身延線の歴史第二章〜国有化と民営化〜
 さて、ようやく甲府〜富士間が全通し全線電化も完成した富士身延鉄道だが、様々な難題に苦しめられる事となった。まず最初の難題は、予想よりも貨客共に低い利用率である。これは身延開業以来の高い運賃をそのまま引き継いで全線に適用した為であり、せっかく甲府まで速く行ける鉄道が出来ても逆に利用を妨げる要因になった。
 それでも、身延までの開業当時と比べると貨客共に大幅に増加していたのは事実であった。現に富士身延鉄道開業後に急増した貨物で甲府駅の処理能力が不足し、これを解消すべく実現しなかったが貨物駅機能の甲府南口駅(南甲府駅)移転と、甲府駅純旅客駅に富士身延鉄道甲府〜甲府南口間を複線化する計画され一部の用地取得も成されていたと言う記憶も残っている。またこれ以外に昭和4年3月に井出駅、8月15日に金手駅、昭和6年4月1日に甲府住吉(現甲斐住吉)駅、10月に寄畑駅がそれぞれ誕生している。
 2つ目の問題は経営陣の考え方の分裂である。 第一章の中でも書いた様に身延以北への延伸を巡り、政府・地元と対立した際には一致団結して会社による延伸を叫び見事実現させた経営陣であったが、全線開業後も一向に改善しない経営難と周囲の環境の変化で経営陣の中でも次第に国有化を唱える者が現れはじめた。
 最終的にはバックにいる甲州財閥を始めとした地元経済界も含め社長以外全てが国有化論者となる始末で、昭和7年4月2日には「富士身延鉄道国営期成同盟会」なる組織が出来るほどであった。この様な環境下では私鉄存続派の居場所は無くなり、存続派であった堀内良平社長が同年中に引退してしまうと、ここに富士身延鉄道国有化は既定の路線となった。
 その後、富士身延鉄道は昭和13年11月1日に国鉄借り上げとなる。借り上げに伴い路線名も「富士身延鉄道線」から「身延線富士甲府間借入線」に変更された。この時はまだ、建前としては民設官営といった経営だが現場職員は全て鉄道省に籍が移されているので実質国鉄線と変わらなかった。鉄道省から会社側へ支払われたのは236両の車両の借上げ料95万9000円である。翌年になると国電が投入される等、次第に国鉄と一体化を強めて結局、昭和16年5月1日に1960万7850円で買収され、私鉄としての富士身延鉄道は消滅し名実共に線路は国鉄身延線となった。

 国有化後、身延線にはモハ62+クハ77の身延線用の国電が3編成6両投入されたのを始めとしてモハ1・モハ10・モハ15・モハ17・モハ30・モハ50と言った国電が多数入線した。富士身延鉄道由来の車両たちは社型国電と呼ばれてしばらくは国電と共に使用されていたが、次第に飯田線や地方私鉄へと転出して行き、戦中にはその姿は無かったと言う。昭和20年7月6日の甲府空襲の際には、金手駅が焼夷弾によって焼失し以後数年間にわたって休止された。また、駅自体への被害こそ無かったものの焼失した架線の点検・復旧作業で3日ほど身延線は甲府〜南甲府間を運休している。

 戦後の身延線を襲ったのは戦争による車両や線路等への手入れ不足・部品不足による老朽化と買出し客を中心とした殺人的な混雑であった。
 私の祖母は当時小学生であったが、この時の思い出として朝4時頃に親と共に家を出て、米や野菜をかつぎ鰍沢口から早朝だと言うのに身動きが取れず体が浮き上がるほどの混雑した電車で富士を経て、熱海等の温泉旅館へとそれらの物を売りに行き、元来た経路を経て真夜中に家に帰り着いたと言う。また、車内で警察による検問が行われると皆一斉に窓から米や芋の詰まったカバンを投げ捨てると言うのも日常の光景であり、車体の外へとぶら下がっていた人がカーブやトンネルを出た後でいなくなっていた事もあったと言った。
 この列車がヤミ屋と買出し客であふれていた事を裏付ける資料として、中央東線の事例を記録した昭和27年のGHQ山梨軍政局の報告書や甲府市に対する国鉄側の戦災証明書(この証明書があれば、国鉄全線が無料で乗れた。)発行停止要請などが存在している。全国的に似た様な傾向であった事は周知の通りであるから、その事を雄弁に物語っていると言えよう。

