2007年10月21日 年間第29主日 人の子が来るとき、 果たして地上に信仰を見いだすだろうか 最後の審判 ロワゼール神父様 今日の福音の最後の言葉を考えたいと思います。私たちが宣教するという使命がいかに大事なのかを示していると思います。 今日の福音の最後の方には、いつもより驚くような言葉が多いですね。私はそういう印象を受けます、挿絵なども相当こわいです。これまでの話とは違うと思います。 祈ること、宣教すること、その二つを考えて挿絵の彫刻を見ると、意味が理解できるのではないかと思います。 こちらの教会の人、名前はいいませんが、誰のことかは皆さんはすぐにわかるでしょう。一週間前の日曜日のミサの帰りに、一人のお年寄りが小さな子供の自転車で腕にけがをした、骨折をしました。 骨折したときにはそんなに感じなかったけど、そのあとで感じるようになって、その方が倒れたときに、そこに二人の日大の大学生が通っていて、おばあさんのところに行って、立ち上げさせたが、いたいいたいと言うので、また下に置いてしまった。でもお年寄りは、意識がはっきりしていた。 大学生が、どこから来ているのか、と聞くと、おばあさんは、教会からと答えた。
年寄りのおばあさんでないと、そこまで出来ないかも知れませんけれども、
私たち一人一人も、後ろか前かわかりませんけど、神様がいらっしゃる。それを照らしてやるのです。わざとでなくても、機会があるときに人の前で信条を話すこと、それは宣教です。理解できないような話をする必要はありません。 でも、私たちが大人になるとき、たとえば中学生のような。自分の気持ちを言えないというか、何か恥ずかしいというか、遠慮することをおぼえます。 外国人の神父様だったと思いますけれども、話を聞いたことがあります。神父様はミサのあとで、教会の皆さんに、マイクをもって、一人一人にどう思いますかと質問をしました。マイクが近づいてくると、みんなぶるぶる緊張します。質問されたら困るから。 そんなことを三回くらいやったら、信徒会の会長さんが、神父様それちょっとやめた方がいいよと言ったらしい。 自分の気持ち、反応を話すことはふさわしくない、という気持ちがあるんだと思います。単純に自分の気持ちを話さないようになったのは、大人になるときに、自分で自分にそう教え込んでしまったからかも知れません。 でも、小さい子供、小学生とかは、質問をされて答えられるときは、自分が答えたいと思います。勝手に自分の存在が出てきちゃうというか、自分の存在を認めて欲しい気持ちがあるんじゃないかな、と思います。 私たちが人に自分の存在、中身を話すことは当然です。でも、宣教するにあたって、聖霊が大事です。霊の力によって、私たちはしゃべるというか、子供のように神様がおしえて下さるという感覚というか、自信を持っていることによって、宣教が出来るのだと思います。 だから今日の福音とつながりますが、そのような祈りをすれば、神がお恵みを下さる、霊を下さるということです。どうすると霊の力が来るかというと、そのひとつは自分の心に強く霊の力を求めることです。それが一番大切です。 霊の力があれば私たちは幸せを感じるし、その幸せを自然に人々に伝えることになるでしょう。 このことを考えながら、これからも一生懸命に、イエス様のいわれた通り、信頼と忍耐強く、霊の力を、聖霊の力を求めましょう。 (文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい) |