ゆきやこんこ
あられやこんこ
…………………

**********ふってもふってもまだふりやまぬ**********



「あつし、あつし、起きるだーね!」
 誰かにかけ布団をゆすられた。まぶたは相当に重いが、布団からでた頬が冷たい空気に触れている。
 木更津は毛布の隙間から覗かせた目をこすり、さも面倒臭そうな声を出した。
「なあに、柳沢」
 薄く開けたまぶたの間から見える柳沢の顔が、いつにも増して輝いている。その柳沢は人差し指をまだ仄暗い窓に向けた。
「だからなんだよ」
「雪! 雪降ってるだーね!」
「えっ?」
 その一言で眠気が吹き飛んだ。慌ててベッドから起き上がって窓の前に立った。自分の息で曇る窓ガラスをパジャマの袖でさっと拭うと、すっかりと雪化粧を施した街がガラスの非結露部分に広がっている。ガラス越しに空高くを見上げると、耳かきの先にある梵天のような雪の粒が、しんしんと音も立てず地上へ舞い降りてくる光景が見えた。
 降り積もる薄蒼い結晶のマットを眺める。ガラスに手を当てて、木更津は「本当だ……」と息を凍らせた。
 雪を見るのは久しぶりだ、と言ってもいい。去年の夏ごろまでいた千葉県ではほとんど雪が降らない温暖な気候であることを至極合理的に考えて、雪が積もらないことを幸運だと考えていた。それは確かに忙しい日々を送る人間にとっては都合の良い事実ではあったが、積雪を見て心躍るのは生まれて初めてだった。
「イヤッホウ! みんな起こしてくるだーね!」
 言うが早いか、振り向くのが遅いか、既に室内に柳沢の姿はなかった。焚かれ始めた暖房のボイラー音が空気を微かに震わせる中、廊下から「裕太、野村、早く起きるだーね、雪降ってるだーね!」というやかましいモーニングコールが小さく届いてくる。続いて、裕太の「なんですか柳沢先輩」、また柳沢の「外見るだーね雪降ってるだーねほら野村も早く起きないと風邪ひくだーね」……どんな理屈だ。布団の中にいれば風邪をひくどころか治ると思う。野村が「まだ寝かせて」と本当に小さな声で抗議している。
 柳沢の足音さえ聞こえる静けさの中、自室の掛け時計を見上げる。アンティークな針は朝の七時五分を指したところだ。
「もうすぐ朝食だな。寝坊しちゃったみたいだ」
 枕もとで栞を挟んだまま閉じられた新撰組血風録を眺めやって、くすくすと微笑んだ。
 その時、廊下から朝のねぼけた声ではありえないほど大きな「柳沢くん! 朝っぱらから大声を出すのは控えなさい!」という怒鳴り声が届いてきた。この木更津と柳沢の二人部屋と、観月の部屋までは横に三部屋ほどの距離がある。それでもこの部屋まで届くとはなかなか大きな声だ。観月も赤澤みたいな大声出せるじゃないかと笑う。
 案の定、とたとたと退散してきた柳沢が身を隠すように部屋に転がりもどった。
「柳沢、観月の部屋でも裕太たちと同じように大声だしたんでしょ?」
 木更津はもう一度ベッドに戻り、毛布に両足を突っ込んだ。自分の体温が残った毛布はまだ生ぬるい。
 その言葉に応えて、外開きのドアの前に腰を下ろした柳沢が、さも不満げに両腕を組んだ。
「起こしてやったのに気分悪いだーね。まったく……」
 いつにも増して尖った口が余計にアヒルに見えてくる。
「クス、柳沢ももう少し静かに起こした方がいいってことなんじゃないの?」
「それはどういうことだーね! 俺がうるさいってことだーね?」
「クスクスッ、ご明答」
 木更津が笑って言うと、柳沢はより面白くなさそうな顔をして立ちあがった。
「まったく、どいつもこいつもだーね」
 そう言うと、柳沢はドアに対して、思いっきり舌を出して目の下を剥きだした。
 直後、ノックと同時にドアが開いた。目の前に現れた人物を見て、柳沢は顔を戻すのも忘れて硬直する。ドアを開いたのは誰あろう、バラが刺繍された見るも派手なパジャマを着て紫の半纏を脱ぎ忘れている、完璧に起きぬけの観月はじめだった。彼はファニーフェイスを身長の関係上真正面から見ることになった。観月の表情は一旦驚きに目を剥き、柳沢の顔がどの種類の顔か判断がついて目を閉じ、口角をひきつらせる。たったそれだけの顔面の変化が柳沢の命運を分かつ。観月の背後から不可視のはずの、黒いオーラが立ち上る。
「あーあ……」
 木更津一人がその現場を見て、呆れ気味に手で頭を押さえた。数秒が立ち、気まずい空気の中、ようやく顔を元に戻した柳沢は引きつり笑いを浮かべながらそろそろと後ずさった。わずか数秒、されど数秒。観月が激しく髪をいじり始めた。そしてその姿のまま前進する観月に柳沢はこの上ない恐れをなす。
「柳……沢……くん……!」
