すっかり忘れていたが、今日はクリスマスだった。キリストの誕生日は北半球では冬ということであり、暖房を使わねばならない季節が幸いした。吹奏楽部が個別練習に使うという理由からか、各教室のヒーターにはまだ補充されて間もないほど多くの灯油が蓄えられていて、それをゴミ箱のプラスティックケースに三杯ほど溜めることができた。北校舎のピロティには小さいながらも石造りの灯油倉庫があり、そこから中身のかなり残った灯油を何缶も運び込むことができた。中途半端に残った灯油を移しかえる作業を手持無沙汰な葵に任せ、佐伯と亮は廊下の教科書やらノートやらを集めて燃料とした。カーテンを引き剥がすように指示された黒羽はその身体に有り余る力をいかんなく発揮して、カーテンを次々ともぎ取っていった。集められた燃料は佐伯と黒羽が校舎の屋上に運んだ。亮は先刻の淳の襲撃によって唯一襲われた人物だからおいそれと淳のもとに向かわせることはできない。今度こそはどうなるか分からない。あの場ではどうにか助け出せはしたものの、仲間に危険を及ぼす可能性があるものは極力排除しておきたいのが黒羽の、そして佐伯の本音だろう。あの巨大な肉塊がなにかということは亮が意図して伝えず、黒羽は終始「化け物」扱いして、なにかの拍子で言わなければならないときは今にも唾を吐きそうな表情をしていた。
 最初、あの巨大な肉塊を焼き殺すという結論が黒羽に伝えられた瞬間、黒羽はいつもの元気を取り戻して積極的に口をはさむようになった。あれが淳だと訂正したくなる誘惑がふっと胸によぎったが、本当に伝えたとしたら黒羽は手のひらを返して大反対するだろう。それを見越した上であえて真実を伏せている。そして教えない佐伯もまた、弟殺しの計画に加担している。今残っているみんなを守りたいという思いだけで動いている黒羽に差し出す二人の手は、血の紅に染まりつつある。
 助けてくれた黒羽さえ利用して、亮と佐伯は淳を殺す。一瞬でも罪悪を感じてしまったらそこで終わりだ。そこから先へ進むことができなくなる。感情を殺し、口を閉ざし、真実を誤魔化し続ける。
 そうやって弟を殺そうとする自分が、なぜか聖書のカインとかぶって、一瞬でもそう思った自分を否定した。
 弟を殺して神の愛を手に入れようとしたカインではなく、共に天に昇って星座となったカストルとポルックスになりたかった。
 その星はもう明け方で見えない。夜明け前の空には、もう明けの明星がささやかな光を放つだけとなっている。


 蛇口からねじれて落ちる水の束に指がかじかんだ。亮は冷たくて自由のきかない指を水に絡ませながら、ひたすらせっけんの泡を流していた。表面のぬるつきを水で完全に流して、指を顔の近くにもっていく。なんど洗っても、灯油のにおいはしつこく指のすきまにしみこんでいる。佐伯も黒羽も葵もさほど灯油の臭気を気にしているようには見えなかったが、亮の神経にはどうしても障った。繊細と呼ばれるには背中がむずがゆいし、神経質とは少しニュアンスが異なる。なんど洗っても薄くなるばかりでなかなか消えない揮発性の油は、早く屋上を火に包みこみたいという考えさえ邪魔していた。
 入念に洗っても落ちないにおいを洗い流そうとしている間に、冷えは指先から手首を伝って肘へと進行してくる。数分もしないうちに針のように忍耐を刺すストレスがついに勝利した。普段ならハンカチを使って拭くところをわざと服になすりつけて水を吸わせた。一年生の廊下に放置されていたジャージを羽織っていたが、少し小さい上に吸水力もなかったから何度もなすりつける羽目になった。
 そして、顔を上げた。顔より少し下の位置で、自分とまったく同じ姿かたちをした鏡像が、遠慮なく視線をかちあわせてきた。赤い帽子をかぶり、つばの下で暗い視線を投げかけてくる。目を落としてもう一度手を洗おうと蛇口をひねったが、水は針金のように細く流れ出すだけにとどまった。
 ふたたび、姿見の中の自分と正面から相対した。
