CIAO A TUTTI!!日本のROMANISTIのみなさんへ!!
30年前から今まで、アジア、中東、オセアニア、アフリカ、北米、中米、南米、ヨーロッパと世界を旅して来ましたが、イタリアでFANTASIAは、CALCIOにだけ見られるのではなく、この国の存在こそ、古代、中世、現代が同居し、今も同時進行している、不思議の世界、FANTASIAなのだ。
古代ローマ帝国の時代、馬車がMILESTONEを風の如く走り抜け(私にはMILES DAVISのイメージがうかぶ)、現代では、COLOSSEOの前を、乾いたエンジン音と、深紅の幻影を残して、ALFAROSSAのGTVが走り去る。ルネッサンスの時代にローマ法王の招きでFIRENZEからやって来たRAFFAELLOが、足繁く通ったであろうTRASTEVEREの中程に有る恋人の家は、SALTIN BOCCAの美味しいRISTORANTE、その建物は今も尚、中世の名残をそこにとどめて居る。巨匠 FEDERIOFELLINIの映像とNINO ROTAの不思議な音楽が、CINECITTAで創り出した映画は、まさに大人のおとぎばなしの世界。映画もさることながら、イタリア人の食へのこだわりは半端ではない、さすがフォークを世界で最初に使い出したMEDICI家の食卓が、FRANCE料理の原点というだけのことはある。ラテン系、特にイタリア人は、いい加減な人種と誤解されがちだが、とんでもない、米粒の大きさをスケールで計り、数種類に分類して名前を付けるなど、とても繊細なのだ。その繊細さ、緻密さは、CALCIOの世界にも大きな特徴として現れている。伝統的なCATENACCIO戦法は、その一例である。繊細さと云えば、LIGURIA州特産で、魔法のように魚介類を美味しくさせる、オリーヴオイル、TAGIASCAの存在もすばらしい。さらに、ジッベッロ村で10人足らずの生産者によって手作りされ、18ヶ月間熟成させる、クラッテッロ・ジッべッロは、パルマ産のPROSCIUTTOの2倍の値段ながら、その美味しさは、言葉では言い尽くせない。続いて、ワイン(vino)にも触れたいが、これは話しがとても長くなるので今回は、割愛させていただく。イタリアと云えばデザイン、知っての通りこの国のデザイナーは、常に世界の注目の的、建築、工業に、服飾デザイン等、豊かな創造性は、まさにFANTASIA.最近は、MILANOのMONTENAPOLEOEN通りに居を置く、MAGAZZINI CAPPELLINIの斬新なデザインの家具とCESARE PACIOTTIの靴の美しいラインに心を奪われる。とにかく、わたしにとってイタリアという国の存在、それは、子供たちにとってのDESNEY LANDと同じ様に、胸をわくわくさせてくれる夢の国、FANTASTICHERIAなのだ。1976年に初めて訪れて依頼、わたしの心はすっかりとイタリアに魅了されてしまった。実は、当時わたしは、愚かにもJUVENTINOであった。しかし、この国を旅するにつれ、その感情は変化して行った。北部では、有色人種、特にわれわれ黄色の肌を、見下す人間が多くいるように感じられ、わたし自身も辛い体験をした。それに比べ南部、特にROMAでは、とても素朴で暖かい人間との出会いが多くあった。しかしその一方、OLIMPICOをホームにしているもうひとつのチームは、白人至上主義に間違いないようだ。数年前にLAZIOに、OLANDA代表のCENTROCAMPISTAで黒人選手のA.WINTERが在籍してたときにも、薄汚いNEGROは、LAZIOから出て行けと、練習場に落書きがあった。最近の試合でもLAZIALEのSTRISCIONEの中に相手チームの有色人種の選手を中傷する内容のものがあり、問題になった。わたし自身、LAZIALEの多いCITTA DEL VATICANOで、車に乗った彼らに薄汚い黄色の肌のROMANISTAと、ののしられ、飲みかけのジュースのビンをぶつけられたこともある。また、CASTEL S.ANGELOの近くのALBERGOをチェックアウトするさい、LAZIALEのベルボーイに荷物を運ぶのを拒否された。結局、その日非番であったが、たまたま私服姿でそこに居合わせた、ROMANISTA のDIRETTORE ASSISTENTEが、タクシーまで荷物を運んでくれた。