「うわ、観月がキレただーね……に、逃げるが勝ちだーねっ!」
 危機に陥ると素晴らしいまでに冴えわたる動物の勘というべきか、柳沢は慌てた様子で観月を押しのけ、廊下に駆けだした。
「お待ちなさい、柳沢くん!」
 観月の声は制止するには一瞬だけ遅く、見る間に廊下の端まで辿りついた柳沢は階段を駆け下りて見えなくなった。誰もいない廊下を眺めた観月は、腕を組んで目をつむり、大きなため息を吐いた。
「どうしてあんな顔をすることができるんでしょうね、まったく。テニス部の汚点です」
「いいんじゃない、観月。ムードメーカーっていうのも必要だよ」
 観月はムードメーカーという言葉を反復し、木更津に再度向き直る。
「ムードメーカーというのはですね、」
「その場の雰囲気を盛り上げたり、楽しげにしたりすることができる。大切で、案外リスクの大きな役目を買って出てくれているんだよ、柳沢は。もうちょっと認めてくれてもいいんじゃない?」
「……納得はできませんが、まあいいでしょう。確かに笑いを取るのは体得するのも難しいスキルですからね。しかし、舌を人に向けるのは褒められる行為ではありませんよ」
 ったく、と息をついた観月は窓の外に目をやった。木更津の部屋の窓はカーテンがまとめられもせずに脇に寄せられていた。なにも言わず観月は窓に近づくとカーテンを叩きつけるようにして閉じる。しかしささやかな布に覆われる直前、結露したガラスの表面に下手なアヒルの絵が描かれており、更にそのアヒルが「おれのどこがアヒルだーね」と吹き出しつきで主張していたのを木更津は見た。やっぱり柳沢の絵だろう。
 隠されたままの窓を見つめていると、ふと観月が怪訝な顔で尋ねた。
「まだ雪が名残惜しいとでも?」
 眉間はふだん見るよりも、なお険しく寄せられている。木更津は「別になにも」と答えつつ首を横に振った。腕を組みなおした観月は、暖房の効果が減るとか、寒いなら布団にくるまってないで早く着替えて食堂に行って温かな紅茶でも味わいなさいとか、まっとうなことを言った。
 そうだね、とうなずいて木更津はベッドから足を出す。ぬくぬくとした暖かい毛布の庇護を失った足の甲が冷たい空気に触れた。半分ほど廊下に出つつ、さっさと着替えてくださいね、と観月は横顔で急かした。
「それと、木更津くんからも言っておいてください。柳沢くんも、もうちょっと静かにするようにって」
「それは観月の言葉じゃないの?」
「ダブルスパートナーであるあなただからこそ頼めるんです。僕の言うことはいつも柳に風、馬耳東風。さらにいうなら、馬どころかアヒルの耳に念仏です。注意する気力もなくなりますよ」
「柳に風って、柳沢の苗字にかけたつもり?」
 ほんとにからかうだけのつもりだったのだが、観月の低血圧ぎみの頬に、かっと赤みがさした。
「そ、そんなつもりじゃありません!」
 偶然です、と念押しされる。礼拝の時間に聖書を朗読する節を間違えたときと同じ、失態に気づいたときの反応だった。
「とにかく木更津くんからもよく言い聞かせてくださいね。あんな大声を朝っぱらから出されたら、僕を含むみんなが迷惑をこうむるんです。いいですね! じゃ、僕は戻りますから」
 ばたん! とドアを叩きつけて、観月は廊下に出て見えなくなった。
 木更津は「ふーん」と、観月の消えたドアを眺めていた。
**********いぬはよろこびにわかけまわり**********

 朝食後の談話室は、玄関に面していることもあり、休日の朝だというのに騒がしかった。ほとんどはジャンパーが立てる衣ずれの音としばしの別れを惜しむ単純な会話だったが、それだけではない。玄関口に列をなしているのは、大きな荷物を持った帰省組の集団だった。
 クリスマス礼拝が昨日終わり、寮生の八割は世間での帰省ラッシュを避けて今日里帰りをする。残りの二割も大晦日までには里帰りしてしまう。寮生の大規模な帰省があるのは、三十日から一月の三日にかけて業者による本格的な清掃活動があるためだ。ただ昨日の夜から人知れず降り積もった雪によって、交通機関に少なからぬ悪影響がもたらされているらしく、寮の共用電話には三人ほどが列を作っていた。
 木更津を含むテニス部メンバーは寮生のラッシュを避けて翌日に帰省する予定だった。こういうときは家の近い裕太が少しだけ羨ましくなる。木更津の実家は新幹線を使うまでもない場所にあるが、その代わりに電車を何度も乗り継がなければ帰ることはできない。柳沢は実家の場所を明かしてはくれなかったが、新幹線で帰ると前にこぼしていたので遠い場所にあるのだろう。観月は生家の話をするだけで嫌な顔をしたのであえて聞くことはなかった。しかし裕太が観月なんたらという演歌歌手のコマーシャルを見つけたことと、観月のテニスバッグにさくらんぼの飴が入っていたことから邪推すると山形に実家があるのだと思う。
