■星月夜 パジャマ姿のまま、ベランダのドアを握る。冷たい金属特有の、無機質な冷たさ。 「また空見るの?」 後ろから姉の気遣う声が届き、鳳は振り返った。 「大丈夫だよ。また風邪は引かないって」 「病み上がりなんだからね」 はい、と返事して、ドアノブを捻った。ぎい、と軋む音を立てて、ガラス戸は開いた。頭の方から暖かい空気が外へ逃げ、入れ替わりに足元から冷たさを孕む夜気が流れ込む。 「寒いから早く閉めてね」 炬燵の中で蜜柑を剥きながら、姉の声。 簡単な返事をして、鳳はベランダの床をそっと踏んだ。案外冷たくない。プラスティックだからかな、と無為に考えて、扉を閉じた。 冷気が夜の冷たさで、頬を、首筋を撫でる。 視線を空へ移すと、夜空だった。 深い蒼色の空に、光の粒子がばら撒かれている。それは授業でやるように、強い光の物は星座を形作っていた。いままでよりもかなり場所が変わったオリオン座が、形は変わらず瞬いていた。 東京の空なのに、ここまで透き通っているのは珍しいな。 宍戸さんにも見せてあげたい。 風邪で昨日今日の二日間、声も聞いていない。 すると咳がこみ上げて来た。咳き込んだ。耳鳴りする静謐に、存外に大きく響いた。 唾を嚥下し、鳳は目を閉じた。 瞼の裏に宍戸の顔が浮かぶ。 会いたい、という衝動と、風邪引かせるよ、という気遣いとが衝突し、やはり気遣いが勝つ。 宍戸さん…… 今すぐ会いたいです。 庇の下に降り注ぐ満月の明かり。その中で熱い想いばかりが巡り巡る。 ……今すぐに。 鳳はドアを開き、中に戻った。すると、炬燵の上に置いてあった携帯が鳴った。流行曲を流す音が、少し軽薄に聞こえたのは、気の所為だ。 姉は蜜柑の二切れと共に、携帯を鳳に渡した。 メール着信。宍戸亮。 「長太郎、ハッピー・バースデー☆」 思わず目を見開いた。 慌てて本文に目を通す。 「ハッピー・バースデー!!」 ……あの人だから、長文は苦手なんだろうな。 さっきまで感傷に浸っていた自分がもの悲しい存在に思えてくる。 「……返信のメール、出さなきゃな」 独り言を呟いて、立ったままボタンを操作しようとしたら、ある一点に目が止まった。 題名である、一文。「長太郎、ハッピー・バースデー☆」 最後に「☆」が付いていた。 これ自体は何の意図もなかったんだろう。 でも…… 先刻まで自分が見ていた物のマークが付いていた事が、何故か鳳の胸に嬉しさを湧き立たせた。 鳳は短めに返信文を打った。 その文の一番最後に、こう付け加えて。 「P.S 今、夜空が綺麗ですよ」、と。 ■二人眺める同じ空 雑音を流し続けるテレビに向けて、宍戸はリモコンを向けた。同時にブラウン管は光を失くし、部屋の様子を反射する。生憎、ホームドラマにも値しない我が家の景色だ。映してもつまらないだろう、テレビめ。 鬱憤をテレビにぶつけ、その考えに意味は無い事に気付いた。腹が立ってくる。苛々のやり場を失くして、リモコンをテーブルに放った。 横滑りして、醤油差しに衝突。倒れた醤油差しは、真っ赤な口から黒っぽい水溜りを広げていく。 「あー……っくそ!」 「亮! 何一人でイラついてんだよ」 振り向くと兄が立っていた。風呂上りなのか、腰にタオルを一枚巻いただけだ。 「……イラついてなんかねえよ」 戦闘犬のような鋭い視線で、兄の目と、タオルを見る。 「つーかさっさと着ろ、何かをよ!」 「分かってっから、おめーもさっさと醤油片付けろ」 冷蔵庫に向かう兄の背中に舌打ちしたが、正論だ。