1981年の春、ROMAの街は、前年度に、覇者JUVENTUSと最後まで優勝を争った経緯もあり、今年こそはと期待が高まっていた、そんな雰囲気の中、わたしも、STADIO OLIMPICOへと自然に足を運ぶことになった。春の柔らかな太陽の光の中で、緑の芝の上に立つBORDEAUX(ボルドーワイン色)のMAGLIA GARA(試合着)に身を包んだas ROMAの戦士たちは、素晴らしいCONTRASTO(コントラスト)により、とても精悍に、美しく輝いて見えた。それが*****GIALLOROSSIとの最初の出会いであった。


 結局、その年のSTAGIONE(シーズン)は、3位に終わったが、翌年、ついにJUVENTUSを押さえ、念願のSCUDETTO(タイトル)を獲得した。kこの上は是非、COPPA DEI CAMPIONI(欧州チャンピオン・カップ)に優勝して、国立競技場でINTERCONTINENTAL CUP(トヨタカップ)を戦ってほしいと祈ったが、惜しくも決勝戦で、INGHILTERRA(イングランド)の名門クラブLIVERPOOLに敗れ、残念ながらそ夢は実現しなかった。それから12年後のOLIMPICOで、一番の思い出となる試合が行なわれた。STADIO(競技場)で観戦した試合の中で一番、いや言い直そう、南米で観戦した、特にBUENOS AIRESでのDERBYは、とても印象的であったが、これからお話しするのは、他に比べようがないほど熱く、美しく、悲しい、感動的な幕切れの試合であった。夜間行なわれた国際試合という独特の雰囲気と、夏の夜に上演される、野外OPERA(*****AIDA)にも似た、だがもっと圧倒的に力強い、どんなに優秀な演出家でも、創り出すことのできないであろうSPETTACOLARE(大スペクタクル)の幕開けがそこにあった。数万枚のGIALLI(黄色)とROSSI(赤色)のカードが、各観客席に、一枚一枚置かれて行く(わたしもTIFOSIの一人として手伝った)、だんだんと試合前の独特の緊張感が拡がる、日本から持参したROMA CLUB TOKYOのSTRISCIONE(応援幕)<ROMA,SEI MAGICA ANCHE A NEL SOL LEVANTE !>を張り終わると、わたしはとてつもなく大きな野外劇場の真っ只中に立っていた。as ROMAの象徴、LA LUPA(雌狼)と双子の王子ROMOLO(ロムルス)とレムスの大応援幕が、TRIBUNA(メインスタンド)で大きく揺れる。*****CURVA SUDからは、GIALLO(黄色)とROSSO(赤色)のCANDELOTTO FUMOGENO(発煙筒)が焚かれた。COPPA UEFA準々決勝が、始まろうとしていた。照明と発煙筒の煙りが釀し出す、幻想的な空間の中で、TIFOSI(サポーター)の応援歌が轟きわたった。それは、とても崇高な響きであった。長年にわたり、多くのROMANISTIの心を魅了し、今シーズン限りでSQUADRA(チーム)を去ることが決まっていたas ROMA生え抜き*****GIALLOROSSIのPRINCIPE(プリンス)*****PEPPE GIANNINIの勇姿がそこにあった。既に今シーズンのSCUDETTO(タイトル)を、諦めざるをえない状況にあったas ROMAは、目標をこのカップ戦に絞っていた。寒さにも関わらず応援に駆けつけたROMANISTI(ローマファン)は、63,500人を超えていた。相手は、東欧CECO(チェコ)の強豪SLAVIA PRAGA,既にas ROMAは、TRASFERTA(敵地)で0−2と敗れていたため、準決勝に進むための条件は3−0以上での勝利であった。
 1996年3月19日 20時45分、BULGARIAのARBITRO(レフリー)、sig.OUZOUNOVのFISCHIETTO(笛)が吹かれ、試合が始まった。ULTRAS(過激なサポーター)のPETARDO(爆竹)の音が、OLIMPICOに鳴り響いた。
