史よりの手紙によりて如何に力づけられインスパイヤされたことであろうか。」と回想する。


















     ボーイズに宛てた手紙の一例

フィンチは異教の国に伝道しようとすれば、先ずその国の言葉をマスターして、その国に同化しなければならないと考え、日本語を自由に話し、より良き日本語(better Japanese)という程流暢に、上品に、正しく語った。その他黒田牧師より歴史、詩歌を学び、また書道も学びこの点においても第一人者であった。
 

      -フィンチの書の説明-

  ① 「万事信於神」
    ”万事に於いて神を信ず”

  ② 「鳥影花舞」








               
           ①             ②
           フィンチの書
・<祈りの人として>
  
フィンチは祈りの人であった。畳ニ畳敷の小さな「祈りの部屋」にあって事毎に祈りをなし、願いをなし、
  感謝して求めを神に告げる人であった。
  キリスト教を嫌う軍人に対する悩みと、独立の為の苦心と困難もあった。
  フィンチはしばしば祈りの体験をこう語っている。「試練の間には、金銭も来らず、手紙すらも来ず、祈っ
  て最後の決心をした時には不思議にも神の祝福が流れ来たった。」と。その如く、霊的な力と慰めとみ旨
  の示しを仰いだという。フィンチの座右の銘とされる「勝利」という詩、そこには「全き勝利とは自我を征服
 することにある」ことを説明した小冊子があるが、如何に真剣に自我と戦った人であったかを知るであろう。
  それが常に祈りの人たらしめたのである。

 
<教育者として>
  フィンチは良き青年教育者であった。フィンチの教育は聖書のみに止まらずテニソン、ロングフェロー、
  ローエルなどの詩について語り、日本の詩歌・俳句に興味を持ち、その解説を喜んで聞いた。
  青年らしさを求め、柔道、剣道の奨励もした。
  その為に伝道義会には、フィンチの要望によって、小さな武道場が作られた程であった。そのように
  文学、詩歌、自然科学に自らも養い、青年を偏狭、軟弱、無趣味、非常識にならぬように教育した。

     
<愛国者として>
  フィンチはアメリカ人が日本の陸海軍人にキリスト教を伝道するには、先ず、日本の愛国者にならなけれ
  ばと、日本語は基より、日本史を学び、しばしば史跡や御陵を訪ねた。お寺の仏教者とも親しく交わり、
  日本がどのような国であるかを知ろうと努めた。当時の日本が君主国である事を知り、皇室を尊敬した。
  フィンチと親交のあった内村鑑三は帰化したフィンチについて「帰化した彼女の熱烈なる愛国心に驚い
  た。誠に彼女は日本を強く愛せし米国人の一人である」と述べている。


<軍人の母(マザー)として>
  フィンチはボーイズに対しては賢明な母として、品性上,摂生上、肉体上の注意を与え、薬を与え、忙しい
  合間にも手料理を作り、家庭愛に飢えているボーイズを慰めることに努めた。母としての情愛には豊かで
  あったが、決して感情的に訴えることなく、信仰を強要することもなかった。良心的反省を与え、自由の
  道を歩ませた。
  フィンチがボーイズと共にあるところにスウィートホームの楽しさがあったが、しかも乱れない潔さと暖か
  い慈愛の中にも,清く冒し難いところがあったという。
  こうしてフィンチは「マザー」と呼ばれたように、母の愛を具体的に示すことが何よりの伝道であると考えて
  いたようだ。  故山中朋二郎中将は、その思い出の中で「マザ-」は教壇に立たないでいつも機関学
  校、兵学校の連中に、ボーイズ達を集めて茶菓を与えながら話をするのがマザーの仕事だった。必ず
  三時の礼拝には出ていたが、皆の前では祈りをしたり、教壇に立つ事はなかった。その代り、自分の
  部屋に皆を呼び、自分の体験談なり信仰的な事を話した。
  それが仕事だった。そして主として手紙で卒業生達に手紙で当時のボーイズを指導する、というのが
  マザーの生き方だった」と語った。

<3> フィンチの帰化とその晩年
・<フィンチの帰化について>
  日露戦争後、日本と米国の関係が悪くなり始めた。日本の満州経営が米国の期待したようには進まなかった為だ。こうした折、フィンチは米国の援助者達の反対を押し切って、1909年(明治42)1月11日、40才の時、日本に帰化して星田光代と改名。帰化した理由については、日本の情勢のなか、
「ボーイズ達が苦しんで戦っているのに、どうして私だけが平気でいられようか」との思いがあったと当時のボーイズの一人は語った。この頃のフィンチの生き様の一端を黒田の著述の中に見る事ができるが、「日米間が不穏な時代となった頃マザーはその事を憂慮され、米国の友人援助者の反対を押し切って、自分の国籍を棄てて帰化し、日本国民となった。40才であった。
その年の10月末、彼女は米国各地を旅行している。その旅行中、多くの不便、不利を意とせず、終始日本人星田として押通し、日本人としての苦労を体験した。以来米国からの援助は少なくなったにも拘わらずこの決心を以て貫き、唯一の神のもと、全人類皆兄弟なり、同胞なり、との信仰に徹し、純日本国民として、全身全霊を以て、最後まで尽くした。マザーは実に日本国の為に、最大の愛を捧げた米国人であった」からもその事が伺える。」とある。
       