 全く同じ顔が、ガラスに塗られた銀の奥に、もうひとつ。右手を当てると、ガラスの奥にいる自分と瓜二つの鏡像がガラス越しに左手を合わせてきた。
 帽子の下にある不機嫌そうな無表情は、双子の弟と全く同じ顔。見慣れすぎて、もう違う特徴を見つけることすら諦めていた顔が、鏡の奥にもうひとつある。
 淳は、自分と同じようになるのが厭だったのだろうか。区別がつかなくなって個が個と認識されないようになるのを、幼いころから恐れていたのだろうか。そうなるとますます分からない。どうせ双子というレッテルが貼られるのならば、一緒にいれば双子という少しの特殊性で覚えてもらえるのに。
 鏡の奥にいる自分は、まるで転校する直前の淳のような表情をしていた。郷愁など毛頭ない、ほかならぬ亮にありったけの恨み憎しみを連ね、絶望に隈取られた能面の形相。
 これだから自分は淳が理解できないのだろう。亮は視線を自分でも淳でもないものから外し、銀色の蛇口まで下ろした。鈍い光沢のある蛇口は肌色と帽子の赤をほのかに浮かび上がらせていた。不鮮明に歪んだ虚像が、亮であり淳である人間の姿を映しだそうとしている。
 まったく同じものをもとに作っているのに、どうしてこんなにも違うものが出来上がるのだろう。この蛇口の不明瞭な鏡も同じだ。亮と淳は顔も身体も内臓も同じものを元手にして分裂したものなのに、性格だけが根本的に違っている。それは一緒にいるときに顕著に表れた。
 片割れに勝ちたい、という意思は、淳の方に強く作用していた。亮はテニスをしていても、相手に勝つという結果より、テニスによって敵だったものと時間を共有して仲良くなりたい、という考えの方が強かった。テニスを始めたのは、周りがテニスに対する深い素養があったという環境の要素は大いにあったが、それを打ち消すほど「楽しみたい」という願望が強くあったためだった。
 しかし淳は違った。楽しみでテニスをしていたのは仲間とテニスをしている間だけで、亮と当たるときやダブルスペアになったときは、淳らしくなく幾度も力技に頼っていた。それでなんどか怪我をしたが、亮の手当だけは絶対に受けなかった。いつも手負いの狼のような視線を向けられた。
 ここまで思い出すと、やはり自分たちは顔が同じだけの全く違う人間だと証明しているかのような気になってくる。
 ――俺たちは、双子じゃないのかよ。
 双子じゃないわけがない。同じ受精卵から生まれて、同じ日に生まれ、あいつが淳を連れ去るまでは全く同じ生活をしてきた。違うのは、ひとつの受精卵で生まれた命は、ひとつではなくふたつだったという事実だけだ。それを淳は拒んでいる。なぜ? 変えられようもない事実を否定して、どうして破滅的とさえ思える行動を取る?
 突如沸騰した苦しみが、心臓を焼いた。
 思わず目の前の鏡に拳を叩きつけると、古いガラスだったのか、拳を中心としてあっけなくクモの巣状のひびがはりめぐらされた。亀裂の合間で自分の顔が無数に分裂した。淳がいるような錯覚に囚われた。鏡の中にはいなかった。淳と同じ細胞は、受精卵がなんらかの要因で分裂して以来、この身体にも綿々と受け継がれているのだから。今、淳は人魚の肉の副作用で、永遠に生きかねない化け物となり果てている。鏡の中にいるのは淳ではない。
 ピリオドを打つ方法は、たったひとつしかありえない。劫火に凌辱を任せ、赤い舌でちろちろと焼いていくしかない。しかしそれができるのか。いや、できる、できないという話ではない。やるしかない。そのための準備を佐伯や黒羽と葵にさせている。殺すしかない。道はそれしかない。
 双子として生まれ落ちた、責務。
 淳と同じ細胞を持つ一卵性双生児は、自分だけ。
 決着をつけよう。それがたとい自分を殺すことだとしても。
 自分が淳だと思えば、非情なまでに残酷に殺すことができよう。自分と淳は二人で一人。全く同じ人間。どんなに否定されても、血は繋がっている。この血が体内を巡る限り、自分と淳の絆は消えやしない。
 ずるずるとずり落ちた拳が、ガラス面に二本の赤い血の筋を引いた。