 そんなことを考えながら、木更津は談話室の椅子に座って、流れていく人波を眺めていた。片手には表紙を見せたままの新撰組血風録。歴史小説の大御所・司馬遼太郎の金字塔だ。昨日プレゼントされたのをきっかけに読み始めた本なので、栞はまだ表紙に近い位置に挟まれている。柳沢もちゃんと相方の趣味を理解しているようだ。
 流れていく人の波をぼんやりと眺めているのもなかなか楽しい。どうしてと尋ねられても、楽しいから、としか答えられない。いつまでその日課を続けるんだとも聞かれたが、ただ楽しいからのひとことに尽きる。毎日人を眺めていたら、いつのまにか習慣になってしまっただけだ。やめるつもりはないけれど。
 そのとき、突然後ろに人の気配を感じた。身体をねじって振り向く。
「あつしは用意しないだーね?」
「用意? なんの」
 柳沢は今から寮の外に出るかのような重装備をしている。着ぶくれた身体を大げさに反らせ、柳沢は未知のものを見たかのような表情になる。
「こんなに雪が降ってもなにもしないだーね!? 信じられない……そんな人種もこの世にゃいるもんだーね」
「人種って大げさだな。雪が降ってわざわざなにをするんだよ」
「そりゃもちろん、」
 柳沢は木更津の眼前一センチのところに人差し指の腹を押し付けて、満面の笑顔になった。
「雪遊びに決まってるだーね!」
 よく見れば指の腹には、赤いマジックで蚊取り線香のような落書きがされている。これもネタふりの一環なのだろうが、木更津はその指をやんわりと払いのけてスルーした。前の中学校にいたころ、後輩のダジャレを見て見ぬふりをする能力を培ったのが思わぬところで役に立った。「雪遊び?」とオウム返しする。
 柳沢は「ガクッ」と効果音を言葉で言い、あっても誰も気にしないのに律儀に「だーね」を付け加えた。
「とにかくあつしも今から部屋に戻ってジャンバー着込んでくるだーね。拒否権はないだーね。風邪引くと寮全体に広まるから、防寒対策を怠らないことだーね」
 アヒルどころか、今にも庭に駆けだす犬のような表情をしている。飼い主として、ペットを放し飼いにしないのは基本だ。
「そっか。うん、分かった。じゃあ今から着てくるよ」
「おう、待ってるだーね」
 木更津は立ち上がって、階段へ向かった。しかしその瞬間、「そうだ、あつし」と呼びとめられた。
 その声の主は、ほんの少しだけ気まずそうな表情をしていた。恐る恐るという言葉がぴったりなぐらいに、視線を合わせきれないまま柳沢は問う。
「あのよ、観月はなにか言ってただーね?」
「観月? うーん、特には。あ、そういえば柳沢が朝うるさかったこと、ちょっと怒ってたみたいだけど」
「そ、そうか……」
「それがどうかした?」
 木更津はコノハズクのように首を傾けた。その木更津を見て、柳沢はいつもの明るさを取り戻して、
「いや、なんでもないだーね。ほら、さっさと用意しないと雪が融けるだーね! 裕太も野村も待ってるだーね!」
 と木更津の背中を押した。
 まだ雪は融けないよという言葉を胸に秘めつつ、木更津は自室へ向け階段をのぼった。
 起きぬけのままの部屋はまだ散らかっている。滅多に使わないベージュ色のコートをそのまま羽織った。コートに絡まっていた紐を手繰ると一対の手袋が見つかったから、いつもはめている指抜きグローブを外して、その上に手袋をはめた。そのまま部屋を出ようとしたら、部屋の隅に放置されていた紙袋を見つけて、気になったのでその袋を覗いてみた。
 赤い毛糸のニット帽が入っていた。取り出したら手紙が巻き込まれた形で引きずり出され、床に落ちた。ルーズリーフの切れ端に書かれた亮の字は雑だった。こういうところは双子でも似ていないと思う。まあ、女の子のラブレターのように凝られても困るだけだから、この雑さは逆に心地いい。変に飾られた方がよそよそしい。
 中身は、メリークリスマスとか、弟のクリスマス当日を案じる兄のおちゃらけた、ある意味下世話でもある内容だった。いつもなら両方ゴミ箱インのはずだったが、そのとき、末文に書かれた「P.S.六角のみんなで編んだ帽子だから捨てたらいっちゃんが悲しむぞ」という旨の言葉が書き添えられていた。なんだ、いっちゃんも協力したのか、と思ったらこれを捨てようとした考えが急に忍びなくなった。慣れない編み物のせいかところどころ糸を拾いこぼして穴が空いているけれど、それぐらい六角のみんなが作ってくれたのだと考えればなんてことはない。
