「明日はバレンタインっスね!」

うきうきした顔で、いかにも楽しみだと言わんばかりの声で今の言葉を言った藤代に、無数のなんともいえない視線が向けられた。練習後の部室、今ここで着替えているのは一軍のメンバーだ。今の一軍は、2年生と1年生の割合が7:3といったところ。今、藤代になんともいえない視線を送ったのは、2年生の面々だった。そんな彼らに、藤代はきょとんとした表情を浮かべる。他の1年生たちも、なんだろうと首を傾げた。藤代はいつもその発言で周りになんらかの反応をさせるが、今の言葉は少なくともそんな視線を送られる言葉ではなかったはず。そう思う後輩たちに、先輩である2年生はちらりと顔を見合わせてから生暖かい笑みを浮かべた。

「あぁ、バレンタインだなぁ・・」
「知らねぇってのはいいことだな」
「え、ちょ、なんなんですか!?」

根岸がどこか遠くを見て言い、三上が肩をすかせる。そんな2年生の様子に藤代が慌てて聞き返すけれど、彼らは答えることはせずに、荷物を持って部室を出て行った。そうして、最後に残っている渋沢とに、1年生の視線が集まる。その視線を受けて渋沢は苦笑を浮かべた。あくまでも言う気はないらしい。一致団結したかのような2年生たちに、藤代だけでなく他の1年生たちも、最後の希望であるへと期待の篭った眼差しを送った。その視線を一身に浴びて、は はぁ と息をつく。

「先輩として言ってやる。明日は万全の状態で部屋を出ろ」

その一言だけを残して部室を出て行った2年生に、1年生たちは首を捻る。いつもだったら、まだ彼らはこの部室に残って話すなりなんなりしているだろう。さらに明日は珍しく朝練もないというのに、いつもよりも大分早い部屋への帰宅。そして、不可解な2年生の様子と、のあの言葉。いったい何があるんだ?という疑問を残したまま夜を明かした1年生たちは、けれど翌日の朝8時にその意味の一片を知る。サッカー部寮の玄関は、寮を出るのも難しいのではないかというほどに女生徒で埋め尽くされていた。






バレンタン クラシス


― 武蔵森の伝統 ―








あの反応の理由はこれだったのか と1年生たちが悟ったときには、彼らは女生徒によるチョコラッシュに襲われ、身動きもとれない状況になっていた。約束をしているわけではないが いつもなんだかんだで一軍主要メンバーが集まっている昼休みの屋上に、今日、2年生は現れなかった。その代わりに屋上につめかけたのは、驚くほどの数の女の子たちだ。彼女たちは一軍メンバーは屋上で昼を食べていることが多いと知っているのだろう、次から次へとおしよせる女子たちを前     というか、周囲     に思う。彼らはこうなることを知っていて、自分たちに言わなかったのだ。チョコを貰うことは嬉しいけれど、ここまでになってくると話が違う。今まではなんとか受け取っていた藤代も、彼女たちのあまりの迫力に思わず屋上を逃げ出した。けれど、今日はいつにも増して大胆な女子たちは逃げる藤代にチョコを渡すために彼を追いかける。ゲッと藤代は顔を引きつらせた。足は藤代のほうが断然速いものの、人数の迫力は藤代に確実にプレッシャーを与えてくる。

「っ先輩たちのバカ   !!!」

予鈴が鳴り終わったにも関わらず途切れない女子の波に思わず叫んだ藤代の声は、けれど女子の声が響く男子棟の廊下でかき消された。




5時間目を告げる本鈴が鳴り終わった少し後、はガラリと自分の教室のドアを開けた。続いて、三上も教室に入る。はぁと安堵と疲れといろいろが混ざった息を吐いたの手には、チョコをはじめとするだろうプレゼントが大量に詰まった袋がぶら下がっていた。三上も同じような状態だが、甘いものが苦手な彼はより幾分も疲れているようで、今日の朝こそ からかい半分嫉妬半分で見ていたクラスメイトたちも、今では心から おつかれ とでもいうような視線を送っている。去年、既に武蔵森サッカー部一軍のバレンタインの状況を学習した2年生は、チョコを持ってきた女子から逃げることはしなかった。去年はその数と迫力とその他もろもろのために、ちょうど藤代を筆頭とする1年生と同じようになんとか逃げようとしていたのだが、苦労して逃げ切った後にも部活は待っているし、さらに部活が終わった後にはチョコを渡せなかった女子たちがここぞとばかりに押しかけてきたのだ。去年のバレンタインの疲労はハンパなものではなかった。そのため今年は教室にとどまり、チョコをくれる女子たちに頼んで1人ずつ渡してもらうことにしたのだ。その結果、昼休みが終わった今になってようやく終わりが見えてきている。・・・疲労はそれなりにあるものの。