 開始早々に攻勢に出たas ROMA は、1分、ドリブルで攻め上がったMORIEROがファールを受ける、LANNAからのボールを、FONSECAがヘッドで合わせるが、惜しくも、クロスバーの上を越えてい行く。ROMANISTIの歓声が、一瞬にしてため息に変わる。7分、SLAVIAの不意を突いた攻撃からPENICKAのシュート、as ROMAのPORTIERE(ゴールキーパー)、CERVONEの逆を突くが、辛うじて足でクリアー。10分には、GIANNINIの巧みなボールコントロールから、TOTTI>FONSECAラインが機能して、相手陣内を脅かすが、ゴールには至らず、TIFOSIが苛立つ。17分、LANNAからの早いロングパスから、BALBOの見事なシュートが生まれる。大きな歓声と拍手、しかし、尚もゴールを破ることが出来ない。19分、GIANNINIからの絶妙なパスを受けたCARBONIの突破も、相手SLAVIAのPORTIERE(ゴールキーパー)STEJSKALに止められる。34分、POBORSKYのダイナミックなドリブルから猛烈なアタック、CERVONEが奇跡的なセービングで防ぐ。ROMANISTIの攻勢を促す、低く、強い歌声が、OLIMPICOにこだまする。35分、又もGIANNINIが相手の攻撃の芽を摘み取り、ボールを奪う、左からの巧みなFONCECAの攻めにより決定的な場面を作るが、残念ながら、右から飛び出したBALBOのFUORI GIOCO(オフサイド)。47分、FONCECAがラフプレイを受け負傷する、相手選手の退場を要求するブーイングの嵐。MAZZONE(監督)は、負傷のFONCECAに代えてCAPPIOLIを投入。50分に、BALBOの倒れながらの芸術的なボレーシュートは、クロスバーの上、OLIMPICOは、又も、大きなため息。58分、途中出場のCAPPIOLIがNOVOTNYのマークを振り切り、GIANNINIからのクロスをへディングシュート、惜しくもニアに外す。59分、CERVONEがPENICKAの鋭い突破を、素早い反応で押さえる。60分、GIANNINIからパスを受けたMORIEROの早いドリブルからのシュートにより、ようやく待望のゴールが生まれる。OLIMPICOは、夜空に響き渡るCURVA(ゴールの後ろ側)



に据えられた小太鼓を打ち鳴らす音と歓声、発煙筒の煙り、爆竹の音で、熱く燃え上がった。そして、この試合を観戦していた誰もがPEPPE GIANNINIの華麗なテクニックに酔った。誰からともなく自然にGIANNINIを讃える歌が湧き起こり、だんだんとそれが大合唱となり、暗闇の中に浮かび上がったOLIMPICOいっぱいに、響き渡る。この夜のPRINCIPEは、神懸りと云っても言い過ぎでにほど神秘的で、凄みがあり、完全にこの試合を支配していた。私自身、こんな素晴らしいPEPPEを初めて観た.COPPA DEL MONDO(ワールドカップ)1990 ITALIA大会でAZZURABILE(代表選手)の時も、テクニックは華麗であったが、どちらかと云うとひ弱な感じで、こんなに凄みのある選手ではなかった。翌日の各新聞社の採点は、南部のSQUADRA(チーム)のGIOCATORE(選手)に極端に辛い、北部の新聞まで、揃ってGIANNINIに、10点満点を付けていたが、これは大変稀なことだと思う。この大劇場の真っ只中で、わたしの胸は63500人ものROMANISTIとの連帯感と、感動を分かち合う喜びに満ち溢れていた。先制点をあげ意気揚がるAS ROMAは63分に、GIANNINIからの早いパスを受けたMORIEROが、相手ゴールを奪うも、相手PORTIEREが辛うじてセーブする。PETARDO(爆竹)の音と共に、ALE ALE ROMA OLE! 応援歌のボルテージが上がる。尚も、押せ押せのAS ROMAは、65分にもGIANNINIの創造性豊かなバスからチャンスを作るが、又も、相手PORTIEREの攻守に阻まれる。だんだんと時間に追い詰められて行く、ついに83分、相手PORTIERE、STEJSKALに競り勝ったGIANNINIのヘディングが、ゴールを破る。この時点でTRASFERTA(敵地)での借り(0−2)を返す。その後、95分の攻撃に決定的な場面が訪れるが、CAPPIORIが微妙なFUORI GIOCO(オフサイド)の判定、63500のTIFOSI(サポーター)が全員立ち上がり、GUARDALINEE(副審)を指差し、抗議の姿勢。CASA(ホーム)が絶対的に有利に
運ぶ術を、EUROPA(欧州)のTIFOSIは心得ている。因にJリーグは、アウェイのチームの勝利が多すぎると思う。審判へのプレッシャーの掛け方が、全然なっていないからだ。