 鏡の奥にいる自分は、鉄仮面だった。鏡の向こうにある、鉄のように冷え切り硬直した無数の顔。そのひとつひとつが、みんな淳に思えてきて、亮は強引に視線を逸らして廊下に出た。残像を振り切るために目を拭ったが、手の甲にはかすかに塩味が残っていた。


 場所を変えた。必要なものを手に入れるために向かったのは、古びた薬品のにおいがうすくたちこめる理科室だった。白々と明け始めた窓の外をちらりと見た。しかし空は明らんでも室内へはそうそう光の恩恵はもたらされない。ひとつひとつのひきだしに張られたラベルの文字が見えず、亮は目を凝らしてもラベルに書かれた文字を読むことは叶わなかった。理科室の戸棚を手当たり次第あけていく。三葉虫やアンモナイトの姿がうっすらと刻印された石を見つけて、違う棚に移った。欲しいのはただひとつ、全てを焼き尽くす小さな火種だった。
 いくつかめの戸棚を開いて、餅よりも一回り小さいくすんだ小箱をいくつか見つけた。側面に茶色の塗料が塗られている。開けてみると三本だけ、マッチ棒が入っていた。その中の一本を側面に滑らせると、大きな炎が膨らみ、そして火が落ち着いた。あたたかさを失った指がほのかに熱を帯びる。暗さにばかり慣れていた目に、緑色の残像がちらちらと残った。ふっ、と火薬が香った。しけていない、亮はそれだけを確認し次第、炎を吹き消した。火は揺れてあっけなく消えた。白い煙が一筋だけ立ち上った。
 用済みの燃えカスをシンクに捨て、亮はいくつかあったマッチ箱の中身を最初に取ったマッチ箱に移しかえはじめた。全ての箱を空けても、最初のマッチ箱の半分ほども集まらなかった。箱をポケットの中に押し込む。
 そのとき、突如理科室の扉が、ガラと開かれた。
「亮、なにもなかったか?」
 黒羽がドアに片手をかけつつ尋ねかけた。
「大丈夫、なにもないよ。まあマッチは見つけたけどね」
「なら良いんだ。戻るか」
 黒羽らしい短い返事に亮はひとつうなずきかえして、理科室を後にした。
 廊下を進みつつ、黒羽はなんの疑いもない顔で尋ねる。
「灯油とか燃料、全部屋上に運び出したぜ。それでよ、あの化け物、お前の計画で本当に焼き殺せるんだろうな?」
 疑問系の形こそなしていたが、根底に流れる信頼があらゆる疑惑の色を塗りつぶす。
 亮は視線の位置を廊下のリノリウムに置きながら問いに答えた。
「殺せるよ。もし死なないなら、死ぬまで焼き殺すまで」
 思わず声のトーンが低くなる。
「そ、そうか。頼むぜ」
 そしてしばしの沈黙が下りた。二人の靴音が、音のなにひとつない空間に幾重にも波紋のように重なる。耳鳴りさえする。
 黒羽はそんなに重くない、極めて普通の調子で尋ねかけた。
「ところで、ずっと聞きたかったことがあんだけどいいか」
「どうぞ」
 しかしその問いを、黒羽は未来永劫後悔することになる。

「お前、最初からその帽子、かぶってたっけか?」

 帽子の下で、切れ長の目が突如驚愕の光を宿し、そしてまた凍るような冷たさが取り戻された。黒羽から亮の顔を見るには帽子のつばが邪魔をする。亮は唇を噛み、拳を握った。
 突然立ち止まった亮と同じように、黒羽は一歩と違わぬ場所で足を止めた。
「おいおい、どうしたんだよ突然。行こうぜ」
 小さな困惑は、亮と淳が入れ替わっていたことに気付いたということではなかった。ただ突然歩みを止めたことに対する純粋な戸惑いだった。黒羽は亮の肩を掴んで進もうとしたが、亮自身は頑として歩みださない。
 唾を嚥下するほどの極短い間隙の後、亮は抑揚ない声でひとつ尋ねかけた。
「……ねぇ。バネが、俺たち双子を間違えたことって、今までに何回あったっけ」
 その唐突極まる問いに、黒羽が首を傾ける。記憶を辿るのは二秒とかからず、すぐに答えが返ってきた。
「さぁな、忘れたけど、中学に入って以来一度も間違えてないはずだぜ」
「そうだね。俺も、中学に入ってから、バネにだけは間違えられた記憶はないよ。とても……嬉しかった」
