「たっだいま〜」
 その一言を言う為だけにどれだけの時間を要したのだろうか。何はともあれやっと解放されたのだ。冷凍庫に嵐を呼んだような屋外から室内に戻ると、暖かく停滞した空気がふわっと頬を撫でた。これで浴びた雪も融けて蒸発してくれるだろう。鞄を足元に制服の上から羽織っていたジャンパーをハンガーにかける。予想通り、暗い赤の生地に降り注いでいた雪が融けて、玄関の明かりにきらきらと光っていた。
 今では弟が「おかえり」も言わず、コントローラーを手にテレビ画面に見入っている。岳人は「おかえりぐらい言えよ」と背中に呼びかけようと口を開いたが、結局やめた。その代わりに何も言わずリモコンを取り、ボタンを押した。瞬時にブラウン管の中の映像が入れ替わり、岳人が見ようと思っていた番組の前にやっているアニメのエンディングが流れ始める。と同時に弟が身体をねじって振り返り、岳人に抗議の声を浴びせた。
「ああっ! 兄ちゃんのバカ!」
 最初に言う言葉がそれかよ。岳人の心の呟きに反応する暇もないのか、慌てた弟に罵られた上リモコンをひったくられた。ゲーム画面に戻った頃にはストックの戦闘機が残り一台まで減っていた。しかも攻撃が眼前に迫り、弟は慌ててコントローラーを握ったものの、白と青のドットで形作られたちゃちな戦闘機は攻撃に当たって、画面下へと点滅しながら落ちていった。
 弟が視線にありったけの敵意を込めている。
「もういいよ。分かったよ」
「なーにが『分かったよ』だよ。俺が帰ってきたら譲るって言ってただろ」
「むー。だからといって途中でいきなりチャンネル変えるなんて卑怯だろ兄ちゃん」
「言ってろ小学生。こちとら『魔獣ビースト』見る為にせっせと課外終わらせて帰ってきたんだぜ。そんな頑張り屋の兄ちゃんに『お帰り』の一言もないのかよ、バカ弟」
「バカじゃねーもん、バカって言ったほうがバカなんだろ! バカバカバーカ!」
「お前の方が五回も多く言ってるけどそれでいいのかよ」
 ついに言い負かされたのか返す言葉もなく、弟は渋々ゲーム機を片付け始めた。リモコンを渡されて指定のチャンネルを押す。するとエンディングは既に終わり、次回予告も終盤に差し掛かっていた。どちらにせよすぐ始まるだろう。
 時計を見上げた。午後四時五十二分。もう前番組が終わろうとしているのに、これでは少し時間が早いかもしれない。
 弟がゲーム機のコードをくるくる巻くのを背中に、岳人はテレビの前に腰を下ろした。しかし、窓の外は暗くなり、照明をつけていない屋内はいささか暗かった。コマーシャルが始まるのを見計らい、岳人は立ち上がって蛍光灯のスイッチを入れた。部屋が一気に白くなった、というのは錯覚で、ただ単に暗い所に目が慣れすぎただけだと思う。目が慣れていくと同時に、部屋の輪郭が明確さを取り戻す。光が強くなれば影もまた濃くなる。
 するとテレビの音楽が切り替わり、ブラウン管の中で美人ニュースキャスターが一礼した。
『皆さん、こんばんは。ニュースの時間です。今日の午後一時二十分頃、愛知県〇〇町の民家で松林重三郎さん(65)の住宅一棟を焼く家事がありました。この火災により松林さんとその妻は軽い火傷を負いましたがいずれも軽傷です。……』
 もうさっさと魔獣ビーストを見たいのに、どうしてニュースなんかやるんだろう。岳人は地団太踏みたい衝動を抑えて、ブラウン管の美人を睨む。目鼻立ちのはっきりした好きな顔だが、見たい番組を邪魔する奴は容赦しない。しかしまだ時間はあるようなので、岳人は台所に向かい、テレビに背を向けた。
『次のニュース……え? あ、はい。えっと、臨時ニュースが入った模様です』
 臨時ニュース、という耳慣れた単語を聞き流そうとしたが、首が緩慢にテレビ画面を見遣った。ニュースキャスターの背後に映し出された映像に、妙にデジャヴを感じる。くすんだ青色のバスは、公共路線でも使われる氷帝のラッピングバスだ。しかしそのバスは横が衝突されたようにひしゃげ、塗装が剥がれて照明が金属光沢をギザギザに光らせている。衝突事故でもあったのかもしれない。岳人はそう結論付けて冷蔵庫から牛乳を出すと、まだ残っていた弟が「あれ、姉ちゃんじゃない?」と呟いた。
