ROAD TO TRIATHLON Episode1 SENBONHAMA  

この千本浜大会の記録は、過去の資料を元に書き起しています。現在と状況が変わっている場合もありますので、ご了承願います。




   義足でのラン

 2000年6月 ウエイトトレーニングと水泳の練習を始める。
それまで、週に一度のバレーの練習しかしていなかったので、以前と比べかなり筋力が落ちている自分に気付く。
でも義足を付けて走る練習をするまでは、できるだけ筋力をつけておく必要があった。

 トレーニングと並行してトライアスロンと義足についての情報を集めたところ、現在大腿切断のトライアスリートは
いないらしい。下腿切断では数人の競技者がいたが、まだまだ身障者のトライアスロン人口は少ない。「なんで
だろ? 面白そうなスポーツなのに、みんな興味ないのかな」と疑問に思ったが、この答えはあとで身にしみて経験
することになるとは、義足で走ったことの無かった私にはまだ解らなかった。

 8月中旬 義足を作る時にいつもお世話になっている、大阪厚生年金病院を訪ねる。義肢装具士の近藤さんと伊藤
さんに、トライアスロンの事を相談し、義足の製作をお願いする。 “断端が短い切断者が長距離を走る為の義足”
まったく無茶な注文だったと思うが、お二人は、「よし。やろう!」と言って引き受けてくれた。
それから、思考錯誤しながら義足の素材や使用するパーツなどを決めていく。たとえ世界最高の部品を集めて、義足
を作ったとしても走れる保障はどこにも無いのに、この時は子供みたいにわくわくしていた。

 9月21日 仮合わせ用のプロトタイプの義足が完成。病院の隣のグランドで実際に走ってみることになった。これから
何度か走ってみて、部品の変更や微調整などをしていき完成となる。今回の義足は、無駄な部品を無くし膝の関節
も、軽量化と膝折れを防止するために思いきって外した。

走る直前になって、胸がドキドキしてきた。なんせ8才の時に切断してから、30年間走った事は無いのだ。走るって
どうやるんだっけ・・・と少し不安になった。近藤さんがストップウオッチを構える。「スタート!!」の声と同時に走りだした。

一周約500mの距離をゆっくりと走り始める。走り方は、健足が二歩・義足一歩の俗に言う“スキップ走法”という走り方
だ。普通に交互に足をつく走り方もやってみたが、リズムが保てず無理だった。途中でペースを変えたりと、色々な
走り方を試してみる。いい感じ! 自分が想像していたより楽に走れる。頬に風が伝わるのを感じる。
3分42秒のタイムでゴールした。人から見れば、のろのろとめちゃくちゃなフォームで走っていると思うだろうが、本人は
最高に気持ちよかった。「こんなん練習したら、5kmはいけるやん。」とこの日は思った・・・

しかし、次の日に身体に異変が起こった。激しい背筋の痛みがあり、断端も裂傷していた。「なるほど・・こういう事か。」
なぜ大腿切断のトライアスリートが今までいなかったのか。短距離選手はいるが、長距離選手がいない理由。
それは断端や腰・健足にかなりの負担がかかるからだ。

でも、それぐらいの事はトライアスロンをやると決めた時から覚悟の上だった。「それだったら、5km走ってもビクとも
しない強い身体を作ればいい。」単純にそう思った。レースのある来年の7月までに走れるようになればいい。
絶対に走ってやる。自分にはもう失うものは何もないのだから・・・


   ゴールは2001年7月1日

 出場する大会を、一年後の2001年7月1日に静岡の沼津で開催される「千本浜トライアスロン大会」に決め、主催
者に障害の状況を伝えて参加できるかを確認した。主催者側も、「そういう障害を持った方にこそ、ぜひ参加して
ほしい。」との返事を頂く。 さあこれでゴールは決まった。後は期限までにやるべき事をやるだけだ。

普段の練習は、此花区の舞洲で行っている。ここはスイム・バイク・ランを行うには絶好のロケーションで、水泳は舞洲
の障害者スポーツセンターで泳ぎ、バイクとランは島内の周回コースを走る。7月から週3回のペースで練習している。

普通、ひとつの目標を達成するには、最低これぐらいのペースで練習するのだろうが、昔から練習とか努力とかいう言葉
がキライな私にとってはこのペースは異常だった。競技として水泳をしていた20代の頃でも、こんなペースでは練習した
事はなかった。性格的に飽き性で、要領よく大会前に少しだけ練習するというのがモットーだった。

