ザンがいる海
主演:甲斐裕次郎
俺が海に行くと、あいつはいつもそこにいた。 あいつの名前はザンだ。方言か共通語か知らないけれど、「ジュゴン」という生物の仲間だと聞いたことがある。 前に、お前はジュゴンじゃないのか、と尋ねたが、あいつは確かに「ザン」と名乗った。 だから俺は、そいつの事を「ザン」と呼ぶ。 心に直接呼びかける。その声は優しく、同時に俺を助けてくれる。 海に来る、俺の友達だった。 今年の夏が始まってすぐの辺りだった。ある日、俺は岩場に遊びへ行った。 岩場には色々と面白い生物がいるだろうと踏んでのことだった。 小さい頃から慣れ親しんできた海だ。だからか少しは海遊びにも飽きてきた頃だった。 だけど、俺はそこで初めて「ザン」と会った。 初めは、岩場に何かあるな、程度の認識だった。俺は漂流物に期待していた。 近寄ってみれば、何か白くて大きな物があるな、ぐらいだった。 でもそれは、大きくもなければ小さくもない、単なる海洋生物だった。 怪我をしていたらしく、尾の付近で漂う水が赤く濁っている。 俺はとにかく何かしなきゃと思って、とっさに首に掛けていたタオルで傷口を拭いて、縛った。 もちろん俺は海の生物を手当てする方法なんて知らない。 腹が減ってるかもしれないから、ポケットに入れていた黒砂糖を含ませた。 海洋生物が食べても大丈夫な食べ物かどうかは知らなかったが、何も食べないよりはマシだろうと思ったからだ。 しかしそれでもザンにとっては良かったらしい。あいつは俺に「ありがとう」と言って、沖へ泳ぎ出した。 珍しいことがあるもんだと、俺は構わずに海で泳ぎ始めた。 次に会ったのは、監督のスパルタ部活が終わってからだった。 暮れなずむ夕日の中、皆はそれぞれ帰り支度をしている。 俺もそろそろ帰ろうかなと思ったら、突然後ろから声を掛けられた。 しかしその声は俺にしか聞こえないらしく、他の部員は普段どおりに帰り始めている。 驚いてきょろきょろと周りを見回したら、海パンの裾をザンが引っ張っていた。 よく浅瀬まで来たなと思いつつ、俺はザンに最近の調子を訊いた。 どうやらメスらしい。やっと子どもを育てられるぐらいになりましたと、嬉しそうに報告した。 元気にやっているらしく、俺は安心した。 すると、ザンは俺に何かを差し出した。 それは指輪だった。金色の指輪だ。夕日を受けて、きらきらと輝いている。 しかしテニスでマメがたくさんできた指には入らないぐらいに小さい。 ザンは、これを「先日のお礼」だと言う。 とりあえず受け取ったら、ザンは嬉しそうに海へ帰っていった。 俺はそれを紐に通し、首に掛けた。 木手に訊いた所、それは間違いなく「ザン」だと言われた。 でも俺は「ザンと会話した」だなんて一言も言わなかった。 自分がおかしな人だと思われるんじゃないか、という理由ではない。 ただ単にこの事を、ザンと俺だけの秘密にしたかっただけだったからだ。 それから少しして、俺はテニスで新しい技を身に着けた。 ボールをぎりぎりまで引き付けてから高速でボールを打ち出す、強力な技だ。 まだ名前は決まっていない。 とにかく嬉しくて、今度は俺のほうからザンのいる海に出向いた。 あいつはいつも、俺が会いたい時に行くと出てきてくれる。 それは多分、俺の方が無意識にザンのいる場所へ行くからに違いない。 証拠に、島の反対側に行くとザンは現れなかったからだ。 だから俺が行く海は、ただの海ではなく、ザンのいる海となった。 久しぶりにザンを見ると、俺は嬉しかった。 ザンも嬉しそうに俺のところにやってきてくれた。 俺はザンと戯れながら、部活の話をした。そして、新しい技に名前をつけてくれるようねだった。 ザンはしばらく悩むと、「海賊の角笛」というのはどうかと俺に訊いた。 その技名を、チームの快進撃の始まりにたとえてのことらしい。 もちろん大賛成だ。俺はその言葉を英語読みにして使った。 名前を貰ったあと、俺はしばらく海へ行くのを止めた。というより、なかなか海へ行く機会がなかったのだ。 俺とザンは、知らないうちに疎遠になっているのを止められなかった。 テニスの夏が終わり、俺はザンに結果を報告しに海へ向かった。 26年間ずっと行けなかった沖縄を、全国へ導いたのだ。 結果としては2回戦敗退だったが、俺はそれでも構わなかった。 俺が今まで頑張った成果を、とにかくザンに伝えたかった。 全国へ行ったことを。一勝を挙げたことを。 しかしいくら待ってもザンはやってこなかった。 ある夏の終わりだった。 後から聞いた事だが、東京に行っている内に、数十年ぶりの勢力となる台風が沖縄を襲ったらしい。 それで多くの海洋生物が浜に打ち上げられ、その命を散らしたと聞いた。 その中にザンが入っていたかどうかは、今となっては知る由もない。 |
素材提供:空色地図様(別窓)