「姉ちゃん? バーカ、姉ちゃんがまだ帰ってくるわけねーだろ。部活がそんなに早く終わるもんかよ」
 弟の呟きを一刀の下に斬り捨て、牛乳をガラスのコップに注ぐ。
「でも姉ちゃん、今日早く帰ってくるって……って、あれマジで姉ちゃんじゃね?」
 意固地な弟を流石に不審に思った。岳人はテレビ画面に近づいた。雪の積もった道路に氷帝学園高等部のダッフルコートを着た女子生徒が担架に乗せられて横になっている。その画像はほんの一瞬だけだったが、最初は、マジかよという不安が湧いた。直後、少女の髪が岳人と同じ赤色であることに気付き、更にその頭部に白い包帯が巻かれていることに気付き、その不安は確固たるものになった。
 食い入るように画面を凝視し、画像の隅に『氷室』という地名を載せた看板がよぎった。カメラが事故現場の風景をぐるりと映し出す――奇しくもその場所は、岳人の家とさほど離れていない、歩いていっても五分とかからぬ場所にある、駅前の雑多な交差点だった。
 胸郭に風船が押し込まれたような感覚がした上、悪い想像がさらに横隔膜を圧迫した。それはニュースが終わるまでの僅かないとまで、岳人の行動を決定付ける。
 いてもたってもいられなくなった。岳人はまだ雪も乾いていないジャンパーをひったくるように羽織ると、最近少し小さくなってきたスニーカーに踵を押し込み、真冬の寒さに飛び込んだ。背後のドアから弟の何かを言う声が聞こえたが足は止まらなかった。風がごうごうと吹きすさび、雪がコートのみならず髪を、全身を容赦なく叩いている。
 岳人は滑りそうになる雪道を駆けた。積もっていた雪は車のタイヤに押し潰され、更に上から積もって白い絨毯を形成している。途中一、二度転びそうになりながら、岳人は雪道を蹴った。ありえない、信じたくない、という思いの方が大きい。しかし実際この目で見ない限りは分からなかった。走るうちに冷える唇を舐め、噛んで、意に反して湧き出す唾液を嚥下する。
 あっという間に、事故現場。そこには既に渋滞が起き、警察の制服を着た大人が何人か手を振り上げて車の誘導を行っていた。横転していないバスの周囲には既に人垣が出来ていて、しかもその人垣は今も少しずつ大きくなっているようだった。人々は戸惑った様子かまたは他人事のように心配した様子、その中に少数ではあるが「これは見物だ」という視線がある。一人だけがテレビ局のカメラを担ぎ、その惨状をフィルムに収めていた。流石にレポーターは到着していないようだ。今夜のニュースでこの場所がレポーター付きでお茶の間に上ればテレビ局としては早い方かもしれない。その人垣に割り込み、人を掻き分けながら前へ進むと、事故現場と人垣を分けるようにして黄色いテープが張られてあった。警官に制止されたがそれを乗り越えると、一気に視界が開けた。
 比喩ではなくひしゃげた側面を晒すバス。ぐちゃぐちゃになった銀色の乗用車。白黒のパトカーと数台停められた紅白の救急車は回転塔を明滅させて停車している。そして道端に座り込み、或いは倒れこみ、簡単な応急手当を行われている人々。その口から漏れ出す、か細い「いたいよ」という嘆きが平常心を引っ掻く。数多くの車に潰された雪に、無数の砕けたガラスが散っていた。そして最悪におぞましいのは、バスの割れた窓から線を引く真っ赤な液体が、汚れた雪を更に濃く染めていることだった。
 雪が視界を冷たく穢していく。警官に背中を押されて、ぐいぐいと人垣に戻される。しかし視線は事故現場に釘付けだった。
 すると突然、雪道に座り込んでいる長髪の男の姿が見えた。長髪で、メガネをかけていて、あと数ヶ月ぐらいしか着ない氷帝のコートを着ていて、その男はひたすら静かに道路に座り込んでいる。忍足だ。そう直感する。岳人は警官の手からすり抜けて、忍足の前に駆けた。
