まだ体温の残る着物の帯を簡単には解けないように締めた。通りがかりの武士は、幻術を使えばすぐに身ぐるみを自分で剥いで渡してくれた。十五年近く憑依していた肉体を離れてもイリュージョンを操る能力は健在だ。なにせ幻術は三千年にも渡る憑依の繰り返しの中でも、消えずに残っていた能力だ。使い捨ての肉体に染み込ませるなどあまっちょろいことをしていたら、術が使えない時期が使える時期とサンドイッチになって不安で仕方がない。幻術さえ使えればどうにでもなるし、どうにかすることができる。
 わけがわからず身ぐるみ剥がされた武士から馬もお借りした。返すつもりもない。馬の頭を瀬戸内沿いの北に向かせ、手綱を握る。鞍の上で揺られながら、思考を勝手に働く脳髄に委ねる。
 まず、元の身体が死に、予定を繰り上げて柳生に憑依したのは時期尚早すぎただろうかと後悔した。
 血縁関係にある柳生は、昔から目をつけていた、次に憑依する予定の依坐だった。ただでさえ血縁という深い関係がある上に、男性同士での性行為などによって仁王と柳生の関係はいよいよ強固になる。元から同性愛の気がない柳生はその強すぎる倫理観から自分を責め、仁王にやりようのない憎しみをぶつける。しかし柳生が憎めば憎むほど思考は仁王に塗り潰され、メンタリティは次第に仁王に近づいていく。自責に潰れ、自分などいなくなればいいと考えればもうこっちのものだ。セキュリティホールを突かれ、コンピューターウィルスに侵されて、残された身体は紳士というソフトもろともクラッシュしたアンドロイドだ。それにどんなソフトをインストールしようが自我を自ら壊したやつの心の弱さに起因する。決して逃れることのできない二重螺旋は柳生を一部の隙なく絡め取る。関係のあったもの同士はずっと縁で繋がり続けるという感染魔術の考え方をフルに利用した罠で、呆気ないほど簡単にその肉体を手に入れることができた。柳生からささやかな反撃はくらったものの、概ね順調にその身体を頂くことができた。
 殺人教唆の餌で釣ってかまいたちを懐柔したころから、裏切られて仁王雅治の肉体がダメになる可能性は昔から捨てていなかった。違うやつに手引きされた所為であるとしても、その予測は充分に当たっていたとみえる。たとえ仁王の肉体が死を迎えるまで壊されたとしても、赤也が柳生にまで手を出すことは考えられないし、人道的に考えて(そういう仁王も人道などとっくの昔に放り出しているが)精神的に傷つきもがき苦しむ人間に鞭打つような酷な真似はしないだろう。そんなことをしたら柳あたりに制止される。様々な要素を踏まえて考えても、社会的評価の高い柳生以上の隠れ蓑はいなかった。
 今まで心も身体も長い時間をかけて侵食していたおかげで、至極調子がいい。魂には容積があって、身体にも容量がある。いつもであれば憑依された肉体の魂は抑圧されて小さくなるが、それでも仁王の魂を受け入れるのには拒絶反応がある。憑かれた人間は時に狐憑き、悪魔憑きといった異常行動をするが、それは魂が限界まで抑圧され、本来ならば抑圧されるはずの狂気や妄想が表出したものだ。現に仁王は実地で体験している。拒絶反応は数日寝込む程度から熱を出すまで実に多彩で、どちらにせよ身体が自由に動くことはあまりない。女に憑いた直後はたまに悪阻だと間違えられた。胤が腹で芽を吹いたことも数知れないが、偽りの愛を舌の上で転がしつつ、生まれた丈夫そうな子供に憑依した。
 柳生の全てを乗っ取ったのにも関わらず拒絶反応が一切ないのは少し気になるところだが、強制ルームシェアした肉体の奥底にはちゃんと抑圧された柳生の魂の感触がある。自分自身の精神を削りに削り、死ぬ間際の嬰児のように小さくなっている。傷ついた人間でもこれくらい自分を削った人間は見たことがない。拒絶が全く感じられない事実は好都合だったが、これでも柳生はテニスの強豪校・立海大附属のレギュラーメンバーであり、紳士的に見えて心の奥底には誰よりも熱く燃える闘志が眠っているはずだ。なにに対してであれ負けん気が強い人間ならば拒絶反応は強く表れ、軽く一週間以上寝込むことがあるのに、ここまで従順なのはなんとなくうそ寒い気分になった。