 これも亮の策略だとしたら、やはり策士という他はないだろう。最後の最後まで亮は切り札を隠し持っている。
 木更津は赤いニット帽を頭にかぶせ、部屋を出た。階段を下りる途中、部屋着の観月とすれ違った。私服のセンスにはもう慣れた。
「観月は行かないの?」
「やることがありますからね」
 返答はそっけない。木更津は少しだけ食い下がった。
「楽しいよ、一緒にやらない?」
「どうせ雪遊びでしょう。僕には雪ごときで遊ぶ時間なんてありません。楽しむならあなたたちだけでせいぜい楽しんできて下さいね。しもやけにならない程度に凍えてきてください」
 話す言葉言う単語がどれも盛大なトゲのオンパレードだった。観月はその後にただのひとつの言葉もなく自分の部屋にもぐりこんだ。柳沢はアヒルではなく童謡に歌われる動物のようにはしゃいでいたのに、と考えるとある相似に至る。
 ――柳沢たちが雪を見て庭を駆けまわる犬ならば。
 木更津は、くす、と笑って、階段を下り、玄関でスニーカーに履き替えて外に出た。
 一歩ごとにサクサクと鳴る雪道をゆっくりと歩む。雪がまだちらちらと風に紛れては雪の絨毯に落ちて姿を消す。ニット帽は耳当ても作ってくれていたみたいで、玄関から出たところで気づいた。帽子の両端から伸びた紐をあごの下で結ぶ。耳当ての部分がちょうど耳朶を隠す。
 コートのポケットに両手を突っこんだ。木更津はたったひとつだけ光が漏れる観月の部屋を眺めて、くすくす、と笑んだ。
 ――こたつで丸くなる猫もいるわけか。

**********ねこはこたつでまるくなる**********

「……ふう、やっと終わりました」
 うるさい柳沢たちが雪遊びに行って、数時間。観月はその間ずっとパソコン画面と向き合わせて疲労した目を押さえた。指でぐりぐりと目頭を押す。目に悪いことだとは知っていても、眼球自体を圧迫していないので大丈夫のはずだ。
 指を組んで、天井に向け思いきり伸びをする。猫のように背中が反って、背骨がぽきぽき鳴る感触が心地よい。脱力。ため息。
 時計を見上げれば、かれこれ四時間半が経過していた。目が悪くなるのでもうパソコンをするのは控えたいところだ。幸いにもパソコンでやらなければならないデータ整理はすべて終わらせており、資料の整理がわずかばかり残っているだけだ。そう時間を必要とすることはあるまい。
 ベッドに横になりたい。あたたかい紅茶を飲みたい。休みたい欲が湧いてくるなか、本を読みたいという願望がある分、脳は情報を求めているようだ。この頭がい骨にラッピングされた脳の栄養はブドウ糖ではなくて情報のような気さえしてくる。
 観月はぼんやりと考えると、ずっと椅子に下ろしぱなしだった腰を上げた。靴下をはいているとはいえ、足先は冷たい。冷えは指先まで着実に及んでいるようで、キーボードを叩くスピードは後半になるに従って遅く、雑になって神経を苛立たせた。
 外はすっかり雪化粧されている。雲間から白っぽい空が斑に広がり、遠くには雲のすきまから漏れる太陽光が見える。この光柱はチンダル現象によるものと言われていて、天使のはしご、天使の階段、ヤコブのはしご、レンブラント光線とも呼ばれる。太陽が高い位置にあるためか、ほぼ垂直なものばかりだったが、この空を撮影する写真家も案外多いらしい。
 空はいいのだ。その下に広がる雪景色を見て、観月は舌打ちをして、カーテンを叩きつけるように閉じた。どうりで寒かったはずだ。できるだけ窓を見ないようにして、カーテンを引くことさえ失念していた。木更津に、カーテンを引かないだけで無駄になる電力を説いていたのに、なんてざまだ。鈍い感覚に、さらに神経が逆立つ。雪なんて二度と見たくもない。
 観月はあからさまなため息をついた。データ整理は後にしよう。今は紅茶を飲んで心を落ち着かせるべきだ。
 ベッドの横に立て掛けておいた折り畳み式の小さなテーブルをバラ柄の小さい円形絨毯の中心に広げ、紫のテーブルクロスを敷く。ポットのプラグをコンセントに差し込む。しばらくすればポットから沸騰する音が聞こえてくるはずだ。湯が沸くまでの間に、茶葉の選別をするとしよう。
