●樹のヌシ●

主演:知念寛


 むかし、おばあからこんな話をきいたことがある。

 といっても、おれは小さいころからおばあちゃんっこで、よくおばあのひざの上でむかし語りをきいていた。

 ガジュマルにすむ赤いはだの子どもの話。海にあらわれる人魚の話。かけおちした男女のたましいが遺念火という人魂になって二つ一組であらわれるという話。

 星のかずほど語られた話のなかで、おれは「木のヌシ」の話を一番よくおぼえている。

 樹齢のながい木には「キーヌシ」とよばれる精霊がすむのだそうだ。

 キジムンに似ているけど、キーヌシは出歩かなくて人にみられたことはないらしい。

 でもキーヌシがいるということは分かるのだそうだ。

 なんでしってるの? ときいたけど、おばあは、むかしから伝えられていることだからといって、いつもはぐらかす。

 でもむかしから今までずっと伝えられているのなら、本当にいるのだと思っていた。

 いつか本当にみてやる。おれはそう思って、キーヌシをさがす準備をはじめた。



 ある日の学校の帰りに、ランドセルを背負ったまま、おれは島の南をおおいつくす森にきていた。

 キーヌシは木のなかにいて、それなら森にすんでいるだろう。おれはそうふんで、腰にさげた水筒をゆらして、ひんやりとした森のなかに入った。

 森のなかは、太陽があたっていないのか涼しかった。ざわざわと風に樹冠がざわめいて恐かったけど、ポケットの中の勇気をだして進んだ。

 しばらく一人で進んでいたけど、夕陽がちかづいて、夜がちかづいてきた。

 やっぱり恐くなって、帰ろうとおもった。

 おれはもときた道を戻り始めた。でも歩けど歩けど森がとぎれない。夜はどんどんふかくなって、頭上のはっぱのあいだから星がきらきらかがやきだす。

 時間がたつたびに、おれはどんどんパニックになった。

 右も左も闇にのまれて、そのうえどこからか木がたおれるような音がきこえてくる。

 でもぜんぜん森はとぎれない。おれは泣きそうなきもちで、近くにあった一番おおきな木の足元でぐしぐしと泣きはじめてしまった。

 だれも来てくれない。助けてくれないんだ、このまま死んじゃうんじゃないかとおもうと、ひざをかかえて泣きだすしかなかった。あいかわらず木のたおれる音がきこえてきている。