話をOLIMPICOに戻すと、このまま試合終了、決着は延長戦へと持ち越された。しかし、100分(延長戦前半10分)に、TOTTIの完璧なASSISTERE(アシスト)により、MORIEROが勝ち越しとなるゴールを入れると、歓声が爆発音の如く響き、SCIARPA(応援の為のマフラー)を振り回し、大勢のTIFOSIと共に、私も興奮し跳ね回る。そして、延長戦の前半が終了し、この時点で誰もがAS ROMAの勝利を確信していた。延長戦の後半が始まると、それまでカウンター攻撃に徹していたSLAVIAは、作戦を変えて一気に攻勢に出るが、AS ROMAはこの攻撃に耐えて、余裕のボール回し、早くもOLE!OLE!の掛け声がOLIMPICOに響く、既に8分が経過し、ROMANISTIは勝利のファンファレの大合唱を始めた。ちょうど、その時、一瞬のすきを突いて、いきなりPOBORSKYが、凄まじいいきよいでボールを奪い取ると、まだこんなパワーが残っていたのかと、驚く程の豪快なドリブルでゴールを目指す、ギャクサイドから上がった途中出場のVAVRAにゴールを託す。CECOから応援に来た、あきらめかけていたSLAVIAの数十人のささやかな応援団が、狂喜の歓声をあげる。残り数分、GIALLOROSSIの戦士たちは、SLAVIA陣内に猛攻をかけるが、終に、力尽きる、悲劇のクライマックスであった。この試合は、3−1であったが、UEFA
ホーム&アウェイ方式による敗退であった。こともあろうにSLAVIAの選手たちは、TRIBUNA前で、我々を挑発するガッツポーズ、この行為に怒ったROMANISTIは、ありとあらゆるものを彼らに投げつけた。と云っても、入場時のボディチェックで、残念ながら固いものは、何にも
なかった。通常、敵地で勝利したときは、素早く立ち去るのがマナーなのだが。そんな中、すべて力を出し尽くしたDOPPIETTA
(一試合で2得点)のMORIEROも、GIANNINIも、ただうつむいたままたっていた。かくして、この夜のOLIMPICO劇場は幕を閉じた。気がつけば、既に真夜中、私は、一人とぼとぼとTEVERE川沿いに、VATICANOの宿までの長い道のりを迷いながら歩いて帰った。しかし、惜しくもLE SEMIFINALI(準決勝)に進めなかったが、悲劇のPRINCIPE/PEPPE GIANNINIの華麗なる姿は、美しい春の夜の夢物語りの主人公として、わたしの心に、深く刻まれたのである。本年もAS ROMAは、UEFA CUPの2度目の制覇を目指して、現在のPRINCIPE/FRANCESCO TOTTIを中心に戦っていたが、3月2日、INGHILTERRAのLEEDS UNITEDとOLIMPICOで戦った試合は0−0の引き分け、また、3月9日の敵地での試合に0−1で負けて、JUVE等、他のSERIE A のSQUADRIと共に、準々決勝を前に敗退してしまった。SERIE Aのチームが揃って、こんなに早く姿を消したのは、わたしの記憶にはない。3月23日の準々決勝に、応援に行くつもりでいたので、とっても残念。しかし、3月25日にROMA DERBYを戦うことを考えれば、日程的にかなり楽になったと言える。3月22日にINGHILTERRAのCHELSEAと、FUORI CASAでの試合を、戦わなければならないLAZIOと比べ、日程的にはAS ROMAに有利な状況が生まれたと言える。私の目の前で是非とも、いまいましいFASCISTAを打ちのめして欲しいと思います。尚、前回のDERBYでTOTTIの着ていたTシャツは(おまえたち、もう一回浣腸してやろうか?)だったが、4−1の大勝に興奮したのか、彼は自分が少年時代に陣取ったCURVA SUDに駆け寄ると、MAGLIA GARAを、頭の上まで捲り上げて、そのTシャツを、大喜びのULTRASに披露していた。因にPEPPE GIANNINIの時代は、それ程えげつないMESSAGGIOではなくLAZIO;NO GRAZIE!>程度のものだった。TOTTI君、今度のDERBYでは、どんなTシャツを用意しているのかな?
それでは、ROMANISTIのみなさん、STADIO OLIMPICOであいましょう。

1995年7月9日、as ROMA公認のファンクラブ、ROMA CLUB TOKYO のVICE PRESIDENTE
に任命された、 TOSCIACHI CATAIORI /片寄 利章