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沿革
大正3年1月13日花岡鉱山専用鉄道として大館〜花岡間(4.8km)が開業
大正4年11月22日小坂鉄道に買収され花岡線となる
大正5年1月26日旅客営業開始
昭和33年2月1日同和鉱業と合併
昭和58年12月1日貨物営業廃止
昭和60年4月1日大館〜花岡間が廃止
平成6年4月1日花岡鉱山(松峰・深沢・湯川)が閉山となり、県内から鉱山が姿を消す

小坂鉱山と並んで県内屈指の規模を誇った花岡鉱山からの鉱石輸送を目的に敷設された路線です。昭和59年の採掘終了に伴い花岡線も運命を共にしました。廃止後しばらくは県道192号線に沿って廃線跡の大半が残っていましたが、平成12年頃から始まった道路拡張工事などによって痕跡はかなりの部分で消滅しています。
なお余談ですが、この鉱山は中国人強制労働者の虐待で有名な「花岡事件」の舞台となったところであり、今でも毎年慰霊祭が行われています。また、昭和53年には掘削による急激な地盤沈下により松峰地区の全戸が現在地へ集団移転しています。

路線概要

種別:鉄道(旅客・貨物)
廃止時営業キロ:4.8km(大館〜花岡)
線路規格:非電化単線 1,067mm
動力:内燃(ディーゼル)
駅名: 大館松峰花岡

廃線跡

大館 おおだて

起点の大館駅は小坂線と共用で、花岡線の旅客列車専用のホームも設けられていました。

しかし廃止によってホームは駐車場となり、平成4年に小坂線の旅客列車が廃止になると駅舎自体が閉鎖されました。

さらに大館駅前再開発によって駅舎と側線群はすべて撤去されてしまい、今は広大な空き地だけが広がっています。

 

(小坂線横に残る廃線跡)

大館駅を出るとしばらくは小坂線と並走していました。

今でも小坂線の横には花岡線の敷地が残っています。

 

(小坂線分岐点付近の築堤)

小坂線と分岐した花岡線は左に急カーブで市道を横切り、築堤へと続いていました。

市街地の中に残る廃線跡はたいていゴミ捨て場と化しているものですが、花岡線の場合はきれいな姿をとどめています。

 

(奥羽本線との交差部)

築堤は高さを増していき、奥羽本線をオーバークロスしていました。

さすがにプレートガーダーは撤去されていますが、前後の築堤や橋台は当時の姿のまま残されています。

 

(市道の踏切付近)

花岡線はここで市道と平面交差し、当時は踏切がありました。

ちょうど踏切があった辺りのアスファルトが損傷していますが、これは単なる偶然なのでしょうか。

 

(県道横に残る廃線跡)

廃線跡は大館市中心部を除きほぼ全線が県道192号線に沿って残っています。

ここも敷地にはゴミ1つ落ちておらず、きれいに整地されています。

廃止後しばらく敷地は放置されていたのですが、平成12年頃から始まった県道拡幅に伴い廃線跡は歩道として整備されつつあり、河川上に残っていたプレートガーダーも撤去されてしまいました。

下内川には新松峰橋のプレードガーダーが残されています。

一時は、県道拡幅と歩道整備の工事の際に撤去される可能性もありましたが、現在も残っています。

 

松峰 まつみね

電柱が立っている敷地が廃線跡で、この辺りに昭和48年設置の松峰停車場がありました。

ホームと待合室だけの簡易な造りの無人駅だったこともあり、現在ではまったく痕跡が残っていません。

敷地の端には同和鉱業所有を示す境界標が設置されています。

 

(鉱石積み出し施設)

当時はこの施設から鉛精鉱や硫化精鉱が積み出され、小坂製錬所へ輸送されていました。

もちろん現在は鉱石の輸送は行っていませんが、構内には当時の施設が残されています。

鉱石積み出し施設の先からは花岡線は県道を離れ、水田の中を通っていました。

 

(鉱山住宅付近)

この周辺はかつて鉱山住宅群が団地のように建ち並んでいて、花岡線はその中を貫いていました。

しかし、閉山に伴う人口減少と住宅の老朽化により大半が取り壊されてしまいました。

左側に広がる広大な更地は住宅群の跡地です。

わずかに残った鉱山住宅群がかつての繁栄を物語っています。

廃線跡もレールを除いては当時のままであり、赤茶けたバラストや鉄柵も健在です。

 

(終点手前に残る橋梁跡)

終点手前にある小川を渡っていた橋梁が残っています。

奥に見える建物が終点花岡付近です。

 

花岡 はなおか

工場がある辺りに花岡駅がありました。

ここからさらに鉱山へ支線が延びていたようです。

▲TOP2005/4/9〜2006/9/24撮影
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