 この様な極限の状況下で事故が起きない方が奇跡である。身延線では昭和25年8月24日に内船〜寄畑間の島尻トンネル内で落雷により切れた架線が電車の屋根と接触し、4両丸焼けになるという事故が発生した。この事故は鉄道側の過失の割合は低く、どちらかと言えば自然災害の色合いが濃いが遭遇したのは昭和17年に投入されたモハ62001とサハ701・クハ101・モハ30173の4両である。丸焼けとなったモハ62001はこの後、西武鉄道へ昭和26年2月に譲渡され昭和40年にその生涯を終えている。
 この火災事故では事故のあったトンネルが、身延線身延以南によく見られる短いトンネルであったので死傷者はいなかった。これを気に身延線を始め中央東線等の山岳路線では、半径の狭いトンネルのある路線を走る電車のモハの低屋根化工事が実施され、身延線にはパンタグラフ折り畳み高さ3960ミリと言う厳しい入線制限がかけられる様になった。
 結果として電車4両丸焼きにして厄が晴れたという訳は無かろうが、昭和28年4月より甲府空襲以来休止していた金手駅が復活を果たした。これは昭和26年に結成された周辺住民らによる「金手駅復旧期成同盟会」と甲府市・山梨県の国鉄に対する陳情の結果、500万円の復旧費用を(この額は後に500万→350万→280万と減額される。)地元が負担する事を条件に合意した結果である。

 昭和31年4月1日改正で甲府〜富士間を2時間余りで走る快速が設定された。この快速は昭和39年3月20日に登場した準急「富士川」2往復へと発展的解消を遂げる。
 昭和30〜40年代は戦後における鉄道黄金時代と呼ばれる時代であり、貨客共に圧倒的なシェアを鉄道が握っていた時代であった。身延線も例外ではなく賑わい特に貨物輸送が隆盛を極めていた。中でも南甲府駅の貨物取扱量は相当なものであったのが資料から見て取れる。
 昭和35年時点で南甲府駅は石炭・石油・麦類・飼料・肥料・セメント・澱粉といった重量物を中心に東京鉄道管理局・長野鉄道管理局内の各駅と主にやり取りしていた。到着貨物量が出発貨物量の約3.5倍に達していた為、当時行われていた各鉄道管理局間での貨車割り当て制限に引っかかることなく、出発貨物を載せる為の空車不足に苦しんでいた甲府駅を尻目に余裕の出荷が出来たと言う。
 しかし、富士身延鉄道時代から赤字体質であった身延線の体質は国有化後も変わらず、昭和34年度には1億8000万円もの赤字を計上した。これは準急「富士川」運転開始後も好転する事は無く、昭和40年代には更に拍車がかかり昭和54年の営業係数(100円を稼ぐのにどの程度の費用が掛かるかを表した数値、国鉄時代は毎年公表されていたが今は公表されていない。)は361、昭和56年には358という典型的な赤字ローカル線となり、昭和56年の輸送密度を基準とした路線の選別では8000人未満の地方交通線に予想通りに指定されている。
 昭和54年から昭和56年にかけて営業係数が3減少しているのは、運賃の値上げと沿線での乗車促進運動により利用者が増えた為であろう。だが、30年前の昭和25年と比べると各駅での乗降人数は軒並み減少しており甲斐上野駅は13万9079人→9万8953人、甲斐岩間駅は42万3568人→30万9363人、鰍沢口駅の43万9032人→29万1719人と甲斐住吉や善光寺といった例外を除いて利用は減少している事に変わりは無かった。
 赤字については国鉄側としても手を拱いて傍観しているのではなかった。先程の快速、準急運転に加え中古とは言え大都市圏から車両を転属させる設備・サービスの更新等も行っていた。また合理化には早くから手が付けられ、まず貨物扱い駅の統合と駅員配置駅の整理から始まった。昭和30年7月よりまず甲斐住吉・小井川・芦川といった信号扱いの無い駅が無人化される。貨物については先に南甲府駅の殷賑ぶりを書いたが、善光寺などの宅地や農村地帯にある駅では扱う量が少なく、経費だけがかかっていたので昭和35年11月より手始めに常永・国母・善光寺・塩之沢のそれが廃止された。
 昭和47年9月20日にはそれまで直轄駅であった久那土・善光寺駅が民間委託駅へと格下げられ、比較的利用されていた中堅の十島(砂利)・波高島(砂利)・下部・甲斐岩間(木材・砂利)・甲斐上野(野菜)・鰍沢口(小麦粉)といった駅での貨物扱いが廃止になり、合理化の傾向は次第に強まってきた。本来ならば、この改正時に井出駅は無人駅となるはずであったが、対岸の富沢町が官民一体となって反対運動を繰り広げた結果昭和58年3月まで有人駅として存続していた。
 昭和58年には先の井出駅の他に3月の常永・波高島駅、6月に十島駅が無人化された。昭和57年2月26日のCTC導入により、有人直轄駅は更に大幅削減され信号扱いの合理化が実現し、CTCセンターは平成15年の更新時に静岡へ統合されるまで身延に設置されていた。

