祈り
別に自分は匂いフェチとか、そう言うのはなかったと思う。
そう、ぼんやりと土方は考えた。
近藤のところへ転がり込むまでは、家を出てから数か月間いわゆる家のない人と変わらない生活をしていた。
機会があれば川などで身体や着物を洗うこともあったが、裸のところを襲われるのを警戒して、それほど頻繁にというわけではなかった。
そんな自分が、埃と汗にまみれた匂いだっただろうことは想像がつく。
近藤の道場にしたって、オンボロ道場だ。
掃除こそ小まめにされていたものの、朽ちた木材の匂いや埃の匂い、そして、集う男たちの匂いにあふれていただろう。
そして今だって。
真選組屯所は男ばかりのむさくるしい所帯だ。
どれほど衛生面に気をつかったって、男臭さを隠すことなどできない。
そんな中で暮らしているのだ。匂いに敏感だったら、平然としてなどいられない。
捜査にしたって同じことだ。
爆薬の匂い、クスリの匂い。そういうものは、もちろん捜査の重要な材料ではあるけれど、それだけで捜査をするわけではない。
自分だけが特に人より嗅覚に優れていると思うこともない。
ああ、それに。
料理などの匂いにしたってそうだ。
腹が減っているときに美味そうな匂いを嗅げば、腹の虫が泣くこともある。
匂いのはっきりした料理なら、それを嗅いだだけで料理を当てることもできるが、それはほかの人間と同程度。
出汁の種類だの、隠し味だのを言いあてられるような嗅覚など持ち合わせていない。
ぐるぐると考えて、だから何だと自分にツッコミを入れそうになって。
ふと香る甘い香りで思い出した。
だから別に、自分は匂いに敏感なたちではないはずだった。…と、そういうことだ。
思わず漏らした溜息は、たばこの煙を吐き出すことで紛れさせ。
すっかり短くなった煙草を傍らの灰皿に押し付けて、すぐに次の煙草を取り出す。
「多串くん、いくらなんでも吸いすぎじゃねえの?」
「多串じゃ、ねえ。」
「さっきから3本立て続けだぜ。ちょっとは休め…って。…ほらお茶でも飲んで。」
煙草を取り上げられ、変わりに手に持たされた湯呑茶碗はもうだいぶ冷めてきていた。
「ぬるい。」
「入れ直してもらう?」
「…いや、いい。」
まだ寒いというほどの季節ではない。案外このぬるさがちょうどいいかも…。
そう思いながらズズズとお茶をすする。
殺人的な暑さが和らぎ、漸く秋めいてきたこの頃。
幾分夏の疲れの残るダルい身体。
攘夷浪士たちも同じなのだろうか?
この頃は大きな事件もなく、どこかのんびりとした雰囲気の漂う町をぼんやりと眺めた。
そよそよと吹く風に乗って、漂ってくるこの季節の香り。
キンモクセイ。
ああ、そうだ。
今朝、屯所の自室の障子を開けた時、この香りが流れてきたのだ。
ああ、もう秋なんだなあ。なんてちょっと考えて…。
だからだ、きっと。
たまたま土方にとって、匂いを敏感にかぎ取ってしまう時期だった…ということなのだろう。
町中にあふれる、キンモクセイの匂いでもなく。
そこここの店舗から漂う食べ物の匂いでもなく。
大きな犬を飼っていて、神楽がいて新八がいて、古い畳の古い部屋。銀時自身の体臭と万事屋の匂いの混じった、いつもの銀時の匂いでもない。
女性がつける、人工的な香水の甘い香りが。
他でもない、団子屋の長椅子で並んで座る男から漂ってくることに気づいてしまったのは。
聞けば多分、依頼だとか何だとか、そんな事を言うと思う。
一番無難で、一番ありそうな理由。
けれどそれが本当かどうかなんて自分には分らない。
何せ相手は万事屋なる訳のわからない商売をする、訳のわからない男なのだ。
やる気のない眼で、やる気のない生活で、ジャンプが好きで甘いものが好き。
だけど、それだけじゃない。
そんな人間の考えてることなど、自分に分かるわけがない。
巡回に出て、顔を見た途端この団子屋に引っ張って来られて。
サボり癖のある部下はこれ幸いにとどこかへ行ってしまったし、『久し振りなんだから』と言われれば確かに久し振りだったので。
ちょっと休憩。のつもりで並んで座った途端香ってきた匂い。
人工的な夜の甘い香りは、彼には全く似合ってない。
そう思うそばから、意外とピタリとはまるような気もして。
自分が知ってるのは彼の極々1部だけで、本当はきっと自分などには理解しきれない計り知れない男なのだろうと。
普段は考えないようにしていた無力感が襲う。
「…なんか、アレね。お疲れ?」
黙りこくった土方に、間が持たなかったのか。気遣うように銀時が声をかけてきた。
「いや、…ああ、うん。」
「………どっちなんだよ。」
苦笑をされた。
無理矢理取り付けられた約束。
夜になって万事屋へ行けば、子供たちはいなくて。
すぐに奥の部屋の布団の上に引き倒される。
ああ、まだ、する。
あの甘い香りが…。
服にしみこんでいるのだろうか?それとも銀時自身に?
