暗闇の中にいた。
 何色も存在を許されないような無明の空間に、子供の忍足がいる。忍足は手元に散らばる写真を手探りで探し、何も写っていない写真をひたすらに集めていた。1枚を見つけ、また1枚、もう1枚、と探している。その表情には一片の光もなければ闇もなく、ガラスのように受動的な光が宿っている。
 写真を1枚見つける毎にその中身を見ようと目を凝らして、結局見えないまま揃える。小さな忍足は、ひとかけらの感情もなく、義務的に探す。
 1枚1枚、たどたどしい手付きで探す。手の指は、何百枚集めたところで止まる予兆は見られない。1枚でも多くの写真を見つけたいと願うように、地面も天井もない空間に手を這わせている。記憶の断片を探すように、写真を集める。それなのに肝心の写真に景色は見えない。それでも小さな忍足は黙々と集める。
 何処に自分の記憶が残っているのだろう。
 いつから自分の記憶が途切れているのか。
 いつから自分の記憶が始まっているのか。
 忍足はとりとめのない考えに押されるまま、探し続ける。
 写真が残っているのは、中学校に編入してすぐからだった。忍足には、確かに小学校に通っていたという証明の卒業証書しか残っていない。それは形だけの写真だった。
 小学校の写真を抹消して得たものが、中学校からの写真だった。小学校の頃の写真には、従兄弟しかいない。姉が少し、父や母が、手元の写真にぼんやりと写っているだけだ。
 綺麗に中身が見える写真は、中学校の制服を着てからのものだった。それ以前の写真は、真っ黒に塗られて闇に葬られている。それを、必死になって目を凝らして見つめる。
 冷たい世界の中に、無音が満ちていた。耳鳴りも聞こえない世界の中で、遥か遠くから誰かの笑い声が届いてきた。
 ――けたけたけた……
 嘲るような子供の声が、たった1人の忍足に届く。
 その声は1つから2つ、4つ、7つ、無数に増えていく。無邪気に嘲る笑い声が無音を破り、それは不協和音の合唱になって無音を塗り潰していく。哄笑がざわめき、鼓膜を破壊するようにわんわんと波打った。
 耳に手を当てた。目を瞑った。それなのに嘲笑は一層増え、心臓まで到達するような振動を生み出す。
 止めて、そう言おうとする口が言葉を発することが出来ない。唇だけが空回りし、止めてくれ、それだけが言葉として口から出てこない。
 ――ざわざわ……アハハ……死ねよ……いなくなれ……ウゼェんだよ、どっかいけ……お前さぁ、邪魔なんだよ……キャハハ、キモいよ、侑士君……消えろ……なーみんなー、侑士君をこれで撃ってみねぇ? ……あーいいなー、んじゃあ忍足、そこに座ってみろよ……さっさとあれ盗んでこいよ……出来ないって? んじゃあ死ね……BB弾で撃ってみたら楽しいだろーなー、ね、忍足君……消え失せろ……え? こっから飛び降りるの? いいよ、やっても。でも俺たちの名前だけは遺書に書くんじゃねえぞ……
 顔を掴んだ指が皮膚に食い込む。
 止めてくれ。これ以上は嫌だ。言わないで。言うな。
 指の間から底深な闇が覗く。そこへ幼い顔のままで、忘れたはずの同級生の顔が突如として浮かび上がる。
 ――邪魔なんだよ、お前はよ。
 壊れた嘲りが忍足に笑いかける。 
 嫌だ。消えろ……
 ――だからさぁ、さっさと消えろよ。
 歯の奥がぎりりと鳴った。
 ――お前なんて、死ねばいいんだ。
 ――だから、消えろよ……
 止めてくれ。
 瞬間、忍足は、駆け出していた。
 靴を履いているかすら分からないまま、忍足は足元を蹴った。集めていた写真がばらばらに散った。
 走りながら、忍足は耳を塞いだ。壊れるぐらいに首を振って、追ってくる哄笑の波から逃げた。右も左も後ろも前も、何処が東で何処が西かも判らずに、ただひたすらに足を動かした。しかし声は穏やかに、耳元で囁きかける。無邪気に忍足の存在を否定し、抹消し、闇へと誘い……忍足はいつ逃れられるとも知れない無間地獄に陥る。
