やさしい笑顔を 〜『行ってらっしゃい』と言える幸せ〜

 

 

 

 ぶるりと朝の冷気に身体が反応した。

 すぐ隣にあるはずのぬくもりを求めて手を動かすが、そこに彼女の姿は無く。

 『はあ、またか』と小さく溜め息をついた。

 今朝のハボックは早番だから、深夜とも早朝ともつかないような時間の出勤となる。

 朝の遅いこの季節は、まだ星が煌いているような時間。別に寝ていたって良いのに、リアーナは必ずハボックより先に起きて、簡単な朝食を作ってくれる。

 勿論嬉しい。もう、涙が出るほど嬉しい。

 何しろ、リアーナと付き合い始める前の早番は悲惨だったから。

 ろくに目も覚めないままに司令部へ向かい、指令室用の給湯室にある前の日の夜からコーヒーメーカーに掛けっぱなしで焦げたコーヒーの不味さで無理やり目を覚ます。

 そして、部下に心配されつつ大きなミスが無いのが不思議な状態で仕事をこなし、食堂が開いてから取る味気ない朝食でようやく人心地つく。そんな状態だった。

 しかし、リアーナだって同じ軍人なのだ。

 男が多い職場の中で、見事に仕事をこなしている。疲れていないはずはない。

「おはよう。」

「あ、おはよ。ジャン。」

 パジャマにカーディガンを羽織って、にこりと笑うリアーナは可愛い。近付いてってぎゅっと抱きしめた。

「寝てても良いのに。」

「大丈夫。ジャンが階段を下りて1階に着く前にはベッドの中に入ってるから。」

「そっか。」

 今日は彼女は午後からだっけ?そして、そのまま夜勤だったはず。

 本当ならゆっくり眠って体力を蓄えたいところだろうに。

 自分が泊まりに来なければいいのだと言うことは分かっている。けど、時間があれば少しでも一緒にいたいと思うし。やはり、こうして朝食を用意してくれるのは嬉しいし。

 テーブルに着き、リアーナが用意してくれた簡単な朝食を取る。

「あー、あったまるなあ。」

 今朝は、昨日の残りのスープにショートパスタを入れたものとコーヒー。

 本当に何もないときは、クラッカーにクリームチーズ等をディップした物だけってこともあるけど、何も食べずにぼんやり出かけるよりずっといい。

 それに、何より一人で食べるのでは無いのが良い。

 目の前の席には、自分のカップに半分位注いだコーヒーを、ふうふうと冷ますリアーナがいる。

「今コーヒー飲んで、眠れんのか?」

「うん。コーヒーって良く眠れなくなるって言うけど本当は違うらしいのね。眠い時は目を覚まさせてくれて、眠りたい時は精神が安定してよく眠れるようになるんだって。」

「へえ、随分都合がいいな。」

「ふふ。結局は気の持ちようってことなのかしら?」

 そんな他愛もない話をしつつ、ハボックの朝食に付き合っている。

 だからハボックは、出勤までに脳まですっきり目が覚める。

「なあ、リアーナ。」

「うん?」

 身支度を整えて玄関へと向かっていたハボックは、見送りのために後ろから付いて来ているリアーナを振り返った。

「寝てていいんだぞ?」

「うん。もう、寝るわ。」

「…じゃなくて。…起きてメシ作らなくていいんだぞ?」

 元々はハボックが朝食を作ると約束したことから始まった付き合いだった。

 二人で共に迎える朝は確かにハボックの方が朝食を用意することが多いけど、ハボックの早番のときは100%リアーナが用意する。

「ずっと寝てていいんだぞ?」

 重ねてそう言うと、リアーナは小さく笑った。

「普段は一緒に出勤するから、かまわないんだけど。ジャンが早い時は絶対に私を起さないようにして行くでしょ?見送ろうと思ったら自力で起きるしかないじゃない?」

「普通、そうするだろう。」

「ジャンのため…って言うより、私のためだから。気にしなくていいのよ?」

「リアーナのため?」

「うん。…何て言ったらいいのかな…。『後悔』したくないのよ。」

「『後悔』?」

「うん。出来るときに、出来ることをしたいと思ってるだけだから。」

そう言って小さく苦笑した。

「…やっぱりね、こういう仕事だし。いつ何時何があるか分からないでしょ?ジャンがもしも…なんてことになった時にさ。

 『ああ、こんなことならちゃんと最後の朝は「行ってらっしゃい」って見送っておけば良かった』とかね。『その時「気をつけてね」の一言も言っておけばこんなことにはならなかったのかしら?』とか思いたくないし。」

「……。」

「ちゃんと朝ごはん食べさせてあげればよかった。とかね。」

 と言って、クスリと笑う。

「お腹すいたまま…なんてことになったら、『腹減った』とか化けて出そうだし。」

「おい。」

「いつもいつも傍に居て目が届く訳じゃないでしょう?私の知らないところで何が起こるか分かんないんだし。」

「………。」

 いつ何時何があるのか分からないのはリアーナだって変わらないのに。だから、ハボックにもその覚悟はあるつもり。

 でも、毎日そんなことを考えていたら疲れちまうだろ?