 棚の上段に置いていたバスケットを引き出すと、中には様々な袋が入っている。趣味で集めたものばかりではなく、昨日のクリスマスで仲間にもらったものもある。隅に詰め込んだダージリンは柳沢にもらったものだ。一目で安物だと分かったがむげに断ることもできず、かといって捨てるのも嫌だったので、バスケットが壊れない限り居座り続ける続けることだろう。金田からはアールグレイの茶葉、木更津からはカモミールティー。野村はなんたることかジャスミン茶をティーバッグでよこした。ティーバッグは邪道中の邪道だったが、柳沢と同じ理由で飲まないわけにもいかない。裕太からのプレゼントは少し高めのイギリス製のカップだった。赤澤の贈り物はどこかというと、大型量販店のロゴが入ったお買い得品、五百パック入り激安特価のダージリンを二箱どんと渡した。当然バスケットには入りきらず、棚の中で封を開けずに埃をかぶりつづけることだろう。観月は事前調査によって得た情報を用いて、各人の一番欲しいものをプレゼントしたことを付け加えておく。そして柳沢が二名からお風呂のアヒルをプレゼントされて、満面の笑みを浮かべていたことも調査済みである。安上がりなものだ。
 選んでいる間に、空気に湯の沸騰音が混じる。さて、今日は何を飲みましょうか。茶葉の缶や袋を指でつまみながら、観月はいつものように、んふっと笑う。そして事前に集めていた高級ジャスミン茶の缶をテーブルに置いた。棚から茶菓子を出し、白磁の菓子皿に移して箱を空ける。
 テーブルに裕太からプレゼントされた白い磁器のティーカップを下ろした。かちゃ、と小さな音がした。意匠は控えめに凝らされており、淵が金色に塗られている。お気に入りのひとつだ。
 その時、突如静けさを破って、携帯の無機質な呼び出し音が鳴り始めた。観月は舌打ち一つして、携帯電話を取った。
「ったく誰ですか。人がせっかく一息つこうとしていた時に……」
 プライベートウィンドウ。実家。ため息、そして通話ボタン。
「もしもし」
「はずめ、久しぶりだなや!」
 鼓膜傷害未遂の嬌声に、観月は思わず携帯を耳から三十センチも遠ざけた。携帯を口から離したまま尋ねる。
「ね、姉さん。どうしたんです、こんな時間に突然」
「なぁにそったら敬語使ってんの。小賢しいだけだべっちゃ。いづもどおりに喋ったらいいべ、いづもどおりにや」
 観月の都合も考えず、姉は電話の奥から傍目でも分かるほどの大声でまくしたてる。観月は携帯を耳から離したまま、大声で抗弁した。
「無茶を言わないで下さい! 僕が今どこにいるか、姉さんも分からないわけがないでしょう!?」
「寮だべ」
「その上での無理強いですか!」
「無理じゃねえべ。あんだもおととしまでは使ってたべや。忘れでねえべ?」
「いやです」
 小さい声で、どうして僕の周りにはうるさい人がひしめきあうんだ、と舌打ちをする。赤澤の咆哮ぐせはもう人格の一部分なので直しようがないとしても、その赤澤に都大会で喝を入れた金田。それにも勝る騒々しさは、今朝の柳沢だった。柳沢は平常時でもうるさいだけなのに、雪が降ったらアヒルどころではない騒ぎようだ。
 雪が降っても、いいことなんてひとつもない。寒さだけでも畑に霜がつくのに、雪が降るとなると不都合なことが満載だ。公共交通機関は麻痺するし、転ぶと痛いし、除雪作業なんて二度とやるかと思うほどの重労働。霜焼けになると、年中ケアしている手がみじめなくらい荒れる。それだけではない。屋外のテニスコートが使えなくなるし、グラウンドはぐちゃぐちゃになるから学校から使用許可が下りず、体育館の奪い合いになる。都大会で敗北したテニス部となると余計に競争に負ける。雪ではしゃぐやつの気持ちが知れない。
 窓の外をカーテン越しに睨みつけ、観月はため息で口調を落ち着かせた。
「それはそうと、電話してきた要件はなんです? まさかただ安否を知るためだけとなったら速攻切りますよ」
「ああそのことかぁ。はずめは何日(いづ)けえってくる?」
「大みそかには帰るのでお気にかけずどうぞ」
 電話の奥の声が急にむすっとなる。
「そっけねぐなっだなやぁ。小っせぇ頃は姉ちゃん姉ちゃん言って後追っかけてきた、あたしの可愛いはずめ返せ、今のはずめ」
「返品不可。分かりました?」
「ならクーリングオフ。キャッチセールスだったんだべ?」
「人聞きの悪い。それをいうならスカウトと言い換えてください。どちらにせよ、二週間以上経過したので不可です。お引き取り下さい」
「消費者センターのばかもんがぁ」
 電気的に擦り切れた声が、けらけらと甲高く笑った。
 クーリングオフやキャッチセールスの語義が微妙にずれている上に、会話が目標を見失って脱線していく。いや、最初から目的はなかったのかもしれない。無意味な会話に観月は眉間にしわを寄せ、空いた左手で眉間をもみほぐす。
「とにかく、僕は最低限の必要性に迫られないと帰りませんからね。そこをちゃんと留意しておいてください」
 その言葉を聞いた姉の声色が、急に興味と下心ありありの猫なで声に変化する。
「あー分がっだ分がっだ。なんでけってこねのか当ててやっか? 彼女でもできたんだべ」
「は?」
 突飛すぎる論理の飛躍に、脳内CPUが一瞬ブラクラしかけた。反撃までのわずかな隙を突き、容赦のない姉のマシンガンが炸裂する。