 列車面では昭和41年3月5日のダイヤ改正で行われた国鉄の料金制度改正による甲府〜静岡間の 急行「富士川」と甲府〜富士間の準急「白糸」の誕生が優等列車登場後の大きな変化であった。直接のきっかけとなった料金制度改正では、101キロ以上の準急券の設定廃止が最大の物であり101キロ以上の準急は、否がおう無しに急行へ格上げ若しくは既存急行の一部に吸収される憂き目を見た。
 身延線の場合は甲府〜富士間が88.4キロであるのに甲府〜静岡間は122.4キロとなってしまう、改正以前は2往復体勢の準急「富士川」の内、1往復のみが甲府〜静岡間の運転であった事から急行へ格上げされたのだ。一方で残る1往復は身延線内のみの運転なので準急のままで差し支えは無い、しかし同一の名称のままでは色々と不便を来たすので「富士川」の名は急行に持って行く事にし、準急については沿線の名勝白糸の滝から拝借した「白糸」と名付けられたのだった。
 しかしその様にして生まれた「白糸」の名称も43年10月1日改正での「白糸」の静岡延長により消滅する。結果として急行「富士川」の2往復体制が確立し45年10月1日からの4往復への増発された。47年3月15日改正では80系湘南型から急行「鷲羽」(宇野〜大阪間)廃止で余剰となった155・165系5両編成への置き換えと編成増強が成され、同年10月改正より1往復の三島行(富士川4・7号)が増発の上設定された。以後5往復のまま廃止まで固定化される。
 57年11月15日からは実態に合わせて1両減車による4両となる等、優等列車は早くから短期間に多くの変化を繰り返してきた。普通電車に限っては首都圏からのお下がり旧型国電が使用され、旧型国電の宝庫として、飯田線ほど注目を集めた訳ではないが趣味者には喜ばれた。
 昭和49年9月からは新宿〜身延間に臨時急行「みのぶ」が165系3両で設定され、「富士川」も1往復のみ上諏訪まで臨時運転された。「富士川」の上諏訪延長は長続きせず、すぐに消えたが「みのぶ」はその後も甲府〜新宿間は急行「アルプス」「こまがね」に連結されて運転され、これら2つの列車は身延線・中央東線を直通する最初にして最後の旅客列車となった。

 この頃になると利用者からは居住性に劣る旧型国電は嫌われ早急な取替えが求められた。国鉄側としても頻発する車両故障に頭を痛めていたので是非とも取り替えたかったが、悪化する財政難がそれを許さずモハ72・モハ63・クハ79といった旧型国電の足回りを流用して113系の車体を載せたモハ62・クハ66がコスト削減を狙い3編成12両製作された。
 しかし、改造費用は思ったより安くない上に、他形式との連結が出来ない等の課題を抱えていたので昭和56年から順次投入された新製車の115系2000・2600番台と荷物電車からの改造した123形に追われて、昭和58年には引退し1編成は富士宮の留置線で、他の編成は浜松工場の留置線で長期間放置された後に解体されている。なお投入当初は富士方よりクハ+クモハ+モハ+クハであった115系は増結用のクハを新潟地区における新規電化開業用の車両として転出してしまい、以降は全て3両編成となった。