「亮?」
「……ごめん」
 一瞬、黒羽はなにが起こったのか分からなかった。腹部に殴られたような衝撃。突然こみあげた吐き気が喉の奥でつっかかり、息だけが虚しくも零れ落ちる。腹、特にみぞおちの鈍痛が、じかに胃を圧迫している。
 その瞬間、亮は風の速さで黒羽の懐にもぐりこんでいたのだ。同時、足から力を失って体重を乗せてきた黒羽の苦悶の呻き声が、耳元で聞こえた。亮のそう小さくもない拳は、黒羽の鳩尾に、深々ともぐりこんでいた。
 黒羽の口から、吐きそうで吐けない苦しみの声がふたたび漏れる。服の胸生地を掴まれた。信じられないとでもいうような目つきに、下から覗き込まれた。
「りょ、お……お前……ど、して、」
「……ごめん」
 声帯を使っていないかのような声で亮はふたたび謝罪の言葉を口にする。腹に膝を強く蹴りこむと、今度こそ本当にぐたりと全身の力が抜けて、背中を上にして意識ない身体は倒れた。オジイのアスレチック場で遊びながら鍛えられた肉体は存外に重かった。
 意識を失ったリーダーの横に膝をつき、亮は黒羽の顎に、す、と指を滑らせた。氷のように冷えた指が、黒羽の首筋に触れてその温度を確かめた。指先の動きは、まるで子供をあやす母親のように優しかった。黒羽の背中に、羽織っていたジャージをかけ、亮は声帯を使わないごく小さい声で囁きかけた。
「いままでありがとう、バネ。バネは俺たちのために力を尽くしてくれたよね。それはとても嬉しかった。もっと一緒にいたかった。でもこれ以上は一緒にいられない」
 亮は廊下の窓の奥、反対側の校舎にいる巨大な肉塊を睥睨した。

「もう誰も巻き込むわけにはいかないよ」



 黒羽が亮を迎えに行った後に、部屋の隅に置いていた教科書の山をまだ屋上に運び込んでいないことに気がついた。佐伯は再び屋上へ向かい、味気ないコンクリートに教科書という教科書をばらまいてきた。冬休み期間中に教科書を家に持ち帰らなかった人は案外多い。その人数に比例して、屋上の四分の一程度が教科書に隠れていた。
 そして再び一年A組まで戻ってきた。天根が横たえられたままの教室には乾燥した血のにおいがこびりついていた。ドアを開けた瞬間に分かるのは血のにおいだけだった。なんどか黒羽に、待機場所を変更しようと言い出そうとしたが、最後まで言い出すことができずにいた。
 教室の引き戸を横に滑らせた途端、目の前に誰かが立っていた。その人物は間髪入れずに「サエ」と、帽子の下から呼びかけた。
 十センチと違わない背丈。長い髪。赤い帽子。
「亮、全部の準備、終わったよ」
 亮はこくりとうなずいた。
 佐伯は教室の中に入り、近くの椅子に腰掛けて思い切り伸びをした。そして脱力。佐伯の目の前に立っている亮に向けて顔を上げた。亮はいつもどおりにクスリと笑い、「お疲れさま」と佐伯に紙コップを差し出した。中には半透明の液体が中ほどまで入っている。一口飲み、中身が飲みなれたスポーツドリンクだと判明すると一気に流し込んだ。ただ、爽快な冷たさが今の状況では殺人的な冷たさになっているし、寒さで麻痺した舌は味を感じられなくなっていた。どちらにせよ、ほぼ半日ぶりに摂った水分だから文句は言えなかった。
「久しぶりに飲んだみたいだ。どこにあったの?」
「宿直室にね。誰かの先生の買い置きだったみたい。……なんだよその目。蓋は開いてなかったからいいだろ」
「そうだね。気遣いありがとう。バネと剣太郎にもあげないとな。ふたりはどこだい?」
 亮は椅子に腰を下ろし、廊下を振り向いた。
「ふたりならトイレだよ。剣太郎をさっき戻ってきたバネが連れていった」
「そっか。それにしてもお疲れ」
「サエもだよ。こんなことにつき合わせてごめんね」
「いや、いいんだよ。俺にできることなら付き合うさ。いっちゃんには、なにもできなかったからさ。……俺が殺したようなものだから」
 最後の言葉だけ、少し沈んだ調子になってしまった。しかし悔いるのは後でいい。その時は涙枯れるまで泣くつもりだ。
