京都・高雄三山 |
2年振りの大学同窓会が京都で行われたのを機縁に、11月26日(土)京都・高雄三山を旅した。 ”高雄三山”は、京都の北西部「嵐山」の北の山中にあり、京都駅前からJRバスで所要時間約50分。清滝川に沿って上流(北)から、栂尾山高山寺、槇尾山西明寺、高雄(尾)山神護寺の三名山(古刹)の総称であり、「三尾」として知られている。 紅葉は最盛期は過ぎていたが、何箇所か深紅の活き活きとした紅葉も愉しめた。 |
注記:各寺概要は、寺の案内パンフレットによる
写真 | 俳句・短歌 | 記事 |
栂尾山高山寺 | 774年(宝亀5年)光仁天皇の勅願によって開創され、神願寺都賀尾坊といったが、814年(光仁5年)、栂尾十無尽院と改称された。その後鎌倉時代の1206年、明恵上人が、後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」に因み、「高山寺」と改称された。 室町末期の戦乱に巻き込まれて堂坊の多くを焼失したが、江戸時代になり、1636年(寛永13年)永弁・秀融上人により堂坊が一部再興され、昭和期に入り現在の情況に復興された。 |
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紅葉の葉陰から国宝石水院を望む。 簡素と優雅を兼ね備えた建物に脱帽! |
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国宝石水院内部。 開山明恵上人も中央に坐して、秋の紅葉、春の碧を感得されたか? |
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空を仰げば、熟年の紅葉がかつ咲きかつ散りーーーー。 | ||
只管、修行の上人にも紅葉は心の友か? | ||
見朝の清らかな風に、散り紅葉を掃く音が心地よい。 | ||
御廟の前は苔むし、紅葉の後光が辺りを包むーーー。 | ||
嘗ての金堂跡は、ただ松、杉林。 | ||
碧と紅の高山寺を下り、清滝川に沿って、西明寺へ向かう。 | ||
槇尾山西明寺 | 天長年間(824〜834年)に弘法大師の高弟知泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝えられる。その後荒廃したが、建治年間(1275〜1278年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。また正応3年(1290年)に平等心王院の号を後宇多天皇より命名賜り、神護寺より独立した。さらに、永禄年間(1558〜1570年)に兵火にあって焼亡したが、慶長7年(1602年)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄13年(1700年)に桂昌院の寄進により再建されたものである。 | |
清滝川に架かる白雲橋からの峪紅葉。 | ||
もみじより観光客が多い? 堂の回廊から紅葉を鑑賞。 |
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丁度満開の紅葉。「おもてなし」の心が分かるのか? | ||
鐘の余韻の如く高鳴りうつろう紅葉。 | ||
高雄橋から清流を望む。ここから山坂石段を登り、神護寺に向かう。 | ||
高雄山神護寺 | 平安京造営(794年)の最高責任者であった和気清麿公が、いまの愛宕神社の前身、愛宕山白雲寺などとともに建てた愛宕五坊のひとつで「高雄山寺」と呼ばれたが、天長元年(824年)、河内の神願寺の地が、よごれた所でふさわしくないという理由で高雄山寺に合併され「神護国祚真言寺」と称したのが当寺の始まり。これより先に、和気一族は最澄や空海をこの寺に招いて活躍の場とされたため、時の仏教界に新風を送る平安仏教の発祥地となっていた。 平安時代に、二度の災害のため、堂塔の殆んどを焼失したが、文覚上人が後白河法皇の勅許を得て源頼朝の援助もあって、往年以上に復興した。 応仁の乱で、再び兵火をうけ焼失したが、元和9年(1623年)龍厳上人の時、所司代板倉勝重の奉行により楼門、金堂(今の毘沙門堂)、五大堂、鐘楼が再興された。 更に近年になって、昭和10年に金堂、多宝塔などが新築され今日に至る。 |
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楼門までの中腹に弘法大師伝説の「硯石」がある。今はただ紅葉積むのみ。 | ||
書院の前の紅葉は、心なし直立緊張の様子に見える。 | ||
和気清麿公:国内外で活躍した割には日本史上目立たないように思われるがーーー? | ||
金堂、多宝塔は昭和期に再建されたもの。流石、近代建築の美。若々しい紅葉が似合う。 | ||
五大堂及び毘沙門堂(当時の本堂)は元和9年(1623年)に京都所司代板倉勝重によって、再建された建物。 松の緑が似合う。 |
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毘沙門堂:同上 | ||
太子堂:真言密教の祖弘法大師に因む堂。何故か紅葉は殆んど落ち、ひっそりとした佇まい。 | ||
かわらけ投げの地蔵院へ向かう途中に大紅葉の木が数本あり、今を盛りと輝いていた。 | ||
見事なかわらけ投げの一投。深い谷に弧を描いて落花の舞い。 |