↑昭和56年より投入された115系2000・2600番台。当初はワインレッドに白帯の「身延線色」であった。
 昭和49年9月29日、数年前から実施されていた富士〜入山瀬間の経路変更と高架化、富士〜富士宮間の複線化と富士宮電留線が完成した。これは富士宮市にある日蓮正宗大石寺への参拝用団体列車の運転の激増にした事を受けてである。
 臨時列車が急増した為に定期列車の運転への支障や国道1号線の踏切の閉鎖時間が伸びて発生した慢性的な渋滞、そして団体列車の8割近くが東京方面からの発着であるのに、当時の身延線は静岡方面へはスルーでいける構造になってつながっており、東京方面からの列車は富士駅構内で入れ替えを強いられていた事もあってこれらを省略解消する為に行われた。この完成によりこれらの問題は一掃され、この区間での普通電車の一部増発も行われた。

 なおこの時期には結果として構想に過ぎなかったが甲府口でも大規模な路線改良が企画され、連続立体交差化事業として善光寺から甲斐住吉〜国母間にある国道20号との交点までの区間で、計8箇所の踏切を撤去する計画であった。この事を示す当時の資料「衆議院会議録情報 第080国会 交通安全対策特別委員会第14号」に拠ると
・甲府市がこの問題を扱う特別委員会を市議会に設置。
・PTA等の学校関連の団体や周辺住民から山梨県・甲府市・選出議員・国鉄へ大規模な請願と署名が提出された。
・甲府市特別委員会と市長は、当時の国鉄静岡鉄道管理局長へ陳情を行った。
・予算も概算で20億円程度と予測。
等、結構活発な動きがあったことは事実のようである。しかし事業の問題点として国鉄は
・南甲府駅の貨物をどうするか。特に、南甲府駅構内から周辺の工場へ伸びる多数の専用線の扱い。
・高架化費用は国鉄10%、甲府市90%の負担となるが、専用線を利用している企業が引き続き利用を継続する場合、専用線分の費用はどうするか。
 と言う点を問題に挙げていた。しかしその中においてどちらかというと踏切の除去を希望している旨の発言をしているので満更ではなかったと言えよう。  しかしこの頃は国鉄の赤字拡大と労働問題に起因する職場環境の悪化もあり、都市近郊であっても大規模な事業が困難となっていた時期であった。結果としてこの連続立体交差化事業は過剰投資と判断されて、日の目を見なかったものと思われる。これは同時期に行われていた幹線である羽越線の複線化工事すら止められているので尚更であろう。そして昭和55年には「日本国有鉄道再建促進特別措置法」(以下「国鉄再建法」)が制定され国鉄改革が本格的に手がつけられ始めている。
 加えてこの時期は石油危機の影響で世界的に不況に見舞われ、日本もその例外ではなく長く続いてきた高度経済成長に一旦の区切りがついた時代でもあった。バブル景気が起きるのは昭和61年頃である。国鉄も社会も沈滞している中で一地方交通線に過ぎない身延線の連続立体交差事業は忘れ去られたのであった。
 ただ、民営化後の平成3年に甲府市議会で議題としてこの事が取り上げられた事がある。これは甲府市内の交通に関する議論の中で言われた事だが、次第に話の中心は西甲府駅へ流れてしまい結果として以後を見る限りでは話題としても上がった事は無い。

 昭和56年3月には前述した様に前年に成立した「国鉄再建法」に基づく路線の選別で身延線は地方交通線に認定され、地方交通線用の若干割高な運賃へと移行した。幸いにして、身延線は輸送密度が4000人以上であったので廃止対象である第三次地方交通線にはならなかった。だが沿線住民の間で危機感が高まらせるのには十分で「身延線を守る会」といった住民団体が自発的に結成され、行政の側も昭和57年8月11日に衆議院運輸委員会に対し「国鉄身延線・小海線の存続に関する陳情書」を県議会議長名で提出している。
 昭和61年11月のダイヤ改正で中央東線急行が大幅削減されたのと関連して、身延線でも新宿〜身延間の臨時急行「みのぶ」が廃止された。「みのぶ」は臨時急行と言う事もあって、存在感が薄く利用率はさほど高くは無かったといわれている。
 昭和62年3月23日には国鉄そして身延線最後のダイヤ改正が実施され、富士〜西富士宮間にて複線施設を活用した区間普通列車の大増発が実現した。これは昭和57年から幹線を中心に始まった、地方都市での普通列車増発の波がようやく身延線にも波及してきたことを示していよう。そして昭和62(1987)年4月1日の分割民営化を迎えたのであった。


身延線の歴史第三章〜民営化そして現在〜
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