 馬は、やがて大きな郷を見渡せる雪原に出る。右手には山が縦横に広がっている。雄大な和泉山脈は頭から白粉を吹いたようで、黄昏に煌めく雪はぎざぎざのやまなりから足元の草むらまで一続きの絨毯のように覆っている。雪は郷まで降りている。堀に囲まれた何十、何百もの茅葺屋根にも空の色を薄く塗られた雪は不平等に降り注いでいる。
 首をもたげて馬が、ひひん、と大きくいなないた。何じゃ、と柳生の声で尋ねると、栗毛の馬頭は鼻息荒く左に傾いた。仁王が狐であっても犬畜生の言語までは解せない。そのまま手綱を無視して馬は坂を駆け下りた。
「お、おい、馬! 何じゃて……」
 今頃赤也や柳が抜け殻にかかずらって足止めされているうちに少しでも距離を稼ぎたかった。柳と赤也は仁王が死んだものと思いこんでいるに相違ない。そして柳生を追ってくる可能性も高かった。見つからないうちにどこかに隠れてほとぼりを冷ますということも必要だろう。そのためには木を隠すには森、この地域では一番人口の多い大坂近辺に隠れておきたかった。時間は待ってくれない。急がねば二人に見つかって、柳生に憑依していることがばれて始末されるかもしれない。あの二人には柳生という人質をとっても無駄だろう。なにしろ赤也はなかば楽しむようにして柳生を刺した。銀髪ほどではないが、かつて柳蓮二の前世と想いを通わせたこの時代において、茶髪はよそ者のイメージしか抱かせない。それでも頭数の多い大坂に隠れていた方が無難であるし、いざとなったら誘惑した人間に憑依すればいい。
 仁王が大坂を目指すのはもう一つ理由がある。秀吉の城があるからだ。一蓮を計略にはめて尾張に流し、それでも飽き足らず自分たちを鎌倉近くまで追跡し、一蓮を始末した罪は万死に値する。せめて一蓮が尾張に流される少し前であるこの時代で、権謀術数を駆使して秀吉を殺め、自分たちの幸せな時間を少しでも稼ぎたい。過去に落とされたのならば、災禍の種は摘むに限る。タイムパラドックスが起こっても知ったことか。秀吉さえ死ねば、赤也を利用した大量殺人を計画することもなく、一蓮とともにたったひとつの生を終えることができる。その胸に抱かれたまま、一蓮と指を絡めて隠り世にたゆたうことができる。
 馬の脚が赴く場所に仕方なく向かう。
 すると、柳生の茶髪よりも、仁王の銀髪よりも、なによりも目立つ色の毛が、草むらのくぼみにうまっていた。炎のような色を蓄えた髪がそこに倒れていたので。
 思わず息を呑んだ仁王は、「お、おい」と思わずどもりながら慌てて馬から降りた。具足で薄い雪を踏み、赤い髪の少年を抱き起こした。小さなくぼみに身を隠すようにして横たわっていたのは、乾いた血でがびがびになったサラシで身体のほとんどを覆い、右目が隠された丸井ブン太であったからだ。包帯に覆われていない左の頬には内出血の黒い痣ができ、唇は切れて血がこびりついている。剥き出しの手足や白い腹にはいくつか擦過傷ができ、そこから血が滲んでいた。その首筋には聖母の絵が描かれた金色のペンダントが提げられている。いや、背中の方にも似たような飾りがあるから、これはエスカプラーリオだろう。元はジャッカルが祖母から貰ったお守りだったはずだ。サッカーのブラジル代表がたまに着けている。輪の両端に飾りが繋がれ、前も後ろも守ってくれるというお守りだ。
 てっきり死肉の蠱毒に放り込んだ後は死んだものと思っていた。崩れ去ったあの境内は直接カタコンベに落ち込む構造になっている。長年崩れなかった境内が壊れたら自重によって、内側にあるものは全て潰されるものと思っていた。それでなくとも境内の地下からは炎が噴き出した。圧死するまえに焼死か窒息死していてもおかしくはない。とすればこの世界には死者も生者も関係ないのだろうか。
 いくら偽りの友情を殺し、目的を果たすために犠牲を強いたとしても、抑圧された柳生のお人好しが移ったらしい。傷ついた喉に向けて、「ブン太、ブン太」と連呼した。すると首がゆっくりと持ちあがり、目がうっすらと開いた。唇が動く。しかし喉の怪我はこの世界に落ちても治ることはなかったようで、声帯が震えるような振動は聞こえない。再び動いた口の動きを読む。
「『や……ぎゅ……う』? 気をしっかりと持ちたまえ。私が分かりますか」