宍戸は棚の上にあるティッシュの箱を取り、埃を被ったティッシュを三枚一気に引き抜いた。 テーブルの上には、中身が空になった醤油さしが横倒しになっている。その周りには醤油の円が広がり、テーブルの端からぽとぽとと、床にも被害を広げていた。 「また派手にやったなあ」 呆れた調子の兄の声。 「あ! 何だと!」 宍戸は強い語調で言い返した。 とはいえ片手に醤油差しだと、いまいち迫力がつかないのは宍戸自身よく分かっていた。 「迫力ねえな」 爽やかな色のソーダアイスを咥え、余裕綽々と兄は背を向けた。 室内とはいえ二月なのに、寒くないのだろうか。考えないように、宍戸は醤油を片付ける事に専念した。 「亮」 「うるせえな。兄貴もさっさとうせろ。こっちは苛立ってんだよ」 「女にチョコ貰えなかったのがそんなに悔しいのかよ」 「貰ったさ。でも欲しい奴には貰えなかった。……って、何て事言わせてんだ、アホ!」 「俺は好きな奴に貰ったぜ。ま、あいつの言い分じゃ、弟の誕生日祝いに作ったチョコの余りなんだってよ。ま、本命なんだろーけどなー」 『本命』という言葉をことさらに強調して、兄は二階の階段を上っていった。 「……の野郎」 握った醤油さしがぶるぶると震えた。 だが叩きつけたら作業は倍になり、親のお叱りも受けるだろう。 何とか自制して、宍戸はようやく全部の片づけを終えた。 ……長太郎、何してんだろうな。 不意に鳳の姿が脳裏によぎった。 宍戸は部活も引退して、鳳とは帰り道以外の親交はない。たまに休日遊びに行ったりもするが、鳳は部活が、宍戸は受験勉強がある。それらが複雑に絡みあい、その結果なかなか会えないのだ。 だが、今日だけは会いたいと思っていた。 それが、インフルエンザだと? A型だかB型だが知らないが、先週の金曜日から休んでいるらしい。つまり今日が休みの最終日だが、暦の都合だ。バレンタイン・デイだろ、今日は。 ――お前の、誕生日だろうが…… 会って、祝ってあげられないのが辛かった。 とりあえず、二階に行こう。 宍戸は重い気持ちで、階段を一段ずつ上がっていった。 自分の部屋に着くと、湿ったベッドに倒れこんだ。仰向けになり、頭の後ろで腕を組む。スプリングの軋みが僅かに聞こえた。 「(……メールしとくか)」 上体を起こし、枕元にある携帯を取った。適当に操作して、題を打つまで辿り着いた。 問題は……本文だ。 正直、何も考えていなかった。 何にしよう? どんなのにするべきか? 普通の文じゃありきたりすぎるだろ。 思考がぐるぐるとして、眩暈が起きそうだ。 誕生日おめでとう? ……英語の方がよさそうだ。そっちの方が楽しそうだな。 Happy ……やべえ。バースデーのスペルが分かんねえ…… 本当に受験生かよ、俺。激ダサだ。 勢いついてベッドに倒れ掛かると、視界の端に、暗い窓が映った。 星が綺麗だ。オリオン座が傾いたまま空に浮いている。 ……無駄な感傷に浸っている暇ねーな。 宍戸はとりあえず、題名を「長太郎、ハッピー・バースデー☆」と打ち込んだ。 本文だ、問題は。 よく鳳とはメールのやりとりをしているが、こんな時に限って良い文章が思いつかない。 仕方なく「ハッピー・バースデー!!」と打ち込んだ。そしたら、指が勝手に送信しやがった。 この静かに熱く燃える想いが、鳳に届く事を願いつつ…… すぐに鳳から返信が来た。 「P.S 今、夜空が綺麗ですよ」、と。 奇遇にも、宍戸の視界は、夜空を映していた。 ■春の始まりに程近い位置にいる俺達 二月の冷たい風に吹かれて、宍戸はいつもより早い時間に通学路を歩いていた。