「ゆ、侑士っ!」
 ここでどもるなぞ、やはり自分もかなり動揺しているようだ。
 名を呼ばれたからか、忍足だと思えた人物は緩慢に顔を上げた。その目が岳人を捉えるのに数瞬かかる。岳人は何かを包んでいるような青いビニールシートをまたぎ、正面から忍足の両肩をしっかと掴んだ。
「侑士、これ一体どうなってんだよ」
「……ああ、これか? ……車と車のこっつんこや」
「そんな事わかってんだよ、真面目に答えろって! でよ、お前怪我は?」
「別に……ちょっと頭打っただけや。大丈夫なんやけど」
 いつもの忍足の覇気がない。いや、もともと元気なタイプではないが、いつにもましてはっきりした答えを返さない。頭でも打っておかしくなっているのか? 本人もそう言ってたし……岳人はそう結論付けて、意識の対象を忍足から引き剥がす。
 忍足は自嘲するような笑みを口の端に浮かべて、形だけ頭を掻く。
「ああもう、どないなってしもうたんやろうなぁ……俺」
 瞳の焦点が岳人に合っていない。動転しているんだ、きっとそうだ。
「な、今ちょっと巻き込まれてショックになってんのは分かるけどよ。バスの中に、俺そっくりの女子高生っていなかったか?」
「女子高生で、赤い髪の? 入ってきたんは覚えとるんやけど、その後は知らへん」
「じゃあ、事故った時、まだ降りてなかったか?」
 その瞬間、岳人はその答を思い出した。この時間帯のこの路線では、家から一番近くのバス停はもう少し先にある。姉が既に降りているとは考えにくい。
「さあな……そこの救急隊員さんにでも訊いてみ。俺よりも詳しいと思うで」
 忍足の肩から手を離し、足元のビニールシートを踏まないようにして、岳人は後方のハッチが上がりっぱなしの救急車前に立っている救急隊員に話しかけた。
「あ、あの! そのバスに、向日さやかって名前の女子高生乗ってませんでしたか? 赤い髪で、おかっぱで、多分ミニスカなんですけど」
 女性救急隊員は傍目からでも分かるぐらい顔を顰める。そして「いかにも業務邪魔されてます」といったようにとげの生えた答を返した。
「赤い髪のおかっぱ頭の女の子? いたかしら」
 すると横から、電話を切ったばかりの茶髪男性救急隊員が鳳のように口を挟んだ。
「いましたよ、その子なら。さっき救急車の中に運び込んで、手当てを受けているはずですよ」
 血がすとんと頭から落ちていった。
 女性救急隊員が首を傾げて、再度男性に問う。しかし岳人にその答は必要なかった。岳人は救急車のハッチから中を覗き込み、収容された怪我人の顔を確認すると、次の救急車に走った。いなければいい、いなければいいと心の奥が軋んでいる。そして三台目の車を覗き込んだ瞬間、今度こそ本当に全身の血液が凍った。
「姉……ちゃん……」
 ありえない、ありえない、ありえない、でもあの姿は間違いなく……。岳人は救急車に半分乗り込んだまま、そろそろと首を振った。巻き込まれていなければいいのに、一縷の望みを懸けていたのに、今まで抑えていた全てが壊れた。
 金属光沢の眩いストレッチャーに乗せられて、赤い髪の女の子が手当てを受けている。それだけであればまだ少しは安心できただろう。しかし岳人の視点は、少女の頭部に巻かれた包帯に釘付けになっていた。白い布地を赤く染め、救急隊員が忙しそうに包帯を取り替えている。布地は血に濡れそぼっている。触れるだけで手が血に染められそうになるほど、赤く赤く……赤く。
 誰かに押し退けられ、それが救急隊員にだと気付く間に救急車のハッチが降ろされた。救急車が出る。岳人は走り去る車の排気ガスを呆然と眺めていた。