          帰化した頃のフィンチ先生

慿吊紀游序文〈漢文)黒田惟信記よりの抜粋(3)
 ”私と共に手を結んで従事したのは20年間であった。その間、女史は軍人諸氏に対し、慈母の愛を以て接しられた。
  お世話になった者達は枚挙に暇なく、女史の事を皆「マザ-」と呼んだ。
  女史はまた、我が国の歴史を調べ、我国体の万国に冠たる所以に深く感じ、感動された。
  明治42年1月11日、日本に帰化し、星田光代と改名された。その志あるところ、以て知るべきである。
  大正戌午の年の初夏、京都、奈良方面の史跡に遊ぶ事を望まれたので私も大変欣んでお受けして、
  女史と同行するため、直行した。周遊すること20日間程にて史跡各地を巡り、その辺の実地経暦、史実
  の説明の一半を得、女史はこれにて判然した国史の大要を得られた。
  帰国後、女史は私の遊紀を伝え、以後、日本への追懐の資となった。
  私の援筆の記の名は吊紀游という。”

・<その晩年> 
 このように、日本の軍人伝道に尽くした星田光代は、かねてから心臓に持病があり、1921年 (大正10年)の夏には信州、御代田のコテージ (山荘で信田荘といい、帰田庵、喜代志庵と名付く)を設け、病気療養に行くがここでも近隣の伝道活動を忘れてはいなかった。この時期、内村鑑三も信州伝道の旅を続けており、両者の交流があった。伝道の話題だけでなく、話は浅間、日本アルプスの景観や、生物学や地質学にまで及んだ。自然と親しむ中で、特に雲を愛し、草葉の露の光を宝玉にも勝る美しいものとして、その織りなす神の業に思いを馳せるなど、人間形成の基盤としていた。
 こうした中で対象12年(1923)に、一時日本を離れ、ハワイで療養を続けるうち、日本では関東大震災が起きる。フィンチは震災を免れるが、その後、やや健康を取り戻したので、伝道義会整理のため、日本に帰国し、傍ら、罹災者の慰問にも当った。しかし、心臓病は依然として思わしくなく、再び病気が悪化し、大正13年(1924)6月16日、伝道義会関係者10名に看取られる中で、遂に25年に亘る日本軍人伝道の生涯を閉じた。 享年56才であった。
 フィンチが亡くなって5周年目の昭和3年、記念の墓碑が横須賀市公郷町曹源寺の丘の上に建てられた。日く・・・ああ先生の如きは、我が軍人の為にその青春を捨て、国籍を捨て遂にその生命そのものをさえ捨てたる者なり。その献靖の精神、死せりといえども尚言へりというべし」と。

 (参考文献:太田十三男「日本の軍人伝道に献身せ
         し
ミス・エステラ・フィンチ」) 









               
        和服姿の星田光代先生
      (信州御代田の別荘付近にて)


        
         星田光代先生の墓

<4> フィンチと伝道義会の及ぼした影響

  
フィンチによって蒔かれた福音の良き種は年々に成長した。生徒は候補生となり士官となり、兵は
  下士官となり特務士官となり要職に進んだ。彼等は艦船に、陸上に、各方面に散った。到る所に少数
  ながら、塩となり、光となり、キリストの香しき馨りとなった。フィンチによって導かれた人々は数知れ
  ず、後の世代にまで影響を与えた。
  軍人伝道義会は、何ら広告をしないで、只信者の軍人が他の軍人を導いてきたことだけによったが、
  因みに当時の教勢について例を上げると、
    設立初年度(明治32~33)の来会者
      延べ242名中、軍人延べ106名(内信者36名)

    
設立以来13年間の来会者
       延べ軍人 4、325名、市民 3、474名
       年間平均数 330名,集回数 月200回

 

 
創設31周年記念における過去30年間の数字的業績を黒田が示したところによれば、
    明治32~大正元年(13年間)の来会者7,603名 延べ 71,622名、 
    大正12年の大震災後5ケ年間の来会者 1,738名 延べ 38,638名、 
    過去30年間に伝道義会に来た人をを推定すると、約1万名で、延べ19万名である。
    最初の13年間に救われた人は339名(内軍人 239名、市民 100名)であるから30年間に
    約1,000名救われたであろう、とされている。
     (伝道義会重文記録「資料編、参考文献II」)


              
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