まだ春の兆しは見えないようで、道端には雪達磨の残骸が解けて氷に変化している。 歩けば後五分もしないで校門に着く、そんな普通の道の上。宍戸はバッグの中に視線を移して、深く溜息を吐いた。 元々宍戸はバレンタイン・デイなんていう行事は製菓会社の商業戦略だと信じて疑わなかった。小さい頃、幼稚園に行きたくないと騒いだ宍戸に兄が「今日幼稚園行かねえとチョコレートもらえねえぞ」と話された事がある。ウキウキした気分で行ったのに結局一個も貰わなかった事がトラウマにでもなっているんだろう。 それなのに、今バッグの中に入っている包みは、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。 通学鞄に入った、緑色の包み。それが赤いリボンに包まれて、季節はずれのクリスマスプレゼントの様相を呈している。こんな凶悪な色にしたのは、店員側のミスではない。間違いなく宍戸本人のミスだ。 そこまで思考すると、また溜息を吐く。 今日が今日でなく、今日であればいい。 ややこしい事を考えている内に、校門に着く。 部活にも早い時間なのに、校庭の隅とかには女子が顔を覗かせている。 ……ご苦労なこったな。 宍戸は早々に玄関へ入った。 「うお……!」 足元に落下した幾つかの包みに、宍戸は呻かざるを得なかった。 足元には金色、青色、凶悪な程のショッキング・ピンク。視線を上に上げれば、靴箱にはどうやって詰めたのか、十個近い箱がジェンガみたいに複雑に詰められていた。バーゲンの詰め放題じゃねえんだよ、ここは! とりあえず落ちた箱を拾うと、いらないだろと思っていた予備の袋があった事に感謝した。 茶色い紙袋にどさどさと入れると、1/3位が埋まった(ちなみに二十四個あった)。 何よりもクラスに着く事が最優先課題だ。 宍戸は、廊下の端で中身の溢れかえらせている『跡部景吾専用BOX』を横目で見やった。 それから午前の授業を命懸けでこなし、昼休み。 寒いから人の居ない屋上は、何処よりも閑散とした雰囲気がある。 空は瑞々しいまでに透き通った青色をしていた。冷たい風が旅人のように去ってゆく。 冷え切ったコンクリートに寝転んで、チーズサンドを噛み千切る。 昼休みでは人が多すぎる。会える絶好の機会だが、渡すのには最悪のタイミングだ。 早く渡したいが、今では無理だ。 無為な思索に耽っていると、唐突に自分への呼び声が聞こえた。 「宍戸さん!」 突然呼び止められて、宍戸はぎょっと目を剥いた。 慌てて身体を起こし、声の方向へ目を向けると……いた。 鳳が、いましがた屋上のドアを開けたような感じで立っていたのだ。 鳳は至って自然体といった感じで、宍戸の隣にしゃがみ込んだ。 「昼食、一緒にいいですか?」 これだ。見る者の心を鷲掴みにする、心の底からの笑顔。 「お、おう……」 「ありがとうございまーす」 しかも、すぐ隣に腰を下ろす。 間、十センチもねーよ! チョコ、持って来れば良かった……。後悔が宍戸に圧し掛かる。今すぐ告白しようかどうかというごちゃごちゃの思考が、宍戸本人にすら理解不可能の行動を取らせた。 「あ、そうだ。長太郎よお、俺、呼び出されてんだ、ちょっと行ってくる」 何してんだアホ俺! チョコ持ってくるのにもっと良い言い訳あんだろがアホ! 自責するが、既にアフター・フェスティバル。鳳は少し翳った微笑を返した。 「そ……そうなんですか。じゃ、いってらっしゃい、ッス」 「お、おうよ! だからちょっと待ってろ!」 