 閉じ込めた筈の心が涙を流す。その涙に、哄笑が一際大きくなる。
 光が欲しい。
 光が、欲しい。
 早く、早く此処から出たい。
 自分の心からも逃げ出してしまいたい。
 誰か……助けて。
 足元に散らばる無限の写真が、忍足の行方を阻む。真っ黒に塗られた写真が忍足を逃がすまいと足に絡みつく。足が紙切れを踏みつける度にバランスを崩し、転びもし、何度も起き上がって、とにかく逃げた。
 喉が悲鳴を上げた。しかし漏れるのは擦れた息ばかりだった。
 その時、目の前に闇を切り裂く一筋の光が差し込んだ。光は紐のように細く、忍足の足元を突っ切って下へと伸びていく。耳元で囁きかける声がぴたりと止む。
 忍足はその光に手を翳した。そしてその翳した手を、ほっそりとした指が掴んだ。雪のように冷たい、そしてあたたかい光が目を刺激する。
 吸い込まれるように、足の裏が重力を感じなくなる。導かれるように、ささやかな光の元へ目を凝らす。逆光となった姿は、誰か特定することが難しい。しかし特定することが愚かしいような気がした。少しずつ近くなっていく光の場所へ、忍足は近づいていく。

 ――生きて……

 その時、雪菜の声が、聞こえたような、気がした。



 はっとして目が覚めた。
 荒い呼吸が胸を激しく上下させる。長髪が汗でべったりと額に張り付き、毛先から皮膚へ汗が滑り落ちてゆく。新品のシーツの匂いが鼻につき、それよりも一層濃いエタノールが嗅覚を刺激した。
 眼前には布で四角く切り取られた天井がある。それは闇の色に近い紺色をしており、夜だという事が容易に推察できた。
 呼気は高濃度の湿気を含んでいたが、吸い込む息は夜気となっている。夜の冷徹さがそのまま気体に変化したかのようで、それは肺胞から忍足を蝕んでいった。息を吸う度に喉の奥が冷やされ、呼気によって濡れていた。
 忍足は右手を顔の方へ翳した。さして明るくはなく、逆に言えば暗いぐらいだ。その右手の平が、室内の僅かな光をも遮って、忍足に完全な暗闇をもたらす。暗闇は思案を補助してくれる。まだ上手く働かない海馬から、一番最後の記憶を引きずり出す。
 駅を降り、道路を渡り、駐車場へ、本屋で本を買って、電話が来て、後は、目の前に迫った車の突進……
 そこでようやく記憶が戻った。
 事故を起こしたのだ。はねられたあとの記憶は定かではないが、病院に搬送されたのは現実の事だと思う。
 そうだ、雪菜……
 とにかくベッドから出ようと身体を横に傾けた。瞬間、灼熱のような激痛が全身を駆け巡った。忍足は呻き声を上げて、ベッドの上にどうと倒れた。軋むスプリングが忍足の身体を微かに揺らす。ベッドのすぐ横から点滴台の音が聞こえた。
 鈍痛が腹部と左の腕を容赦なくいたぶる。頭部も脚もずきずきと痛んだ。今見れば右腕には輸血用のチューブが伸びている。忍足が動くのに呼応してか輸血パックを吊り下げた粗末な点滴台が揺れる。パック詰めの血液が毒々しい色で、僅かな光を反射していた。
 阿呆どころやないな、馬鹿や俺。間の抜けた詰めの甘い最悪の馬鹿や。拳を握り締めながら、荒い息の合い間に自分を貶す。目の前を、ぎっ、と睨みつけながら、無事な右腕でゆっくりと上半身を起こす。腹部が燃えるような激痛を発し、忍足はベッドに倒れこんだ。紺碧の天井が白く凍った息越しに見えた。激しい呼吸は夜気の中で一瞬にして氷の粒へと変化する。凍てついた吐息に濁った夜を眺め、すぐに再挑戦した。腹筋を出来るだけ使わないように起き上がるのは至難の業だ。それでなくても腹部は激痛を絶やさないというのに。恐らく全身麻酔が切れたのだろう。忍足は新任の麻酔医を恨んだ。
「……く、はぁ……はぁ……」