 せめて目が届けばと、リアーナがそう思っているのなら。

「あー、えっと。もしも、何かあって死ぬようなことになっても、ちゃんとリアーナの目の届く範囲で死ぬ。」

「え?」

「病院に担ぎ込まれても、リアーナが駆けつけるまでは何とか踏ん張るし。」

「………。」

「もしも離れた戦場で撃たれたとしても、這いずってでもお前の持ち場まで戻るし…。」

 気丈なリアーナなら『それなら安心ね』と笑ってくれるものと思ったのに。

 不意にくしゃくしゃと顔をゆがめたリアーナは、目にいっぱい涙を溜めて半ば叫ぶように言った。

「ばっかじゃないの!そういう時はね。『俺はヨボヨボの爺さんになるまで死なないから、心配すんな』って言うもんよ!!」

「…っ。」

 腰に手を当てて仁王立ちになったリアーナは、目と鼻を真っ赤にさせてキッとこちらを見上げてくる。

「言っときますけどね!私は長生きするつもりですからね!

 ジャンがうっかりぽっくり早死になんてしたりしたら。大佐やブレダやファルマンにフュリーに、あと、あと、エドワード君とかアルフォンス君とか。とにかくそこいら中の男と浮気しまくってやるんだから!」

 ハボックが死んでいなくなった時点でそれは『浮気』じゃないだろう、とは思ったが。死んだ後も自分が一番って事かなと思ったら嬉しくなった。

「ゴメン。」

 そっとリアーナを抱きしめる。

「『浮気』されたくないから。そんなことになったら凄んげえシャクだから。俺も頑張って長生きする。」

「……。」

 ひくひくとしゃくり上げるリアーナをぎゅっと抱き込む。

「…ジャンに『行ってらっしゃい』って言えることは、私にとってゆっくり眠ることより大切なの。」

「うん。本当は凄く嬉しいんだぜ?」

「そう?」

「ああ。けど。俺にとっては、頑張りすぎるお前を心配出来るってことが大切なんだ。」

 お前と同じでさ。と言うと。ふふと小さく笑った。

「ヨボヨボの爺さんになるまで、だな。」

「そうよ。…ヨボヨボで半分ボケてて、近所の子供には『爺ちゃん本当に昔軍人だったの?』なんて言われるのよ。」

「何だ、そりゃ。」

 目尻に残る涙を唇でそっと拭った。

 その唇に、キスを落として。…ああ、本当だ。『浮気』なんてされた日には、悔しくて悔しくて死んでも死に切れない。

 

 

「…ジャン、…もう時間だわ。」

「おっ。本当だ。じゃ、行ってくる。」

「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね。」

 手を振るリアーナがばたんとしまったドアの向こうに消える。

 冷たい空気に首を竦ませながら、カチリと煙草に火をつけてフウと煙を吐き出す。

そして、まだ日の昇らない薄暗く静かな道を司令部へと急いだ。

 長く続く未来を夢見るけれど、本当は次の瞬間もどうなるか分からない毎日だから。せめて一緒にいられる間は、相手と全力で向き合いたい。

出来るだけのことをしたい。

だから。どれほど言葉を重ねて寝ているように言ったって、やっぱり次の早番の朝も、リアーナはこうやって見送ってくれるのだろうと思う。

 それは決して“苦”ではなく、むしろ“幸せ”なのだ。

 

 今日の仕事の段取りを考えながら、『ヤバイ、遅刻だ』と足を早めた。

 

 

 それでもどうしても、上手く行かなくて。

もしものことがあったときは、やっぱりリアーナのところまで這いずっていこう。と心に決めた。

 

 

 

 

 

 

20060208UP
END

 

 

 

自分では覚悟していたって、当の本人に『もしも俺が死んだら』なんて言われたらショックよね。
このお話は、私情はいりまくり。
ウチの旦那も、実は過去2回も交通事故にあっています。
命に別状があるほどの大きな事故ではなかったけど、『死』というのは本当にすぐ傍にあるものなんだと実感しました。
…別に、軍人ではなくてもね。
けど、悲観しながら毎日生活するわけにも行かないし…。なら、出来るときに出来ることを…と思っています。
(06、02、17)