何してんだ馬鹿か俺、カフェ・オーレ! いや、そんな事マジで考える俺の思考がもうどうにかなってやがる! 宍戸は混乱した頭脳で、昼食の片づけを始めた。 「……あの、」 呟くような、声。 「……一分でいいんです。よろしいですか?」 何故か真剣な声で、鳳は訊ねた。 「あー、いいぜ」 天の助け! 宍戸は生まれて初めて神に感謝した。経験値が十上がっ……て、ヲイ! 自分の暴走する感情を抑え込むのに成功し、宍戸は何とか鳳の目を見据えた。 鳳は言い辛そうに、呟きにも似た声で、語り始めた。 「あの、今日って、……バレンタイン・デイですよね?」 俯き加減の顔が、目に見えて赤く染まっている。 「大好きな人に告白して、チョコレートを渡す日、ですよね?」 たどたどしく、訥々と訊ねられ、宍戸は頷かざるを得なかった。 「ああ、そうだぜ?」 すると鳳は、持って来たバッグに手を伸ばし、その中にあった四角い箱を、取り出した。 「(おいおいおい、この展開って、まさか……)」 そのまさかだった。 鳳はその包みを、両手で宍戸に突き出した。 「これ……っ、食べて下さい!」 雪みたいに純白の包装紙で包まれたそれは、まだ高い位置にある太陽に照らされて、きらっと光を跳ね返した。 「……激」 「?」 「激、最高だぜ――――っ!」 思わず宍戸は鳳の首に腕を回し、強い力で抱き締めた。暖かい、太陽の匂いがした。 「し、宍戸さん! こんな所じゃ」 意見却下。暫くはこの余韻に浸らせろ。 慌てて真っ赤になった顔の鳳も、次第に笑顔を取り戻していった。 まだまだ長い人生の、まだまだ最初の、冬のある日の物語。 ■星と月だけが見ている俺達の言葉 夜が空の端にうっすらと広がり始めた時間帯。 鳳は部室棟の玄関口で立ち上がった。靴先をとんとんと二回床につき、テニスバッグを背負い直す。無駄な物が色々入っているバッグはいつもより重く感じられ、バッグの紐が肩に一層荷重を掛けた。 重い理由は、今日がバレンタイン・デイであり、鳳自身の誕生日でもあったから。 手渡しのチョコは勿論断ったが、机に詰めて来るチョコは断りようがない。仕方なくテニスバッグに放っておいた。だが正直、全部を賞味期限迄に食べきれる自信は無かった。 鳳はチョコを渡せた。女々しいとは思いながらも、気持ちが伝わったのだから、別にいいと考えていた。 その相手は、 「……よお、長太郎」 もたれていた壁から離れ、その人物は掌を向けた。 玄関の脇で、ちゃんと待っていてくれた。 「宍戸さん。……お待たせしました」 鳳は代わりに笑顔で返した。 宍戸はばつが悪そうに、こめかみを掻く。 「お、おうよ。じゃ、さっさと出っか」 「はい」 宍戸が先んじて玄関の硝子戸を押す。ぎい、と軋んだ音を響かせてドアが開いた。鏡面になった硝子の反射角が変わり、宍戸が二人いるような錯覚を感じた。 宍戸が出、鳳もドアの外へ出た。 二月の冷たい風が、そより、頬を撫ぜる。 息が白く凍る。宍戸の首に巻かれた青いマフラーの色が霞んで見えた。 「……寒いッスね」 当たり前の事を呟く。それとなく手を擦るが、焼け石に水だろう。 「冬が寒いのは当たり前だろうが」 「二月ッスよ。そろそろ暖かくなっても……」 「季節は変えられねえだろ。考えても意味ねえぜ。ほら、ぼんやりしてねえで、さっさと行くぜ。電車逃がすだろ」 宍戸は通学鞄を肩に担いだ。 鳳は、はい、と返事をして、前を行く宍戸の隣に付いた。 ――夜が深くなってくる。 夕方から夜への変化は、季節の違いのようにゆっくりと進む。