それは、彼にこの匂いが馴染むほど、長い時間そばにいた女がいたということなのだろうか?
そんなに近くに女性がいるのに、何で自分などを抱くのだろう?
確かに結婚や子供の問題が持ち上がるはずもないので、そういう意味では安心なのかも知れない。
けれど、受け入れる風には出来ていない身体は、繋がるまでにいろいろと手間がかかる。
なんでわざわざ、男なんかを………?
目を閉じれば、感じられるのはあの匂いだけで…。
誰に抱かれているのか分からなくなる。
と、土方の体を開いていた手が止まった。
「…どうかした?」
「いや………。」
「そう?」
「いいから、さっさとしろよ。」
「普段なら誘われてる〜って喜ぶべきセリフなんだけどねえ。」
困ったような銀時の声に、そっと目を開けると。
薄暗い部屋の中で、なぜか途方にくれたような顔で土方を見ている。
その手がそっと土方の頬を包む。
「ねえ。」
「んだよ。」
「何でそんな顔してるの?」
「………?」
「なんか、………泣きそう。」
「泣いてねえ。」
「うん、まあ。泣いてないのは分かるんだけど…。」
そう言ってスリスリと土方の頬を撫ぜていた銀時は、そっと顔を寄せると眼尻に唇を寄せる。
まるで涙をぬぐうかのようなキス。
だから、泣いてねえ…って言ってんのに…。
そのまま土方の髪に顔をうずめるようにした銀時が、急に顔を上げた。
「もしかして、今日会議とかあった?」
「は?」
「それともお偉いさんに会ったのかなあ?」
「え、何で分かるんだ?」
昼間銀時に会った後、急に城に呼び出されてネチネチと嫌味を言われてきたのだが。
「お前のとは違う煙草の匂いがする。」
「………え?」
チガウタバコノニオイ………?
「エロいこととかされてねえだろうな。」
「されるわけねえだろうが、そんなこと。」
「分からねえだろうが、多串くんは色っペーんだから。あわよくば…なんて思ってる奴がいるかも知れねえだろう。」
「いねえよ、そんな奴。」
「いーや。」
強情に言い張った銀時は、匂いが気に入らないと言ってそのまま土方の腕を引っ張って風呂場に連れ込み、ついでに自分も入ってくる。
「ちょ、何でお前まで。狭いだろうが。」
「何人ん家の風呂にケチつけてんだよ。とにかく、その匂いが気に入らねえの!」
そう言って土方にシャワーのお湯をかける。
「俺が隅々まで丁寧に洗ってやる。」
「言い方がいやらしいんだよお前は!」
「ヤらしいことするんだから当たり前だろうが。」
「そこで威張るな。…そんなに言うなら手前こそ、洗ってやる。」
「へ?」
「甘ったるい香水の匂いがすんだよ!」
「………へえ、…ああ、そう言うこと。」
ニヤニヤと笑う銀時を本気で殴ってやりたかったが、狭い風呂場ではちょっと難しそうだった。
出たら必ず殴ってやる。と心に決めた土方の決意を知ってか知らずか、銀時はしょうがねえだろうがと嫌そうに口を開いた。
「もう、家賃が払えなかったんだ。」
「働けよ。」
「だから、働いてきました!おかまバーでね!」
「………何だって?」
「おかまバー!化粧して女装して働いてきました!」
「…お前が?」
「そうよ、パー子で〜す、よろしくお願いします〜。」
店での口調なのか?裏声でシナを作る。
「………キモ。」
「分かってるよ!そんなの!けど背に腹はかえられなかったんだよ。ああいう水商売は身入りはいいし、日払いだし。」
それで家賃を払い、当面の食費も何とかなりそうなのだという。
匂いの原因は仕事なのだろうと予想はついていた。
けれど、それは女性と会うとか女性を助けるとか、そんな感じなんだろうと思っていたのだが。
まさか、女性になっていたのだとは思いもしなかった。
「あれ、良かった機嫌がなおったみたいで。」
「別に不機嫌だったわけじゃねえ。」
ギュッと抱きしめられた腕の中でぼんやりと思う。
ただ、ちょっと。
銀時に好きな女性ができたのかも知れないと思っただけだ。
そして、そうなったらもうこうして会うこともなくなるのだろう…と。
シャワーから立ち上る湯気にのぼせそうになりながら、銀時を受け入れる。
別離は今日ではなかったけれど。
それは、そう、遠くない未来なのかも知れない。
多分自分は。
いつか来るかも知れないその日に怯えつつ、『その日が1日でも先であるように』と、心の中で祈り続けるのだろう。
そんな事を思いながら、自分を抱きしめるその背中に爪を立てた。
20101006UP
END