今回のように一年も前から計画を立てて練習メニューをこなしていくのは、人生で初めての事といえる。
なぜ自分でもここまでするのか分からないのが不思議だ。ハードな練習も楽しんでやっている。まあ、これが長続きの
秘訣なのかも。


 2000年12月 義足でのランの練習を始めて3ヶ月経過した。一回の練習で走る距離を、1kmから1.5km、それから2km
へと伸ばしてきた。断端も最初は走る度にズルむけて、回復するまで走れないといった状態だったが、今はかなり皮膚が
硬くなってきたので走るのが楽しくなってきた。
ただ、ランばかりに練習しているとスイムとバイクがおろそかになる。3種目を平均的に練習していくのが、トライアスロン
の難しさであり、又面白い所だと思う。

あと半年、いや正確に言えば7月の本番の前の5月に、福井県で開催される「五木マラソン」の5kmの距離に出てみよう
と考えているので、あと5ヶ月で5kmを走れるようにならないといけない。


 2001年2月 義足の修理のため、しばらくランの練習ができなくなる。仕方ないので、バイク・スイム・ウエイトトレーニ
ングを中心に練習を行う。真冬のバイクの練習は寒い。でも走り出してしまうと身体が温まり、楽しくなってくる。
スイムも、先日プールで400mのタイムを計ってみて驚いた。タイムは5分30秒。これは自己ベストだった。
筋力の方も、ベンチプレスMAX114kg、片足のレッグプレスMAX118kgといずれも自己ベストが出た。「この年齢で
ベストを更新するか、普通。」とあきれたが、逆を言えばそれだけ今までサボッてたという事かな。


 2001年3月 本番である7月の千本浜大会の申し込みが開始される。だんだんテンションも上がってきた。
このぐらいの時期から、練習のメニューも少しづつ量より質に切り替えていく時期に入る。
ランの続けて走れる距離も、3kmまで行けるようになった。しかし、3kmを過ぎると膝に痛みを感じるようになる。一瞬、
トライアスロンをする前に誰かに言われた言葉が頭をよぎる・・・「そんな事したら、残った右足も潰す事になるよ。」・・・

でも、ここで練習をやめるわけにはいかない。俺の足はこれぐらいで潰れる足じゃない!そんなヤワな練習はしていない!
大丈夫! 絶対いける! と、自分に言いきかせながら・・・


 2001年4月 ある日、埼玉の友人の濱田氏より大腿切断の人の情報が入った。彼は、膝下からの切断(下腿)の
トライアスリートでトライアスロンの経験者である。彼の情報によると、以前、知り合いの義肢装具士の所へトライアス
ロンの事で相談に行った私と同じ大腿切断の人が何人かいたという事だった。

「やっぱり! みんな興味があるんだ。」と私は思った。詳しい事は分からないが、たぶん大腿義足で長距離を走るという
壁にぶちあたり、挫折したのではないか。確かに、足腰にかかる負担は大きいが、そんなもん気力と根性さえあれば
なんとかなるレベルだと思う。(ってゆーか、それが一番大事な要素だったりする。)

ずっと以前に、こんな話を聞いた事がある・・・
・・・太平洋のかなたに小さな島があって、サルの群れが住んでいた。彼らは穀物を食べて暮らしていたが、あるとき
一匹のサルが、誰に教わったでもないのにイモを海水で洗って食べた。そうする事によって泥が落ち、なおかつ塩味
がついておいしくなることを彼は発見した。すると、他のサルたちも同じように海水でイモを洗うようになって、やがて
その食習慣が全世界に広まったという・・・。誰かが最初にやりさえすれば、いずれそれは当たり前になるという事だ。

イモとトライアスロンを一緒にするわけではないが(笑)


 2001年5月 ついにランで4.5kmまで走れるようになる。どうやら3kmの壁は越えたようだ。膝の痛みももう無い。
しかし、断端の裂傷はやはり起こった。しばらく足を休めなくてはならない。5kmという距離は続けて何回も走れる
距離ではないようだ。
今月の24日には五木マラソンがあり、5kmの正式タイムを計る事になる。予想では40分前後になると思われる。
トライアスロン用の義足で初めて走った去年の9月から8ヵ月が経過した今、目標の5kmはもう目の前にある。