「だーいじょーぶだーいじょーぶ。誰さも言いふらしたりしねがら。それでその子ばどんだけ、めんこい? 一緒にいっと寂しさ吹き飛ぶんだろ、毎日の楽しさ姉ちゃんにのろけても姉ちゃんはちゃあんと受け止めてやっからしゃべれ」
「ね、姉さん、僕は」
「遠慮すっと身体に毒だ毒。毎日が楽しいからずっといたいって気持ちは姉ちゃんにもよお〜く分かる」
 こうなれば本当に脳内CPUをブラクラさせたい。
 どうして女という生き物はこうも恋愛に話をもっていきたがるのだろう。これだから姉さんはモテないし、女と話が合わない。女は自分たちが話題をころころ変えるくせに、男は空気が読めていないとけなす。ひとつの話題に集中しないのが嫌いなところだ。姉はもちろんそのカテゴリーの王道を突っ走っている。
「分かられなくても結構です。それに僕は今、テニスと内部受験の準備で必死なんです。恋愛なんて一時の気の迷いなどに関わっている暇はありません。いいですね、切りますよ」
「でもはずめ、そったらこと言っでも案外楽しそうじゃねぇけ」
「は!?」
 思わぬ言葉に、電話を切るタイミングを逃した。
「楽しそう? どこがですか」
「山形さいだ頃より、ずっと明るいでねぇけ。ルドルフさ行っでえがったなや。ええ仲間と会えだようで」
「良い仲間ですって!?」
 あいつらのどこが、と吐き捨てる。命令はきかない、シナリオ通りに進めない、きわめつけにうるさい。聖ルドルフはアヒルの飼育小屋じゃない。兄貴がなんだ、がどうした。禁句など最初から口にしなければ波風も立たないというのに連発するやつがどこにいる。敗北は汚点だというのに、あいつらはそれをいとも簡単に受け止める。高校にならなければ次はないというのに。
「あいつらのどこが……」
「本気で怒ってたら、はずめはもう電話切ってっぺや」
 そうだ、電話を切る……観月はその言葉で「通話を切る」という選択肢を思い出し、
「当たり前です! もう姉さんの戯言にはついていけません、切りますよ!」
 と怒鳴るように言い残して、小さなスピーカーから甲高い声が漏れだすのを黙殺し、容赦なく電源ごと通話を切った。喧騒がふっつりと途絶え、後には尾を引くような静けさが残った。暖房の排気音さえなければ耳鳴りがするほどの音のなさだった。ポットは沸騰が終わって保温に移り、無音を加速させている。
 しばし携帯を見つめていたが、じっとしていることが無意味だと気づいて、完全に沈黙した携帯をベッドに放り投げた。三段に折り畳まれた頂上で、手のひらサイズの電子機器は羽毛の柔軟さに受け止められる。布団に半分ほどうずめられた携帯の外装をにらみつけ、舌打ちをした。
「嵐のようにやってきたとしても、台風一過なんてうそっぱちですよ……」
 誰ともなしに呟く。
 観月は額に手をやり、ベッドのマットレスに深々と腰を下ろした。尻の下で金属のばねがぎしぎしと鳴った。
 こちらの都合も考えないで突然電話してきて、いったいなにを考えているのか問いただしたい。ただそれを証明しようとするとまた電話をかけなおすことになる。長電話になるのは必至だ。電話代もかかる。二度とこちらからかけてやるものか。
 はぁ〜、と肺胞のひとつひとつから空気を絞り出す。
 同じ親から生まれてどうしてこんなに違うものができあがるのか、はなはだ不思議でならない。同じ親から生まれて、と思考が及んだ瞬間論理が変に飛躍して、木更津を双子と知らず引っこ抜いてきた記憶がよみがえり、さらにそれを柳沢にからかわれたことが芋づる式に引きずり出され、自分の失態に怒りの矛先を向ける。
 確かに柳沢の実力は高い。オールラウンドな実力、性格の別なく自分のペースに誘い込み、相手の自滅を誘うプレイスタイルを持つ人材はなかなか存在しない。スカウトしたときは今後の寮生活が多少うるさくなるものと覚悟はしていた。しかしまさか部活を引退しても内部受験勉強にいそしむ期間であっても、自らのスタイルを崩さない人間だとは思いもしなかった。ここまでにぎやかなのは正直閉口するに充分な理由である。
 しかし、もし柳沢がいなかったら? いや、ありえない。自分が柳沢をスカウトしたのは必然だ。
 木更津は兄の亮をスカウトするつもりだったが、今となっては従順にメニューをこなす人材がいてよかったと自らを信じる。裕太も、兄へのコンプレックスを餌に釣ることができてよかった。野村は……まあ、対戦相手にプレイスタイルを見せて、聖ルドルフは若干よわめのチームだと誤解させて相手の油断を誘うという役にはたっている。
 しかし、もし誰かひとりでも欠けていたら、こんな生活になっていたのだろうか?