 赤い髪、氷帝のコート、ミニスカ、そこから伸びた足に巻かれた包帯、血塗れのコート、血塗れの顔、血染めの包帯、血塗れの首筋、血塗れの、血塗れの、血塗れの。あんな血が出たら普通死ぬだろ。……死ぬ? 姉ちゃんが死ぬのか? 小さい頃俺を使いっぱしりにした姉ちゃんが? よく一緒にプールに入ってもいつも先を泳いでいて、決して抜かせなかった姉ちゃんが? 中学に入った頃からちょっと家族を疎ましげに見ていた姉ちゃんが? 携帯に取り憑かれたようにいつもメールとか電話とかしてて楽しげに笑っていた姉ちゃんが? 昔から彼氏といっしょであんまり帰ってこないぐらい恋に打ち込んでいた姉ちゃんが? それでもやっぱり俺は姉ちゃんが大好きで、シスコンと冗談で言われても冗談で返せていたのに、いつもつっけんどんだったけどたまに見せる笑顔が誰よりも優しくて、そんな姉ちゃんが大好きで、だから俺も弟も姉ちゃんが大好きで、それなのに、それなのに姉ちゃんが――
「岳人、」
 肩に冷たい手が置かれる。振り返ると、忍足が無理矢理作りましたって感じの出来損ないの笑顔を浮かべていた。その笑顔が何を指すのかは分からない。だが、岳人の中で、その笑顔は他人の不幸を愉しむ、人間の出来損ないのような笑顔にしか見えなかった。
 最初は熱の点のような怒りが、瞬く間に沸騰した。新潟の雪だって溶かせる熱が、思考と言う過程を経ずに口から零れ出た。
「何だよ。侑士」
 理性のダムにひびが入る。噛み締めた奥歯が、ダムの決壊を不吉な音で告げる。
「姉ちゃんを笑いにきたのかよ」
「岳人、俺は」
 ダムが、崩れる。弁明の言葉など聴きたくもない。その笑顔は何なんだよ。どうせお前も、そこらへんで歩む足を止めて他人の不幸を笑っている奴らと同じ奴なんだろう?
「お前もそんな奴だったのかよ!」
 肩に置かれた手がびくっとすさり、忍足は不意打ちを食らって目を見開いた。
 言葉が止まらない。
「お前も、俺の姉ちゃんが死にかけてんのに、それを笑おうって魂胆だろ! ああそうだよな、お前ってドロドロの恋愛もの好きだもんな。他人の不幸は蜜の味ってやつなんだろ! 何へらへら笑ってんだよ。答えろよ。好きなんだろ他人の不幸がよ!」
 思い切り突き飛ばして、言葉を思い切り投げつけた。忍足は力なく揺れるだけで反論の言葉もない。ただうな垂れている。言葉に出す度に、そして数々の罵倒に言葉が返されない度に、涙が募ってくる。反論してくれと思った。矛盾している。せめて相棒だけはそんな人間のキタナイ所に塗れないでいてほしかったのに。涙が気道を塞ぐ。何でもいい、言い返してくれ。言い返すだけでもいいから。なあ侑士――
 口が理性よりも先に怒鳴り散らす。
「笑顔なんてこんな状況で作れる奴がおかしいんだよ。楽しいんだろこの状況を。人が死にかけて、そこに何らかのドラマでも出てくるんじゃねえかって思ってるんだろ。あるわけねえだろそんなもん! どうして笑ってられんだよ、この人でなし!」
 腹の底から叫んだ瞬間、強く瞑られた瞼の間から涙が一度に流れ出した。限界だった。
 回れ右して、人垣の中に割り込んで、それが男か女か判別のつかないまま掻き分けた。人ごみが途切れると、そのまま走る。途中何度も転びそうになりながら、その度に足を前に出して走る。息が出来なかった。吸っているのに、吐いているのに、この息苦しさは何なんだろう。顔に枕を押し付けられたかのように息が詰まる。しかし風は冷たく、雪とかき混ぜられてごうごうと吹き荒んでいた。雪の風は本当に冷たかった。心臓まで凍ってしまうのではないかと思った。何もかも凍ってしまえと思った。
 ――侑士を疑った俺なんか、死んじまえ。
 とにかく走った。そこが何処かなんて考えもせず、足が前に進むがままに駆けていた。足の裏でまだ踏み固められていない雪が音を立てて潰れた。それを何度も繰り返した。
 ――どうして侑士に当たっちまったんだ。侑士は何も悪くないだろ。事故なんて誰が起こすわけでもないだろ。
 すると突然、足から重力が消え、雪の絨毯に顔から突っ込んだ。数瞬して、やっと派手に転んだことに気付いた。倒れこみ、冷たい頬に更に冷たい雪がべっとりと付着している。膝の痛みが神経を経由して、転んだとようやく認識できるようになってくる。冷たかった。痛かった。その中で、目頭だけが異常に熱かった。無意識に顔へ向かった指が、かじかんでいる触覚の中で液体を感知した。