 今の今まで首を絞められていたような声が漏れて、忍足は何とか身体を起こした。これだけなのに何という重労働だ。腹にはじわじわと熱い液体――血液が漏れ出したと思う――が染み込んでいく。いつのまにか着替えさせられていたパジャマを捲くり、腹を見た。腹にきつく巻かれた包帯の端が包帯留めで留められ、その上から紙テープで仮止めしてあった。
 手術されたのだと思う。痛みの位置から見て、開腹したのは腸と腎臓の周辺だろう。いつも忍足は患者の腹をばっさばっさと切り裂いていたが、まさか自分が手術される側になるとは、あんまり深くは考えていなかった。
 麻酔が切れた痛みに、脂汗が浮かぶ。吐き気のする唾が口腔に湧き、忍足はそれを飲み下した。ごろり、と嚥下の音が大きく聞こえた。
 それでも、行かなければ、という思いが忍足を突き動かした。足は幸いにも打撲の痛みだけで骨折とまではいかなかった。できるだけ腹筋を使わないようにベッドから立ち上がる。しかし、余裕のない中で至難の業ができるわけもなかった。激痛で頭の中が真っ白になった。再びベッドに倒れこむと、痛みに喘いで目を瞑った。涙が溢れる。勝手に腹筋が収縮していく。内臓を護ろうとする防御反応をしようとしているのだが、逆に術創から内臓が飛び出てしまう。身体を強張らせる。それで腹筋にかかる力を少しでも軽減しようとする。
 一番酷い痛みの波が過ぎ去り、忍足は大きく息を吐いた。ゆっくりと瞼を開く。涙に滲んだ蒼い天井がただあるのみ。
 再チャレンジする。今度こそは慎重に立ち上がる。またも激痛が迸ったが、先刻よりは大分ましだ。点滴台に寄り縋ってよろよろと足を踏み出す。右腕の点滴針が邪魔だった。チューブを掴み、力任せに引っこ抜いた。そして捨てた。針が肉を裂いて血が滲んだが、さほど痛くはなかった。
 半分ほど屈んだ状態で、点滴台を杖として、扉へつく。窓から射し込む仄かな雪明りを頼りに、扉へ手を掛ける。横にずるずるとスライドさせた。その先で廊下が左に伸びていた。緑色の常夜灯が廊下を照らし出している。いつもは医療器具を乗せたカーゴがあるが、今に限ってそれがない。食事を載せたカーゴもない。昼間と変わって、いやに殺風景な廊下だ。そして、いやに見覚えがある。昼間だけ見ていたら絶対に見られない、死んだような病院の夜だ。
 右には扉があり、その上で非常口のランプが煌々と点灯している。
 左は先が点に見えるほど長い廊下だった。道に沿って手摺が備えられており、等間隔で洗面器のようなものとシャンプーのボトルのようなものが据えられている。シャンプーのボトルといえば語弊があるが、仕様と中身は違う。角ばった白いボトルには赤いマークと表示がある。あれにはエタノールが入っている。医師や看護士、患者がいつでも手を消毒できるようにと配慮されている為だ。それが病院に籠もる病院臭さを助長しているのだろう。
 ここはどうやら、病室棟の端のようだった。何階かは推量しかねる。出てきた部屋の表札を振り返った。数字と「様」だけが活字で書かれていて、名前は手書きだ。
 512号室。忍足侑士様。
 表札の右下には淡い蒼色のマークが印刷されている。雪の結晶の中心に杖が刺さり、その上で2匹の蛇が絡まっている。ローマ神話に出てくる医術の神が持つ杖だ。このマークがあるという事は、やはり氷聖病院で間違いないだろう。
 忍足は自分の記憶を探った。確か向日は、雪菜がICUにいると伝えていた。ICUは集中治療室のことで、容態が極端に悪化した患者を集中的に治療する専用の部屋だ。そこにいるということは、雪菜に発作が起こったに違いない。ICUに入れられるほどだ。恐らく、あの時点では焦眉の急だったのだろう。心不全が発生した可能性が高い。今生きているかどうかは分からない。生きているという事実だけを知りたい。

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