『……は?』
 電話の奥から聞こえたのは、サエさんの当惑した声だった。
 つい数時間前までは大晦日だった。みんなで一緒に初詣に行こうと話した。だけどバネさんとダビデと亮さんは帰省しちゃってて、樹っちゃんは家の手伝いがあるみたいで、初詣には行けないと言われた。そして最後の頼りの綱だったサエさんに電話をかけて「あけおめ!」の後に要件を話したけど、返ってきたのは「は?」の一言だった。
 一瞬の間があり、すぐに少し困ったような声が届いた。
『剣太郎、ちょっと考えてみなよ。今何時か分かる?』
「えっと、暗くて見えないよ。ちょっと待ってて」
『年が変わって三時間も経ってないよ』
「夜なのに時計見えたの? サエさん目ぇ良くっていいなぁ」
『そうじゃなくて……』
 電話の奥でサエさんが頭を抱えているのかもしれない。
『普通、そういう電話って最低でも午後十時ぐらいまでには済ませておくもんだろ?』
「でも忘れてたんだもん」
『俺だって今せっかく夢見てたんだよ。なぜか不二が出てきたけど』
「富士山? やったねサエさん、それ初夢だよ! おめでとー!」
 ボクは肩で電話の子機を支えて、軽く拍手をした。電話の奥で大きなため息が聞こえた。
 布団の中でうつぶせになって、子機を握りなおした。
『とにかく、初詣だよね。ごめん、俺も明日家族に連れていかれるんだ』
「ってことは、」
『うん。一緒に初詣には行けないかな』
 ボクは肩を落とした。もとからうつ伏せだったからこれ以上肩を落としようがなかったけど、落胆っていうんだと思う。
「そっか。うん、分かった。ごめんねサエさん」
『謝るなって。そうだ、剣太郎、一緒に初詣に行く女の子はいた?』
「いないからこうして誘ってるんじゃん……サエさん、本当に無駄に男前すぎ。無神経」
 たぶん、ボクの声は相当ムスっとしてるかもしれない。
 そのボクの調子を読み取ったのか、サエさんはからかうような軽い口調で返事をした。
『ははっ、ごめんごめん。それじゃ、電話をその場に置いたまま寝てたら? 誰かから初詣の誘いがくるかもしれないな。剣太郎みたいに誘い忘れて今頃電話してくるやつとかいるよ』
「本当!? ならボク待つよ!」
『え?』
「ボクみたいに初詣一緒に行こうって言うのを忘れた子がいるかもしれないってこと、教えてくれてありがとう、サエさん!」
『あ、うん……聞いてもいいかい?』
 サエさんは恐る恐るという風に尋ねた。どこがそんなに怖いんだろう。
「なにを?」
 一瞬の間の後に、サエさんはばからしい質問をした。
『本気じゃないよね?』
 本気だよ、と答えた瞬間、電話越しに硬直した雰囲気が伝わった。
「だってサエさんの言うことだもん。信じるなっていう方がおかしいよ」
『え゙』
 ボクは勢いよくかけ布団を放り出し、部屋の電気をつけた。一番上のお兄ちゃんが寝言か文句か分からないぐらいの音量で二段ベッド(ボクだけ布団)の上からしゃべったけど、すぐにその声も聞こえなくなった。
「じゃあサエさん、電話切るね! いつ電話がかかってきてもすぐに行けるように準備しとかないと、女の子に失礼だよね! おやすみなさーい」
 電話機が猛然とあわてたような音を出したけど、ボクは問答無用で通話を切った。廊下の電気をつけて、子機をリビングに戻しに階段を下りた。上る途中に階段で積まれた洋服をいくつか見繕って、かっこいい服を何枚か探した。朝までに電話がかかってこなくて初詣にいけなかったら、ボクには二度と可愛い彼女ができない。そう自分にプレッシャーをかけて、丹念に服を探した。
 そうして探していたら、少しはかっこいい服を合わせることができた。
 よし、この服ならボクは女の子にモテモテ! たぶん今のボクを鏡で見たら、けっこうニヤニヤしてると思う。
 準備はすぐにできた。自転車の鍵はもってこなかった。自転車に乗って行ったら女の子と話す時間が削れるし、昨日から珍しく降った雪で滑ってかっこわるいことにならないとも限らない。
 ボクは電話の子機を前にあぐらをかいた。子機の曲線を見て、女の子の曲線はどんな感じなのかなと想像して、そんなスケベなこと考えてると彼女ができないことを考えて、頭を振った。
 でも待てど暮らせど子機は少しの音も出さなかった。ボクは飽きて、部屋の中から去年の冬に総合学習の時間で作った凧を探したり、羽子板の練習をしたりしていた。宿題はまだ手をつけてない。冬休み最終日にやることにしているから、今やっちゃいけない。
 窓の外がほんの少しだけ明るくなってきた。電話はまだこない。
「電話、こないのかなぁ」
 結局寒いから布団の中でつぶやいた。
「……寝よっかな」
 そう思って、ボクは腕を枕代わりにして顔をうずめた。
 でもそれと同時に、子機が突然、トゥルルル、トゥルルルと鳴り始めて、ボクは子機を取った瞬間手が滑った。ボクはあわてて布団の外におっこちた子機を拾って、通話ボタンを押した。
「もしもし!」
 でも電話に出たのは、大好きなB組のあの子の声、じゃなかった。
『剣太郎、まだ本気で待ってる?』
 サエさんの声だった。
「なんだ、サエさんか」
『女の子じゃなくてごめんな』
 うん、ほんと。
 そう答えたら、サエさんはまた笑い声を聞かせた。
『剣太郎は用意できてる?』
「用意?」
『早くそと出なよ。俺だってそんなに時間ないんだから』
 その声で、ボクは急いで窓の外を見た。塀の外、自転車の横で電話をしている白い人影がボクを向いて、そして手袋をはめた手をふった。
「うん、今行く!」
 そう言って、ボクは階段を駆け下りて茶色のコートを羽織った。
 玄関を出たら、サエさんは「おはよう」の代わりにサドルにまたがり、「早く後ろに乗って」と促した。雪が降ったけど積もっていない濡れた道を、サエさんは疾走した。冷たい風が頬を流れていった。


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