 雪に覆われたアスファルトに手を突いて、のろのろと立ち上がる。周囲に顔を巡らせると、雪化粧をした鼠色の住宅街が広がっていた。銀世界と呼ぶにはあまりにくすんだ色をしている。もしこの空に雲がなければ、空を反射した雪も青かったのかもしれなかった。右にあるのは、よくブランコに乗りながら「あの屋根越えたら勝ちな」と無茶な啖呵を切った、空よりも尚青い屋根だった。逆方向に視線を向ける。そこには無人の遊具が雑然と詰め込まれた、雪に埋もれた公園があった。
 低い鉄棒、雪が滑った跡のある滑り台、座る場所にさえ雪が積もっているブランコ、最早何処にあるかが分からなくなってしまった砂場が、子供一人いない広場に立ち尽くしていた。バージンスノーが砂を覆いつくした公園には、達磨の形を模した雪すらない。もう夕方だというのに、この公園では子供一人訪れなかったのだろうか。
 記憶の糸が指に絡みつき、手繰り寄せた。思い出せば小さい頃、特にこんな大雪の日は外に出してもらえなかった。友達に「遊ぼう」と電話をしても、寒いから、塾があるからと言われて、結局遊べなかった。狭い家の庭で遊び相手になってくれたのは、五歳年下の弟ではなくて、二歳しか違わない姉だけだった。でも降る雪は少なかったから、椿の葉や枝の上から綺麗な雪だけを集めてうさぎを造った。かまくらを造ろうとしても雪が少なすぎて自分が泣いた時に、姉は大事にしていたバービー人形を持ってきて、人形サイズのかまくらを造ってくれた。たまに大雪が降った時には、姉は小学校校庭に居残って、岳人の同級生に混じって雪玉をぶつけあった。小さかった自分は雪玉が顔にぶつかったら即泣いていたのに、姉はそんな自分を援護・叱咤しながら迎撃を始めていた。
 つっけんどんな姉だったのに、優しい記憶だけが次から次へと浮かんでくる。
 なのに、どうしてその姉が死なねばならない。
 事故が起きた原因は、この雪にあるんじゃないか。そう思うと、昔遊んだ天然のかき氷が仇のように思えてくる。車と車のこっつんこなんて、普通の状態で起こりっこない。スリップしたんだ。雪の所為だ。雪が姉ちゃんを殺そうとしているんだ。
 思わず、降りかかる雪を払った。それでも雪は絶え間なく降ってくる。雪を殴ろうとした。それでも雪はとらえどころがない。それでも殴ろうとして、腕をぶんぶん振り回した。雪はそんな自分を笑いながら、ひらひらとダンスを踊っている。それが更に悔しかった。雪なんて死んじまえ。
「岳人」
 幻聴だ。
 雪を絶えず殴った。ひらつく雪を、逃げる雪を、桜のように舞う雪を、仇のように殴り続けた。
「岳人……もうやめえや」
 幻聴だ、幻聴だこんなの。雪が自分を狂わそうとしているんだ。岳人は雪に向かって何度も拳を振り上げ、その度に雪がからかった。悪意すら感じた。嫌いだ、雪なんて嫌いだ、大っ嫌いだ、雪なんか、雪なんか……
 方向も考えずに振り下ろした拳を受け止めるように、冷たい指が拳を包み込んだ。
 ふと顔を上げると、いた。その顔は、メガネをかけた無表情に沈鬱さを加えたような、そんな形容し難い空気を孕んでいる。そして白くなる直前のように真っ青な唇の口角が、宥めるように上がった。
「岳人……な、やめえな」
 掴まれた腕が力を失い、重力に従って落ちた。
 前にいるのが忍足だと、今頃になって認識した。目が合う。すると忍足は無表情に近かったような顔に、悲しみを根底に流した微笑が浮かんだ。何かを抑えている笑みだった。
「侑……士?」
「せや。よう憶えてたなぁ。頭撫でたる、えらいえらい」
 岳人は条件反射的に忍足の手を振り払った。
「何だよ。子供扱いかよ」
「れっきとした子供やろ。しゃーないわ」
 そうして、忍足ははんなりと笑んだ。そんな忍足と、何故か目線を合わせられない。視線を雪に逃がす。