 顔を上げた瞬間、亮の視線が入れ替わりに床に落ちた。
「俺、うらやましいな。サエの、腹を決めたときのそんな姿勢。俺にはできないよ。いつまで経っても、腹をくくれない。腹より首をくくりそうだ」
「不吉なこというなよ。オジイが、言葉にしたら本当に起こるって言ってたじゃないか」
「俺も、そんなこと起こってほしくないよ」
 沈黙が訪れた。鳥の一羽もさえずらない清浄な朝が窓の外で始まろうと、空が脈々と明らんできている。太陽こそ出ていないが、後三十分も経てば明けの明星さえ消えることだろう。
 秒針が一周してきたぐらいの時間を置いて、亮が窓の外を見ながら話しかけた。
「あのさ。睦角山の上に、公民館があるだろ? そこ、指定避難所なんだ。たくさんの人が避難してきている。サエの家族もそこに避難してたよ。剣太郎と俺の家族も」
「そうだったのか。ありがとう。恩に着るよ」
 返答を黙殺し、それにね、と亮は続ける。
「津波が完全になくなったら、剣太郎を連れて睦角山に行って。ジュニアやってる友達がそこにいるし、案内とかしてくれると思うから。バネには、母校の小学校に行って、って伝えて。しばらく避難所生活になると思うから、着替えとかを持ってくといいよ。しばらく会えなくなるだろうしね」
 そうか、と安易な返事しか思いつかない。
 しかし、なんどか亮の言葉を咀嚼するうちに、ふと奇妙な違和感が芽を吹いた。
 亮はなんといった?
『剣太郎を連れて睦角山に行って』だと?
「亮、行くのはお前もだろ」
「……」
 返事はない。
「しばらく会えないと言っても、復旧作業が終わったらまた戻ってこられるさ。そんなにさみしい言い方するなよ。俺たちは絶対生きて帰る。いつまで復旧作業や仮設住宅生活が長引くか分からないけど、また六角に戻ってきたとき、次に会うのはコートの上だ」
「コートの上、か……」
「どんなに忙しくても、いつかまた会える日が来る。その時はまた、テニスしないか」
「テニス?」
 また思い出せる日が来るとは思わなかったよ、と亮は諦めたような笑みを浮かべる。
 佐伯は言う。テニスがなければ、今こうして集まっていることもなかった。オジイには感謝している。オジイがいなければ、俺たちは廊下ですれ違うだけの仲だったから。
 亮も返す。そうだね。会うこともなかった。今こうやってみんなで協力して生き抜こうとするほどの力はなかった。ひとりひとり削られていっても、みんなで力を合わせた。もし俺たちが見知らぬ人同士だったら、他人を食い物にして生き抜こうとしたに違いない。動物はエゴが本来の姿。でもその動物を人間たらしめるものが、思いやりという思考回路。それは今のみんながいたから形作られた。とても楽しかった。だけどね。
「俺も六角に長くいすぎた。でももう、これ以上はいられないんだよ」
 ごめん。
 亮はそう呟いて、突如佐伯の肩の生地を掴んだ。
「っ!」
 佐伯は思わず飛びのいて、その拍子に椅子を蹴飛ばした。がしゃあん、と派手な音を立てて背後に倒れる。腹に軽く拳が入ったが気持ち悪くなる程度で、亮の手を振り払う。数歩下がった位置から見た亮の顔は、帽子のつばの下で、夜よりなお暗い影を宿していた。
 名を呼ぶが返事はない。質問を変える。
「お前、なにしようと……っ」
 今更腹に入った拳が鈍痛を発してくる。その苦しみは予想以上で、その場に膝を突いた。昔、黒羽とやった大喧嘩で殴られて三日間何も食べられなくなった時の痛みが何でもないように思えてくる。
 でもそのときの痛みとは全く違った。純粋に、仲間だと思っていた人物に前触れもなく裏切られたような、心にくる疼痛。
 亮は帽子のつばをまた下げた。口許さえも影の支配下に置かれた。
「やっぱりサエは、一筋縄じゃいかないよね」
 反論しかけて、ふと教室の隅に目が行った。
 何十本もの机の脚で造形された林の中に、坊主頭の少年がひとり、仰向けに倒れていた。金属の足の林が切れた場所で、半開きの指が力なく投げ出されていた。
「……剣太郎……」