しかし明暗は顕著で、濃い蒼空がいつの間にか天然のプラネタリウムになるのも珍しくない。 鳳が見上げた空は、吸い込まれそうな程の深い色に満たされていた。魂すらも聖なる気で洗われそうな、深い空。 オルバースのパラドックスも現実になりそうなぐらいの星々が空一杯にひしめき合い、精一杯に光を放出している。 月は蒼く澄み切った空に、確かな存在感を持って、光を降ろしている。きいん、と張り詰めた空にたった一つ。真円を模して、氷のように―― 「……どうした、……長太郎?」 肩を揺す振られて、はっと我に戻った。 どうやら空を眺めている内、魅せられたように空を見詰めていたらしかった。 月明かり中、宍戸の顔はよく見える。 「応えなくなったから、どうかしたのか?」 宍戸の不審げな声。 「い、いえ、何でもないッスよ。ただちょっと、ぼーってなっただけッス」 「本当にそうか? ……何か、幽霊か何かに憑かれたかと思ったぜ」 「い、いえ、本当に何もないですから。心配掛けて、すみません」 鳳は軽く頭を下げた。 「それならいいけどよ。あ、そうだ」 すると、宍戸は通学鞄を開き、中から何かの包みを取り出した。緑の光がちらっと月明かりに反射した。 宍戸はそっぽを向きながら、それを鳳に突き出した。 「これ、やる」 「……ど、どういう事ッスか?」 「とにかく、いいから持っとけ!」 宍戸は鳳の手に小さめの箱を押し付けた。 鳳は呆気に取られ、暫く箱を凝視していた。 「た、誕生日プレゼントだからな!」 念押しする。すると宍戸はおもむろに鳳の耳元で囁いた。 「……ハッピー・バースデー」 鳳はその言葉に目を見開いた。 鳳の胸に、何とも言えない感情の激流が迸った。胸があっという間に一杯になる。 それらを感じるとすぐに宍戸の顔がぼやけた。 「お、おい!」 慌てた宍戸の声。だが、止まらなかった。頬に涙が流れ、伝い、顎の先から落ちて染みを作った。 「な、何で泣くんだ! こういう時、どうすりゃいいんだ……と、とにかく、いいから、泣き止め! 泣くんじゃねえよ」 宍戸の言葉の一つ一つが、、自分を想ってくれている。鳳はその一つの事実に、今迄のどんな事よりも、嬉しさが募った。 「……ありがとう、ございます」 「泣き顔で言われてもすっきりしねーな……じゃ、これで泣き止めよ」 宍戸は背伸びをすると、鳳の首に腕を回した。宍戸の顔が近くなる。鳳は反射的に目を瞑った。 瞼に、柔らかい感触。 本当に、一瞬。 すぐに腕は外され、鳳もまた瞼を開いた。制服の袖で涙を拭おうとしたが、止めた。 宍戸は今度こそ本当にばつが悪いような顔で、言った。 「唇には……まだ早いだろ」 考えれば、涙はもう、止まっていた。 星と月だけが眺めているこの地で、俺達の事を知っているのは、俺達ただ二人だけ。 ■夢は有限の安らぎ 夢を見ていた。 現実の時間に換算すれば、幾らともかからないだろう。事実、夢を見ている間の現実の時間は二十分前後だというではないか。しかし、見ている間は永遠に感じる。 夢は、哀しみも、永遠に。 哀しみが終わったとき、鳳は跳ね起きる。 額に冷たい汗を流し、拳は毛布をぐしゃぐしゃにする。 誰にも悟られぬように、顔を布団に埋める。 夜気が朝日に変わるまで。 背に冷気が滲みるまで。 鳳はそこにいた。 * 枕元で携帯がメロディを流した。澄んだ音は脳内に辿り着いて、音から音楽へと認識を変えさせる。妙に霞んだ意識が、グリーグの「朝」だと捉える。 余り動かしたくない指を携帯に伸ばし、適当にボタンをまさぐって、音楽を止めた。