「いーかげんかんべんしてくれ・・」
「・・それ貸せって」

三上は自分の席に座り机に突っ伏した。その疲労困憊ぶりに、もいつもならからかうところではあるが、今はそうせずに言葉をかける。そうして、甘い匂いのする三上のチョコの詰まった袋をなるべく遠くに置いてやった。その行動は、気遣いというもののほかに、そこまでテンションを上げられないということも理由だった。しかし、それでも去年よりは大分マシだと思えるのは、耐久性がついたというだけではないだろう。今日一日必死に逃げているのだろう後輩を思い描いて、ご愁傷様とは頭の中で呟く。しかし、これは武蔵森サッカー部一軍の1年生が体験するべき試練なのだ。     というよりは、去年自分たちがあんな目にあったのに後輩が楽に乗り切るというのは、なぁ?という気持ちもある。と、後輩たちのことを考えていたの携帯が揺れた。のろい動作で携帯を開き、届いたメールに目をやれば、その相手は藤代だった。

「無理ですってこれ助けてくださいよー だってよ」
「ハッ!せいぜい必死になって逃げてろってんだ」

疲れから抑揚のない調子のの言葉に、誰からのメールかわかったらしい三上が、同じく疲れのためかいつもよりもばっさりと藤代を切り捨てて、さも悪役か何かのごとく言う。やはり去年の自分たちと同じ状況になっているらしい後輩に、三上も少しは余裕が生まれたのだろう。あー とうめきながら身体を起こせば、少し前の席で同じく疲れたように突っ伏していた根岸と目があって、お互いになんともいえない視線を交わす。
はといえば、ひょいと袋の中から無造作に1つのチョコを取り出してそこに書かれた名前を見ていた。これも、去年の教訓を生かしてホワイトデーにまた混乱が起きないように立てた対策の1つだ。学年とクラス、名前がわかっていれば、お返しにも苦労はしない。が今手にしているチョコの差出人はどうやら一年生で、聞いたことのない名前の子だった。きっと、実際に関わったことはないだろう。サッカー部のレギュラーということで、不可抗力で自分が有名になっている自覚はあるが、こういうとき、それは酷く面倒なことだと思う。本気で好きとかどうとかではなく、イベントに便乗しようとした子が、有名な人にチョコを送っているだけというのが大半なのだとは思っている。そのため、毎年サッカー部が犠牲になる この妙なくらいの騒ぎにもまぁしょうがないかと納得しているのだ。たまに告白付きのこともあるが、大部分はそうではない。そのチョコは買ったものらしく、どうやらミルクチョコらしい。それを手にして、は三上に声をかけた。

「ハッピーバレンタイン、三上。あまいあまいチョコレートはいかが?」
、おまえ一回死んで来いよ」

口元を吊り上げるだけの笑顔で軽く言ったに、不機嫌さを前面に出した三上が言う。少しおかしそうに笑ったにため息をついてから、三上は 俺は寝るからな と宣言して、再び机に突っ伏す。そのすぐ後に、ガラリと音を立てて入ってきた教師に、は はぁと息をつきながら身体を起こした。




「・・・・・、マジ・・?」

藤代が呟いたのは、おそらく無意識だっただろう。その隣で、笠井も言葉こそ発しないまでも、同じような表情をしている。部活が終わった後の部室はいつもとは違う雰囲気の場であった。それぞれが貰ったチョコのためか甘い匂いがしているというだけではなく、部室から寮へ帰る道の間で、女子がチョコを片手に出待ちをしていたためだった。ピシリと固まった1年生を尻目に、2年生はどこか顔に笑みを浮かべながら着替えをすませ、悠々と部室のドアを開けた。その音に女子たちはざわめき立つが、けれど誰もチョコを渡そうとはしない。え と笠井は思った。予想通りというかなんというか、1年生よりも2年生のほうがずっとチョコをもらっていて、中でも三上と、渋沢がもらっていたチョコの数がすごいものだろうことは袋を見ているだけでもわかった。なのに、どうして彼女たちは先輩たちにチョコをあげようとしないんだろう。そう思う笠井に、がニッと笑った。

「俺たちはもう貰い終わってるからな」
「きちんともらえよ、1年坊ども」

に続いて、ニヤリと笑って三上が言う。部活でストレスを発散させたためか、後は帰るだけだという安堵からか、調子は元に戻っていた。そんなと三上の顔はいつもよりも悪く見えて、藤代は笠井の隣で先ほどと同じような意味で固まった。おつかれ と言葉を残して帰っていく渋沢もまた、さわやかな笑みを浮かべたままだ。パタンと閉じた扉に、残された1年生たちはそろそろと顔を見合わせた。

「・・・・・どうする・・?」

そうやって1年生が固まって話し合ってみたところで解決策など出るわけもなく、結局自分たちよりも1時間以上遅れて寮へと帰ってきた後輩たちに、2年生はなけなしの情けなのか、おつかれ とお茶を出しながらにこりと笑う。そうして、1年生たちは誓った。来年は、こんなことにはなるまい と。




(だから毎年1年生は悲惨な目にあうんだな)(つかなんだかんだ渋沢も止める気ねぇよな)(もだろう?)