「ごめん。でも今は、本当に駄目なんだ」
 その後は単語のひとつさえ、呻き声を抑えつける唇に遮られて出てこなかった。
「これ以上、俺たちのことには関わらせない。だから、大人しく寝ててくれ。俺だってそんなに乱暴なことをしたくない」
 亮が目前に迫る。しかし動けなかった。代わりに視界がぐらりと傾き、亮の顔面が背景と共に歪んでねじれる。強くはないが頭痛が脳を病原菌のようにぼんやりと侵し始める。まぶたが重い。腕が、指が、脚が動かない。今までの疲労が全て眠気に還元されたかのようだ。
 ついに危うく保っていたはずのバランスさえ崩れ、佐伯は前に倒れこんだ。温かい腕が自分を正面から抱きかかえるように支える。耳元で聞こえた亮の声がかすかに暗い。
「ようやく効いてきたね」
 亮はポケットの中から銀の個包装に包まれたままの薬を一包取り出したが、佐伯には見えなかった。みるみる内に下がっていく明度で目を凝らす。無情にも少しずつ意識に霞がかかっていく。
「超短期作用型ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤トリアゾラム。勝手にさっきのジュースに入れさせてもらった。俺がどこで手に入れたかは省くけど、これが切れるころには全てが終わっているはずだよ」
 副作用として前向性健忘もあるから、あわよくばこれからのことを忘れられる。
 そんな。どうして。おれたちはいっしょだろ。りょうはきらいなのかよ。言葉は眠気の触手に絡められ、暗闇の泥沼に足を取られて沈んでゆく。
 まってくれ。おれは、まだ、こんなところでねむっていられない。りょうひとりだけにさせるわけにはいかない。しかし指が動かない。目の前で淳をみすみす異形化させたときのように。一番大事な人に限って、目の前でいつの間にかいなくなってしまう。ひとり、無駄に生き残ってしまうのは厭だ。それなのにどうして、亮、お前は、そんな哀しい目をする。
 世界がぐらぐらする。疲れて布団に入った時のように、意識が靄に削ぎ取られて闇の中へ落ち込んでいく。精神の欠片さえ眠りのコールタールに沈んでいく。このまま行かせてはいけない。ここで意識を手放してしまえばもう亮とは永遠に会えないような気がする。行くな。亮。手を伸ばす。それなのに指は動かない。
 すぅ。手が落ちる。

 ――沈みきった場所は、夢路への澪。
 ……………………
 …………



 交差していた佐伯の首がかくりと落ちた。意識のない人間はたとえ子供でも相当に重い。佐伯を仰向けにして上半身を抱き起こし、そしてその場にゆっくりと寝かせた。目尻に光る涙を人差し指で拭う。
「……嫌いなわけ、ないだろ」
 どうして? 一緒にいたくないわけがない。家族同然に過ごしてきた仲間を、今どうして嫌いになれよう。
 もう一度テニスをしたかった。もっとアスレチック場でみんなと遊びたかった。もっと浜辺で潮干狩りをしたかった。もっといっちゃんの手料理を食べたかった。もっとダビデとバネの漫才を見ていたかった。もっと剣太郎の逆転劇を見たかった。もっとサエとテニスをしたかった。もう一度淳と仲直りしたかった。やりたいことはいっぱいあった。もっと、もっと、言葉にするだけじゃ足りない。
 いつもテンションが高くて、いつも貝をたくさん取りすぎて、コートに行くのも一緒だった仲間。
「だいすきだよ。サエ。バネ。剣太郎。いっちゃん。ダビデ。オジイ」
 亮は自分の首に巻いていたマフラーを佐伯の首に巻きつけた。血と生傷で汚れた皮膚は、今までの無理を想像させた。
 自らの首からマフラーがなくなり、青紫色の痣が朝の近い夜気に触れた。
「でもこれからは、俺たちの問題なんだ」
 向かい側の窓で蠢く化け物――淳――の姿を、射抜くような視線で睨み、宣言するように独白した。

「俺は今、あつしというおれを、燃やす」
 




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