 木更津も、裕太も、野村も、そして観月も例外ではなく、派手にはしゃぐ性格ではない。裕太は後輩という立場もあり、ややおとなしく振舞っている節があるのを差し引いても、このメンバーだけだとテニス部ではなんの衝突もないまま無為に日々を過ごしていただろう。柳沢はそんな安定をごちゃごちゃとひっくり返す。
 怒ったり、ぶつかったり、悔しがったり。そんなたった一度しかない中学生活をにぎわせてくれる活力剤。それが、柳沢をのぞく他のメンバーにはない。柳沢のハイテンションを中和する木更津、引きずられる裕太、空気を読まずに禁句を連発する野村。観月はいちいち柳沢を叱咤しながらも、退屈しない毎日に甘んじている。これが、楽しいということなのだろうか。
 ……まさか、そんなはずは。観月は自嘲気味に笑って、紅茶を淹れる準備を始める。
 そのとき、ドアの向こうからノックの音が聞こえた。木製の戸越しに、穏やかな木更津の声が尋ねる。
「観月、いる?」
 聞こえるのは声だけだ。物音がほとんどしない。障害物に遮蔽されて声がくぐもっている。
「木更津くんですか。なんの用です?」
「話をしたいんだ。なか入っていい?」
「構いませんよ。入るなら、さっさと入ってくださいね」
 その瞬間、戸が内側に開いた。しかし入ってきたのは木更津ひとりの人数ではなかった。
「くわっ、あったかいだーね! 観月、遠慮なくお邪魔するだーね」と、八十デシベルは優にありそうな騒音と共にドカドカと柳沢が上がりこむ。
「観月先輩、失礼します」と礼儀正しく頭ひとつ下げて裕太。
「観月の部屋相変わらず悪趣味……」と呟く野村を睨みつけると、野村は手を身体の前で横に振って「ご、ごめん禁句だった」と否定しようとする。
 しんがりに木更津がくすくすと会釈しながら、お邪魔するよとだけ言って後ろ手にドアを閉じた。
 二人部屋をひとりで占領しているから多少広いとはいえ、人口密度が急激に上昇した。柳沢は白い発泡スチロールの箱を部屋の隅に置いて、雪でびしょぬれになったジャンパーを脱いで丁寧に折りたたむものの、端に寄せる場所が絨毯の上とすでに間違っている。観月の部屋に上がることを知っていたのか木更津と裕太はすでに上着を脱いでいた。ただし木更津は頭に赤いニット帽をかぶっている。野村は完全装備のままで脱ごうともしていない。空気読め。
 そして空気を読めていない最大の人物が顔をほころばせて、「おお、クッキーあるだーね! 一個いただくだーね!」とチョコチップクッキーをまるごと口に入れた。まもなく咀嚼する音、嚥下の音。そしてまた一枚に手を伸ばし、野村までがちゃっかりと手を出していた。
 木更津はトランプを取り出し「ポーカーやろうよ」とカードを切り始めた。裕太が「木更津先輩、カード切んの速いっすね」と素直に賞賛し、野村に同意を求めようとしたが野村はクッキーを小動物のようにかじって早くも頬をぱんぱんにしている。
 部屋主の了承もなくクッキーを食べられたことにこめかみの青筋が浮きあがったが、ここで怒るのはあまりにもおとなげない。観月は指に髪を絡みつけつつ、理性を動員する。
「い、いったいどうしたんです? こんな不躾に……なにか用でもあるんですか?」
 柳沢が、口の中にクッキーの粉とチョコチップの残骸と唾液の混合物を入れたままのもごもごした声で「そうだっただーね!」と両手を打った。いそいそと部屋の隅に置かれたばかりの発泡スチロールの箱を観月の前にどんと置いた。
「これはなんです?」
「聞いて驚け見て笑えだーね!」
 すかさず木更津が、
「死語だよ柳沢」
 と突っ込みを入れ、柳沢は口角泡を飛ばす勢いで反論した。
「あつし、うるさいだーね! とにかく観月、これを見よ! だーね」
 手品の種明かしをするように、発泡スチロールの蓋が開かれた。パパラパッパパー、とこれまた死語になりつつある言葉を付け足し、柳沢は中にあった白い物体を両手の平に乗せ、観月の顔の前で静止させた。
 こぶし大の大きさの雪玉がふたつ、上下にくっついている。雪玉は多少でこぼこで、真ん中は簡単には折れないように固められてひょうたんのような形になっていた。表面だけは氷に覆われているかのように半透明だ。上の雪玉には毛虫のように線が太くなった黒マジックで観月の似顔絵と思われるものが描かれている。下の雪玉には小枝が二本刺さっており、それは人の腕を模している。
 いわゆる、雪だるまというもの。
「……これは?」
 髪をいじる指の動きが止まる。観月にとっては見るのも嫌なはずの、雪の塊だった。
 柳沢は観月の情動などいざ知らず、
「見ての通り雪だるまだーね」と答え、円卓の上にあったソーサーを引き寄せると、その上にそっと乗せた。幸い倒れることなく、雪だるまは顔を観月に向けた。
 観月は雪だるまの乗ったソーサーを両手でそっと持ち上げ、目線を同じところに合わせる。
「この似顔絵を描いたのは誰です? 似ているとはお世辞にも言えませんが、まあまあ上手じゃないですか」
「ああ、それ俺が描きました。柳沢先輩に頼まれたんです」
 カードを五枚持ちながら、裕太が横から口を出した。
「しょうがないだーね。俺、絵は下手だーね」
「美術の成績は二だったしね」
「う、うるさいだーね! あつしには関係ないだーね、ほっとけだーね!」
「そこまで言われるとさみしいなぁ……グスグス。でも美術の成績の中でも、独創力の欄だけはAを取れてたよね」
「それにしても、やっぱり天才の弟だよなぁ」
 裕太が半眼になって野村をにらみ、野村は慌てて口を両手でふさぎ、「ごめん禁句だった」と応答し、不機嫌な目つきがそのままカードに向かう。観月の位置だと裕太のカードがよく見えた。スペードの二、ハートのA、クラブが六と十一の二枚、そしてダイヤの四。数字が並ぶストレートになるにも中途半端なカードばかりで、なんの役も出ていない。裕太は裏返しのカードの山を見つめている。木更津が裕太の悩んでいる表情にくすくすとほほ笑みかけてカードを二枚抜く間に、柳沢は珍しいくらい真剣になって、観月と向かい合った。
「……なんです?」
「観月、まだ朝のこと怒ってるだーね?」
 観月は今朝の柳沢のはしゃぎようを思い出した。アヒルと揶揄されるに充分な行動、声の大きさ、うるささ。確かに、観月の逆鱗に触れる要素としては充分すぎるくらいだ。
 しかし今の柳沢は珍しくどうも居づらそうにこめかみをかき、目を合わせようとしてもおずおずとしている。茶色のトレーナーの下にいろいろと着込んでかなり着ぶくれているものの、背中を丸めて縮こまり、指をいじったり頭をかいたりして落ち着きがない。
「なんですか、話があるなら早く言えばいいじゃないですか」
 そっけなく急かすと、柳沢は重そうに口を開いた。
「あのよ、今朝はうるさくして悪かっただーね」
 悪かった?