 腰にさげた水筒から水がこぼれて、木の根やどろだらけの半ズボンをぬらして冷たかった。

 すると、夜の森のなかに、うすぼんやりと光るものをみつけた。希望がそれしかなかったからそろそろとちかづいてみると、それはうすく黄緑いろに光るキノコだった。

 森のおくをよくみてみると、発光キノコが道しるべのように点々とつらなっていた。

 おれはその光だけを目指して、すがるようなきもちでキノコを追った。

 すると、森がすぐにとぎれて、星空がひろがっていた。

 水筒はもうかるくなっていて、木のたおれるような音は、もうきこえてこなかった。



 家に帰ったら、めちゃくちゃ怒られた。

 怒られたあと、おばあに今日のことをはなした。するとおばあは、ああ、キーヌシ様が亡くなってしまうんだねえ、としみじみといった。

 おれはその意味がまだわからなくて、また質問しちゃいけないような気がして、あえておばあにたずねなかった。



 森でまよってから数日して、今度はきれいな石をなん個も道しるべにつかいながら、ふたたび森のなかにはいった。

 すると、突然だれかがおれに話しかけてきた。おれはあわてて周囲に目をむけるけど、もちろん自分一人しかいない。

 だれだ、と叫んだが、声のヌシは年季の入った笑いごえをたてた。

 私はそなたの後ろにおる、と。

 振りかえったけど、、そこにはタコのようにねじくれた太い幹があるだけだ。

 どこにいる、でてこいというと、声は、まだ分からないのかい、私はそなたの後ろにおるよ、と人をくったような言い草で笑った。

 おれはイライラしていたけど、本当かなとおもって、後ろにある大木に歩みよった。

 ほら、いたじゃないか。声のヌシ、大木はからからと笑った。

 お前がキーヌシなの、とたずねると、その通りだ、樹のヌシは子どもにさとさせるようにいった。



 それからは頻繁にキーヌシの元に通うようになった。

 キーヌシは今の事は知らないけれど、何百年も生きてるって言うから、俺の知らない話をいっぱいしてくれた。

 おばあから聞いた事もないぐらい昔の事まで教えてくれた。

 ある日、俺が、どうしてこんなにいっぱい話してくれるのかを聞いたら、仲間の最期を看取ってくれたから、という言葉を貰った。

 最期を看取ったなんて言葉は、まだ縁遠いものだった。



 俺が中学校に上がってすぐ、おばあが死んだ。

 ずっと色んな話をしてくれたおばあ。そろそろお迎えが来るかな、という言葉はこの事を指していたんだ、と今更になって分かった。

 しばらくの間、俺はキーヌシと話すほどの気力がなくて、森にもいけなかった。

 でも喪が終わってちょっとしたら、足は自然にキーヌシの所に向かっていた。

 キーヌシは、残念だといって俺の頭を枝で撫でてくれた。よく今まで耐えられたね、偉いね、といって、たわわに生えた葉っぱが、風の吹くたびに頭を撫でた。

 今までの想いが全部一気に溢れてきて、俺はその場で何時間も泣いた。

 キーヌシは、泣け泣け、と囁いて、ずっと俺のそばにいてくれた。



 中学校、高校となるとさすがに忙しくなって、なかなかキーヌシの森へは行けなかった。

 でも休みの日があったら、迷わず森に直行した。

 キーヌシに会えると、俺はいつもの自分を忘れられる。学校での嫌な事も、辛い事も忘れて、子供のままの心でキーヌシと話す事ができる。

 森の獣道もすっかり憶えて、忘れるなんて事はなかった。

 もし忘れても、森のみんなが道しるべを置いてくれた。

 森は、海と同じぐらいに、なくてはならないものになっていた。



 高校最後の年、俺は既に就職を決めていた。北九州の運送会社で、トラックの運転手になる事が決まったのだ。

 失業率の高い沖縄で勤めていては安定した生活は望めないと判断したからだ。

 それは即ち、島から離れることを意味していた。

 俺は旅立ちの日に、キーヌシに会って、簡単な別れを告げた。

 キーヌシは、最初に会った時と変わらない大らかさで、行ってこい、と送り出してくれた。

 俺はその言葉を胸に抱いて、島から離れた。



 会社での忙しい日々を過ぎたら、いつのまにか二回も年が明け、俺は成人になっていた。

 成人式の準備をする為に俺は休みを取って、故郷沖縄に帰った。

 同学年の生徒、約80名が一挙に島の公民館で式を挙げた。

 それが終わると、俺はスーツ姿のままキーヌシの森に走った。

 一月の桜吹雪をくぐり抜け、森の中を走る。

 キーヌシは、久しぶりだなぁ、といって穏やかに笑った。懐かしいなあ。変わらないなあ。お互いにそんな言葉を返す。

 俺はそれが嬉しかった。



 人間の生とは約80年まで延びていると聞くが、長いようで短いのは本当だった。

 あばら骨が洗濯板みたいな俺にも、忙しいうちに彼女が出来て、結婚して、子供が生まれた。

 その子供が成長して、成人になって、子供が生まれて、俺は祖父になった。

 年月が経って退職したら、俺は沖縄に帰ってきていた。

 孫にも子供が出来て、俺は曾祖父になった。その曾孫にも子供が出来て、曾々祖父になった。

 足腰が弱くなって、遠くまで出歩くことが出来なくなった。腰こそ曲がらなかったが、膝を悪くして、杖に頼らねばならない日々が続いた。

 毎日の記憶も霞のように薄れ、かつてテニスで共に戦った仲間たちとも死別した。死因である病すら憶えられないほど、俺は衰えた。

 でも、幼い頃の記憶がしっかりと残っているのが不思議だ。

 キーヌシの記憶は、毎日のように脳裏を過ぎっては消えていった。



 ある日、絶海の孤島であるこの島にやってきた若い医師が、俺の病気を告げた。

 どうやら足の骨に癌が出来たらしい。この高齢だと手術も難しく、また手術で治ったとしても快復に時間がかかり、下手すれば死ぬまで車椅子かもしれないと宣告された。

 やっぱりみんなのもとに行かねばならないのかな、と思うと、おばあの言葉が思い出された。お迎えってこの感覚の事だったんだな、と今更分かった。

 最後の力を振り絞って、俺は最後に森に向かった。

 不思議に死への恐怖心はなく、代わりにキーヌシに最後に会いに行くことばかりが俺を支配していた。


 キーヌシは待っていてくれた。

 本当に、待っていてくれたのだ。

 最初に会った時と同じように。全く、何処も変わりのない姿勢で、森の中、ずっと立っていてくれたのだ。

 キーヌシの足元に座って、俺は背を預けた。幹は水を吸い上げてひんやりと冷たかった。

 もう足は動かなかった。どこにも行けないが、それでも良いのではないかと思えた。ここで会って、ここで別れる。それで終わってもいいと、漠然と思った。

 キーヌシはそんな俺を、何も言わずに葉で包んだ。

 俺の意識は、ゆっくりと、キーヌシとの想い出に沈んでいった。


   *


 それきり、俺の身体は活動を停止したそうだ。

 何の変わり映えもない、普通の旅立ちだったそうだ。

 もう衰えて聴こえなくなった耳に、微かな夏の残滓が、こそりと音を立てていた。











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