もうひとつ、義足のトライアスリートの情報も入ってきた。ある健常者のトライアスリートからの情報で、その人がハワイ
のアイアンマンレースに数年前に出場した時に大腿切断のチリ人の選手を見たという情報だった。ハワイのアイアン
マンと言えば、トライアスロンが世界で一番最初に開かれた大会で、世界中のトライアスリートが目標にする大会で
ある。しかも距離は、スイム3.9km、バイク180km、ラン42.195kmの「ロング」と呼ばれるカテゴリー。

その人の情報によると、その片足の選手はスイム・バイクを片足で行い、ランは義足を付けずにロフストランドクラッチ
で走り、16〜17時間で見事完走したという・・・この話を聞いた時に、私は鳥肌が立った。
「やっぱり世界は広い。こんな人といつか一緒にレースに出てみたい。会って話をしてみたい。」と正直思った。

オリンピックで金メダルを何個も取る『イアン・ソープ』はすごいと思う。でも、金メダルのソープよりも、このチリの無名の
トライアスリートの方がすごいと思うのは私だけだろうか・・・ぜひいつか会ってみたいものだ。

   五木マラソン参加

 5月24日 当日は30℃近い気温になり夏日になった。この大会は、歌手の五木ひろしさんが毎年地元である福井
県の美浜町で開催しているマラソン大会である。5km・10km・30kmの距離があり、毎年たくさんのランナー達で賑わう。
美浜原発周辺の美しい海岸沿いの道路を走るコースで、比較的アップダウンがある。私にとってはランのデビュー戦だ
が、このアップダウンのコースを完走できれば、本番の千本浜大会のコースは楽に感じるはず。

午前10時40分頃、5kmの部がスタート。スタート直後からいきなり上りコースになっている。きつい・・・普段の練習では
平坦なコースを走っている為、この上りは初めての経験。上りでは体力を消耗し、下りでは断端にかかるショックが
大きい。正直な話、走っている途中で止めたいと思った。でも、ランだけのこの大会も完走できないなら本番は到底
無理なので、気合を入れ直してゴールまで走りぬいた。

記録は予想よりも遅く、48分台だったが完走する事ができた。ゴール後はしばらく動けないほど消耗して、断端の皮膚も
あちこちが裂けて血が滲んでいたが、これで大腿義足でも5kmを走れる事を証明することができた。

今まで夢だったトライアスロン完走に大きく近づいた瞬間だった。


  

   そして・・・

 2001年6月29日 いよいよ千本浜大会へ出発する日がきた。
6月29日(金)の夜に大阪を出発し、30日(土)の早朝に現地到着。その日はコースの下見を行い、翌日の7月1日(日)
の本番を迎えるというスケジュール。29日の深夜、バイクと荷物を車に積み込み大阪を出発した。
夜中なので道は空いていて、名神高速・東名高速を順調に走り、朝の5時には静岡の沼津に着いていた。

車の中で少し仮眠し、さっそくコースの下見に出かける。スタート地点の海岸に着いて車を降りると、強い風が吹いて
いた。「ま、海沿いは風が強いからな。」と、今度は海を眺めてみると・・・なんと! 白波が立って海が荒れている。
「なんじゃこりゃああ〜\(◎o◎)/!」思わず鼻水が出そうになった。昨日の天気予報では、波は高くないと言って
いたのに。

トライアスロンの大会では、安全上の問題で海が荒れている時は、最初のスイムをランに変更する場合がある。
つまり、ラン5km→バイク20km→ラン5kmの「ディアスロン」という種目になるのだ。
う〜ん、神様のイタズラかこれは・・・明日はどうなることやら。


   千本浜トライアスロン

 2001年7月1日 当日は朝5時に起床し、ゆっくりと朝食をとる。レースは午前9時スタートなので、身体を早めに
起こしておかなければいけない。体調は万全、メンタル面も充実。ベストコンディションで当日を迎える事ができた。

午前6時半、大会本部に行き受付をしていたその時、「参加選手の皆さんにお知らせいたします。」とアナウンスが
流れた。耳を傾けていると、「本日午前6時現在の波の高さが1.5m以上のため、スイムを中止しディアスロンとします
のでご了承願います。」とのこと・・・さっきまでみなぎっていた力が抜けていった・・・

やっと義足で5kmを走れるようになったばかりなのに、これでランは合計10kmになってしまった。
これが漫才なら、「やっとれんわ!」とつっこみを入れて帰るところだがそうもいかず。「ぐす・・神様のイジワル・・・」と
一人でブツブツ言いながら、仕方なしにスタートの準備を始める。こうなったら、やれるところまでやるしかない!!!
この時、すでに私はトライアスロンを楽しんでいたように思う。