沈黙した携帯画面の上部に表示された時刻を見て、朝連の遅刻寸前だと知った。しかし身体は倦怠感ばかりで、シーツが足に絡まって、動きたいとは全く思わない。 早朝に起きて、暫く起きていたのにも関わらず、また眠っていたらしかった。夢を思い出そうと努力する前に気力が萎えた。無意味じゃないかと寝返りを打つ。 しかし時間はそうさせてはくれないらしく、鳳はすぐにベッドから起き上がった。 十二歳、いや、十三歳になったばかりと伝える暦が壁に下がっているさまは死人に似てなくもない。そう考える自分も死人同然か、と考えると、自虐しか思い浮かばなかった。 一時間後、鳳は眠れる身体に鞭打って、テニスコートに着いた。去年終わりに買ったウィンドブレーカーは一気に小さくなり、今は二枚目のものを注文中だ。今は代わりのコートを着ているが、テニスをする際は邪魔になるだろう。風は勢いを増し、台風と見紛うスピードで唸り、テニスコートを蹂躙していく。ボールは風に煽られ、それによってミスが頻発していた。 鳳はコートを脱ぎ、ジャージになった。ジャージはばたばたとはためく上に通気性が高いから、皮膚には直接冷気が叩きつけられる。あっというまに指先はかじかみ、グリップを握るのも辛かった。 すると突然、鳳に声がかかった。 「おい、鳳! サーブ打て」 強風にポニーテイルを揺らし、ネットを挟んだコートの向こうから宍戸が呼び掛けた。 「うう……はい!」 自由じゃない指で籠のボールを二球取り、片方をジャージのポケットに押し込んだ。 サービスラインに立ち、フォームを整える。強風がトスボールの軌道を乱す。 ネットの奥のサービスエリア、その奥に宍戸が立っている。ラケットを構え、鳳のサーブを待つように、左右に揺れている。半分は横殴りの風に押されているのかもしれないが、ウィンドブレーカーは風を寄せ付けず、暖かさを篭らせている。暖かそうだった。 そんな事を考えてる場合ではない。寒さに縮こまっているばかりではいけない。 鳳は左手からボールを放り上げた。しかしボールは風に乱され、横に流される。しかし止められない右腕をしならせた。同時に放たれたボールがネットで大きな音を立てた。 宍戸の声が響く。 「ぶったるんでんじゃねえぞ! もう一球!」 「は、はい!」 しかし結果は何度やっても同じだった。ボールは次から次へとフォルトを繰り返し、それに一本ずつ頭の線が切れていく宍戸を止めるのも、不可能に近かった。風は凪ぐ瞬間も見せず、時間と共に勢力を増していくようにも感じた。 とうとう十球を無駄に費やした時、宍戸は不意にネットを越え、鳳の所へやってきた。 「やばいんじゃないのか?」と海田と樫和が小突く。 そして宍戸が険しい表情で言った。 「鳳、レギュラーになったからって気ぃ抜けてるんじゃねか? やる気ねぇなら出てってもらっても構わねぇんだぜ」 「し、宍戸先輩。すみません!」 鳳は平身低頭して謝る。それでも宍戸は頂点にきているのか、態度を軟化させない。 「すみませんいうくらいなら最初からちゃんとしやがれ。激ダサだな」 激を強調して、宍戸は視線を隣の樫和に移した。 「じゃあ、お前。お前サーブな。レギュラーじゃねえよな。名前は?」 「準レギュラーの樫和です」 「じゃ、ミスんなよ」 そう言い残して、宍戸はネットの向こうに行った。鳳はスタンドのコンクリート壁にもたれ掛かり、うな垂れた。海田が労わるように鳳に声を掛ける。 「散々だったな」 「…………うん」 風はどんどん強くなる。 