 観月の目が点になった。謝罪の言葉を聞くのは初めてではないはずなのに、柳沢が初めて口にしたような感覚だった。
 柳沢はなおも言い辛そうに続ける。
「俺が住んでたところよ、ここより南にあるから、あまり雪が積もらなかっただーね。去年も暖冬だったし、東京はまだ降るかなと思ってたけど、全然積もらなくて、正直今年もあきらめてただーね。でも今日は積もったろ? 雪を見るのは久しぶりで、つい子供みたいにはしゃいで、結局観月を怒らせて、迷惑かけただーね」
 いつも立て板に水を流すように言葉を流すはずの口が、訥々と単語を選ぶ。それが終わったとき、柳沢は両膝を手で掴み、
「すまなかっただーね」
 と、頭を小さく下げた。
 どういう風の吹き回しとは、こんなときにいうのだろうか?
 観月はビンタでもされたような表情のまま、数秒を分析に費やした。顔を上げた柳沢は更にきまずい表情になって、この雰囲気を払拭するがためだけに「あ、今のこと忘れるだーね」胸の前で手を振った。柳沢はいつもの元気さを取り戻して、
「おーいあつし、俺も混ぜるだーね!」
 と裕太と木更津の間に割って入った。木更津が、遅いよ柳沢。それに応えた声が、たった二分ぐらいだーね先にカード取るだーね、とトランプの束に手を伸ばす。あっちゃあブタだーね、どうしようもないだーね。柳沢はブタじゃなくてアヒルだろ? アヒル言うなだーね、おれのどこがアヒルだーね! ……わいわいとした賑やかさが急に蘇生する。いや、おそらく観月が喧騒を認識したから、急に現れたようなものに違いない。
 柳沢は、いるだけで平穏すぎて平板な平生の生活を乱す。いきすぎは困りものだけれど、柳沢がいなければ、寮生活はこんなにも活気あるものになってはいなかった。味気ないまま、三年間を終えたかもしれなかった。
 あと三ヶ月もすれば、このメンバーでいられることはないかもしれない。
 ほどよく元気で、ほどよく静かで、うるさいやつでも自らの非を認めて謝り、またみんなと溶け込んで笑顔を交し合うことのできるメンバーと、それぞれの目標のすれ違いによっては、もうすぐ別れることになってしまうかもしれない。もとからこの寮にいる連中は地方から来た異邦人だ。いつどんな理由で学校が違っても仕方のないことである。それは柳沢も木更津も野村も裕太も同じであり、もちろん観月も例外ではない。
 茶の心に一期一会という言葉があるが、それと同じなのだろう。次に会えるかどうか分からないから。今あるこのつながりを大事にしようと。
 不意に姉の言葉がよみがえる。

 ――ルドルフさ行っでえがったなや。ええ仲間と会えだようで。

「観月もやらないかだーね、ポーカー」
 柳沢が五枚のカードを持ちながら問いかける。
「先に進めておいてください。次から僕も加わらせていただきますから」
 と応えつつ、観月は立ち上がって茶葉を選別した。先刻決めたジャスミン茶……ではなく、柳沢が贈ってくれたダージリンを。ポットには英国式に一杯多く茶葉を入れた。温度を逃さないためにタオルでポットを包む。味と香りが出る時間までの間に、裕太と柳沢が濃いとか苦いとか言い出す予防策として、通常より多めに砂糖を出しておく。
 湯気の立ち上るカップを各人の前に置きながら、観月はふと、紅茶のプレゼントに目を丸くしていた柳沢と視線が合い、照れ隠しにそっぽを向いた。
「言っておきますけど、あなたのためじゃないですからね。風邪をうつしたら承知しませんから」
 安っぽい、そしてあたたかなダージリンの香りが、ふっと鼻の下をかすめる。
 裕太と柳沢の間に割り込んで、観月もカードをとって参謀じみた笑みを浮かべる。


 窓の外では、観月の嫌いなはずだった雪に空の青が反射して、いっそう明るく街を染め上げていた。








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