「子供じゃねえもん」
「そうして八つ当たりしてたんは何処のどいつや? 自分の胸に電話してみい」
「電話番号知らねえんだけど」
「651の5910や」
「それどうやって求めたんだよ」
「お前の苗字と名前で検索したんや。電話帳はないけどな。分からへんなら今からかけたる。応答してみ」
 忍足は電話を押す真似事をして、「ピ、ポ、パ、あー、こちらは侑士、忍足侑士です」と耳に手を当てながら喋った。
「はっ、何だよそれ。子供だましだろ。それにまるで、お前が俺のこと何でも知ってるような言い草じゃんか」
「知らへんよ、もちろん。知ってたらストーカーやん。少なくても俺の分かることは、お前の姉ちゃんが大怪我して病院に運ばれた。それだけや」
 忘れかけていたのに。
 胃の奥からせりあがってきた情動が、たったいっぺんで脳髄まで上り詰めた。しかし湧くものは怒りでも悲しみでもない。途方もない苦しみだった。罪のない忍足に当たってしまった自己嫌悪が御簾のように心へ降りる。心臓に雪女の手が差し込まれたように痛む。気道を握られたかのような苦しみが呼吸を阻害する。
 その上、忍足が事故という状況下で浮かべた笑みは、今でも瞼の裏に焼きついて離れない。顔も見たくない。あの笑顔がよみがえりそうだ。
「……何や。どうしたん?」
「別に……何でもない」
「何でもなくないやろ。どうして俺の顔見ぃひん。こっちは電話してんやで」
「るっせ。何でもないって言ってんだろ」
 半ば意地で忍足に背を向ける。頬を濡らすのは何も雪の所為ばかりではない。声が震えるわけもわからずに、岳人は唇を噛み締める。今の顔を見られたら、本当に忍足を嫌いになりかねない。さっきの笑顔で覗き込まれたら、それこそ泣き叫び狂いそうだ。拳がぎりぎりと鳴る。爪が掌に食い込む。痛みは神経を伝っていたはずなのに霜焼けに阻まれてしまった。
「岳人、」
「黙れ喋んな」
「分かった。けどな、ちょっと一言だけ言いたいんや」
 背後から腕が回された。抱きすくめられたのだと感じる。顔に降る雪が減る。忍足がありったけの柔らかさを、それこそ壊れそうなまでに腕に込めた。
 耳元まで接近した唇が、何よりも優しく許しを請う。
「辛い顔見たないから、こうしてても、ええか?」
 忍足の声は今にも崩れそうだ。岳人は俯いたまま、視線を雪に逃がしていた。
 噛み締めた唇の角に、一筋だけ熱く伝い落ちるものがある。目頭が熱い。顔が歪む。呼吸が上手くいかない。身体がしゃっくりに震える。抱き締める忍足の腕がそっと力を増す。背が伸びたままでいられなかった。姉との思い出と共に、一気に溢れた涙を抑えて顔に手をやった。しかしそれでも抑えきれない。指の間を伝って涙がぽとぽとと雪の上に落ちた。しゃっくりが止まらなかった。そしてしゃっくりは長い長い嗚咽に変わった。嗚咽は何よりも長く続いた。
 静謐が続いていた。
 何処かで車が走っている。踏み切りの警報機が遥か遠くから聞こえてくる。誰かがこんな寒い中ジュースを買いに行ってお礼の電子音声が雪にも負けず届いてくる。こんな住宅街の道では通る車も少ないのに、横の道路ではライトを点灯した車が幾度も走り去った。
 夕方を経ずに空が明度を下げていく。道路の横に設置された電灯が瞬き、電柱の足元に広がる結晶の絨毯が白く光る。
 お互いコートを着ているはずなのに、忍足の体温が暖かい。
 永遠ともとれる時間の後、忍足はふと、小さく呟いた。
 俺にな、東京に越してきた後に出来た友達がいてん。
 友達? と思わず返すと、忍足は顎を岳人の肩にこっくりと埋めた。
 ああ、そや。俺、大阪ではいじめられとったからな。暗いだの汚いだの臭いだの、それこそ小学生レベルのイジメや。その所為で最初、誰一人信じられへんかった。その中で、岳人より先に近づいてきた友達がいてな。でもそいつも、俺をいじめたやつらと同じ奴なんだろう、って警戒ばっかりしとった。
 警戒?