八時直前になって、レギュラー陣が先に帰った後、鳳もまたのろのろとレギュラー用の部室へ戻った。 * 昼休み。 宍戸は苛立っていた。 朝練における鳳の連続フォルトもさることながら、どうやら昼食と財布を部室に忘れたらしい。今日はバレンタイン・デイでチョコレートは幾つか貰ったが、腹に残る食べ物ではない。昼食に勝る菓子はない。 ということで、宍戸は今、部室に戻って来た。 ドアは開いている。誰かが鍵を閉め忘れたのか、誰かがここで食べているのかははっきりしないが、とりあえず楽に入れるからよしとしよう。 でかでかとしたプロジェクターのある部屋の左にはロッカーやらパソコンやらがある部屋だ。跡部と監督のお陰か、大分環境はいい。 部屋自体には目を向けず、自分のに向かった。レギュラー専用のロッカー、右から三番目が宍戸のロッカーだ。プライベート保全用の鍵をもどかしい手付きで穴に差し込み、半回転させる。中で金属の操作される音がして、やっとロッカーは開いた。やはり、中には弁当箱が鎮座し、財布が転がっていた。 二つを無事回収し、もう一度鍵をかける。 出ようと思ったときに、ああ、唐突だった。 ソファには、鳳が横になっていたのだ。 眠っているのか、瞼は閉じてある。 本当に眠っているのか? とりあえずこちょがしてみたが、鳳は寝顔を少ししかめて、ソファの背に寝返りを打った。 呂律の回らない舌で、何やら寝言。 「もうしわ……け、ありま……せんでした……」 孟子は毛ありませんでした? 知らねぇよ、そんな事。 だが鳳の唇が動く。 「また……ミスった……すみま……せん、しいど、せんぱい。あ、ありがとう、ございます……いわ……て、くれて……」 何の夢見ているんだか。 面白いから、宍戸は鳳の座るソファにお邪魔した。いつもは芥川の指定席だが、いない今は文句もないだろう。 サンドイッチを噛み千切りながら、鳳の寝顔に注視する。とんちんかんな寝言も、よく聞けば面白い。それに、結構可愛い顔している。朝にしゅんとしていたのには少々悪い気がしてきた。 しかし、サンドイッチはすぐに食べ終わった。 宍戸は楽しむものがなくなって、どうせなら、と鳳のテニスバッグに目を留めた。そして、ニヤリ、と不吉な笑みを漏らした。 バッグのチャックを引っ張ると、中にはテニスラケット、タオル、手をつけていないアクエリアスがあり、手をつけたゲータレードがぽっこんぽっこん鳴っていた。弁当箱は開けなかったが、確実に食べていない重さだった。制服に着替えていない事からすると、朝練の時から眠っているものと推察された。 探っている内に、スケジュール帳を見つけた。ぱらぱらと適当に捲っていると、綺麗な字が空欄を全て埋めていた。びっしりとある。よく見れば、それは人の誕生日が主だった。今日の予定は…… そこで手が止まった。 「……『鳳長太郎誕生日』?」 二月十四日の欄には、字の間に押し込むように、本人の誕生日が併記されていたのだ。 「今日が誕生日ってことは……十、三か」 中学一年生にして強豪氷帝レギュラーを張る一年が、まだ十三とは。 宍戸は鳳の頭髪に指を埋め、撫でてやった。髪は短い割りに柔らかく、猫っ毛が指に絡んだ。 「誕生日、おめでとうな」 鳳は寝言で返す。 「う……ん、ありがと……ございま……ん……」 宍戸は「本当に寝てんのかよ」と笑ってかえした。 「いい夢見ろよ」 * 鳳はぼんやりと目を覚ました。 どうやら部室で眠っていたらしかった。 肩に重いのを感じる。暖かいのがもたれ掛かってる。 ふと目を移した。 宍戸もまた寝顔をさらしていた。 |