スタート15分前、スタート地点に選手が続々と集まってくる。参加者は約250名、この日の予想気温は34℃と、かな
り暑い中でのレースになるだろう。私は他の選手の邪魔にならないように最後尾の位置につく。これは他人との
勝負ではなく自分との闘い。だから順位は関係なく、完走すれば自分の勝ちだ。

 スタート!! 「パーン」というピストルの音でランがスタート。ランのコースは海沿いの道を2.5km走って折り返し、
帰りは松林のコースの2.5kmの合計5kmのコース。右側前方に富士山がうっすらと見える。景色は最高だ。
スタートしてしばらく走っても、周りの景色を見る余裕があり身体も軽い。「こいつはいけるかも・・・」と思ったのも
つかの間、折り返しの松林コースになって事態は急変した。

アスファルトから地道に変わり、これがランニングコース?というぐらい整地されておらず、凸凹あり、石あり、木の
根っこあり、挙句の果てには階段まで。悪い足場に義足をとられ何度もこけそうになり、不安定な走り方は健足への
負担も大きく、ここでかなり足を消耗してしまう。今回の誤算は、この折り返しのコースまでは下見していなかった
事だろう。最初の5kmのランに57分もかかってしまう。

あのアップダウンのあった五木マラソンの5kmよりも、この松林のたった2.5kmの方がきつく感じられた。
ゴールしたころには、健足のあちこちがつっている最悪の状態。バイクのトランジットで義足を外し、片
足で次の種目のバイクに移る。バイクコースは、ほとんど直線の防波堤の舗装路を10km走り、折り返
し10kmの合計20km。

もう景色を見る余裕も無く、時折つっている足を片手でマッサージしながら走るが、なかなかペースが
上がらない。足が言うことをきいてくれない。炎天下の中、照り返しのきついコンクリートの防波堤を走
り続ける。このあたりから、どこをどう走ったかあまり覚えていない。
ようやくゴールを迎えて、残るは最後のラン5kmを走りきれば完走なのだが・・・・

自慢の右足はもう限界だった・・・バイクから降りるために右足を地面に着けた瞬間、電気が走ったよ
うな痛みが右足をはしり、転倒した。立ち上がろうとしたが、右足が痙攣をおこしてもう立つ事さえ無理
だった。

「終わりか・・・」とあきらめ、大会役員の方に「すいません。棄権・・します・・。」と告げた。
大会本部の救護室に運ばれて、アイシングとマッサージをしてもらい痛みと痙攣はだいぶん治まったが、レースが
終わるまで本部のテントで休ませてもらった。


 結局、今回の挑戦は途中棄権となったが、不思議とあまり悔しさはなかった。今日出せる力は全て出し切って、
それで完走できなかったらどうしようもない。スイムがランに変更になったのも、自然が相手のスポーツなのだから・・

「日本初の大腿切断者の完走」という偉業?は達成できなかったが、よく考えてみると自分の中でもスポーツの最終
目標はトライアスロンと決めていたので、そう簡単に最終目標を達成したら面白くないもんね。楽しみは次に残して
おこう。
大阪への帰り道、トライアスロンって不思議なスポーツだなって思った。レース中はあんなに苦しいのに、なんでまた
出たいと思うんだろう。次は絶対完走したいと思うんだろう・・・どうやら、すっかりハマッてしまったようだ。

もし、トライアスロンをやりたいけど不安で迷っている人がいたら、迷うならやればいい。障害があろうとなかろうと
情熱と少しの工夫さえあれば、できないことは何も無いのだから。こんな楽しいスポーツをやらないのは勿体無いと
思う。近い将来、トライアスロンの大会に身障者も普通のように出場してて、珍しくもなんとも無いような時代がくれば
いいなぁ。

最後に・・今回の挑戦に関わって頂いた全ての方に。ご協力や応援してくれた方々にこの場を借りてお礼を言いたい
と思います。

吉村龍彦さん 清田さん   木下貴之さん
宮下広治さん 岡平ゆかりさん 辺見浩司さん
トット゜&デニス 高橋賢二さん ネシアさん
森嶋勉さん 濱田美穂さん 皆川千賀子さん
下地結花さん アスリートカンパニー スクアドラ
金庫番さん 愛知トライアスロン協会

その他大勢のみなさん

Special Thanks!

大阪厚生年金病院 義肢装具士

             

近藤さん                      伊藤さん