 おちゃらけた奴やった。本当にあいつはアホって言葉が一番似合った奴やってんねんで。誰巻き込んでも漫才しはるし、しかも一回も滑らんかった。悪戯が過ぎて教師受けは悪かったけど、クラスでは一番の人気者やったん。当時俺はそいつに社交性や世渡りの方法とかを学んだもんや。そして、笑顔もな。
 そうなのか?
 せや。それで、ある日な。俺とそいつは同じバスに乗って、同じバス停で降りるはずやったんや。でも外は真っ白、風はびゅうびゅう。これで何処かのタイヤがスリップしてもおかしくない環境やった。それで、どうなった思う?
 さあ。
 俺もその瞬間のことはあんまり覚えてへんねんけどな。交差点で、曲がりきれなかった白い乗用車があった。それは吸い込まれるようにバスに近づいてきたんや。
 どかん、ってことか?
 ……せや。状況はそんなもん。で、バス停が近づいてきたから立ち上がっていたあのドアホは、激突の衝撃が強すぎて、ひっくり返ってガラスに突っ込んで、首をやったんや。岳人にとって、ここらへんから、ここらへんまで。そりゃザックリとな。こりゃ助からへん、そう思った救急隊員さんは凄いなぁ。他の怪我人の手当てを優先させた。……知っとるか? 大事故の現場では、助からない人はその場に放置されて、助かる人だけ運ぶんやって。
 だから、お前の姉ちゃんは絶対に助かるから。
 身体を包む腕が強くなる。
「でも俺もドアホなことに、運び出されたあのドアホウの前から離れられなくてな。前にへたったまま動けなかった。そん時は流石に心が閉じかけたわ。でもちょうどそのとき岳人が来た。それだけでも、俺はどうにか自分取り戻せたんねんで。来てくれて、ありがとうな。あん時の俺……たった十数分だったけど、確実に発狂してたわ」
 拳を握りしめた。ぎりぎりと震える。しかし霜焼けは予想以上に強い。痛みが伝わらない上に力も籠もらなかった。昨日爪を切っていなかったら、確実に掌の皮は突き破られていた。
 ――どうして俺は、自分よりも他人を大切にする奴に、キレてしまったんだろう。
 声を大にして叫びたい。頬を二、三度引っ叩いて、自分を怒りの赴くまま殴りつけたい。どうしてこいつは、自分よりも他人を優先してしまうんだろう。泣きたい時に泣けばいい。叫びたい時に叫べばいい。哀しい時には泣き叫べばいいし、怒りたい時に怒ればいい。それなのに忍足は自分を偽りショックを誤魔化し、岳人の平静を取り戻させる為に、無理矢理にでも笑顔を作った。その、友達に教えてもらった『笑顔』を。
 その笑顔をもう一度作り、忍足は約束した。
「でもお前の姉ちゃんは、絶対に大丈夫」
 笑顔には力がある。
 岳人は袖で目をごしごしと拭い、忍足の背後へ顔を向けた。煙草一本分の間もない。それでも嫌にならない。忍足は、先刻と何ら変わらぬ、力のない笑顔を浮かべた。
「もし、なんて悲観的な約束、許さねえかんな」
「たりまえや」
 岳人は拳を突き出し、忍足もまた指を握りこんで、岳人の拳にこつんとぶつけた。

 雪が降っている。
 雪は俺たちをずっと見守っていてくれる。










河童様へ
(河童様のみ転載OKです)

遅くなりましたが、3000ヒットリクの小説書き終わりました。
ってかもう3000ヒットどころか7000ヒットまで到達するぐらい時間がかかってしまい、
誠に申し訳ありませんm(__;)m滝汗
拙いかもしれませんが、こんなのでも貰ってあげてください;
それでは、ここまで読んで下さってありがとうございました!!