 咄嗟に柳生に扮した仁王に向け、敵意のかけらもなくブン太はうなずき、柳生の手首を二回弱々しく握った。夢とうつつが混じったような目つきのまま、ブン太は身体を起こそうとした。それでもやはり傷が重いらしく、ときおり包帯の上から身体を押さえてうめく。乾いた血のこびりついた爪は地面を浚って、落ちていた枝を拾った。蕾がまだ芽吹かぬ桜の枝からは一枚の葉も伸びていない。
「どうかしましたか。怪我は?」
 柳生みたいな事を言って、仁王はブン太の背に手を当てた。ああ、俺はバカか……仁王は臍を噛んだ。柳生に扮したら柳生になりきるために、必要以上のお人好しにならなければならないのだ。すっかり忘れていた。少なくとも欺瞞で塗り固められた紳士を演じて、無自覚の偽善を振りまかねばならない。くそっ、面倒事抱え込んだ。演じるのは得意中の得意なのに、怪我人を抱え込むのは柳生の人格として当然だ。たまに鬼畜眼鏡と罵られようと、柳生の本質を鑑みればこの場で見捨てることもできない。舌うちしたら紳士の化けの皮も剥がれる。まずはブン太を誰かに預けて、すぐさま大坂に向かわねばならない。
「丸井君、歩けますか。私はいますぐ行かねばならない場所がありまして、貴方の手当をする暇もありません。この近くに知り合いはいませんか」
 包帯に覆われた指が、ゆっくりと眼下に見える郷を指した。
「乗りたまえ。今すぐ郷へ向かいましょう」
 ぼうっとした目のままのブン太を馬に乗せ、仁王は丘の坂を駆け下りた。敵意の眼差しで迎える村人に、どなたかこの少年を知りませんかと叫んだ。しかし一度郷の中に入ってしまえば、その声は誰にも届かなかった。村人は束にした銃を持って走り回り、弾を持ってこい、火薬はどこだ、と口々に叫びあっているのだ。戦でも始まるのだろうか。銃が多いことと、地理的に考えて、ここは雑賀郷だろう。雑賀衆の頭領である雑賀孫市に会えばブン太を預けられるかもしれない。
 と、そのとき怒号の向こうからかすかに「ブン太!」と呼ぶ声が聞こえた。人の間を縫って走ってきたのは頭を剃り上げた褐色の坊主である。しかも聞きなれた低い声。彼はまさしくジャッカル桑原であった。ジャッカルの影に隠れてきたのは、ジャッカルとブン太に比べ二つくらい年下の、年相応な顔だちをした紅顔の少年である。見たことのある顔立ちで、彼もまた浦山しい太を彷彿とさせる要望をしていた。そのとき集落の温度が明らかに下がった。一瞬向けられた白い目はすぐに逸らされ、銃や弾に戻される。あからさまに唾を地に吐く者もいて、「裏切り者への天誅に決まってらあ」と野太い罵声を浴びせて駆け抜けていった。しい太の目が一瞬沈み、しかしすぐに払拭されて仁王に向き直った。
 ジャッカルを見つけて気が抜けたのか、ブン太はぐらりと傾ぎ、そのまま馬から滑り落ちた。ジャッカルが彼を支え、唇に舐めた人差し指を当てて呼吸を確認した。
「お前、ブン太を連れてきてくれたのか」
「ええ、そうです。というよりもどうされたのですか、ジャッカル君。この騒ぎは」
 ジャッカルは目線を自らの草鞋に落とした。横目で彼を一瞥したしい太は、一歩前に出て、まだ声変わりを経ていない甲高い声で、ジャッカルの低い次の句を打ち消した。
「秀吉が攻めてくるんでヤンス。それで僕は今すぐ根来衆の援軍として、ヤスケさんとブン太さんを連れて千石堀城へ向かわなければならないんでヤンス」
 千石堀城!?
 その単語に、心臓が別の生き物であるかのようにどきりと鳴った。
 千石堀城とは秀吉の紀州征伐のときに、紀州勢の防衛線の東端にあった城である。大谷左大仁を城将として、根来衆の精鋭千四百人、他に婦女子などの非戦闘員を四〜五千人ほど加えて防衛にあたった。にわか造の頼りない城ではあったが、城内から鉄砲を放つこと平砂に胡麻を蒔くがごとし射撃で、秀吉勢に僅か半時間で千人もの犠牲を出して苦しめたほどの城だ。
 紀州征伐がいよいよ始まるらしい。時は1585年3月、秀吉は寺社勢力もろとも討ち果たすために、十万もの兵士を動員する。1577年に信長に踏みにじられ弱体化した雑賀は今度こそ本当に終焉を迎え、離散するだろう。
 口端が思わず持ち上がったのは、秀吉の性分を思い出せばこそであった。足軽出身の秀吉は大将が前線に出ねば兵士の士気が上がらないことをよく知った知恵者であり、頻繁に前線に出て士気を鼓舞していた。そして根来衆や雑賀衆は銃を用いた戦闘を得意とする。つまりある程度の距離は火薬が無効にするのだ。
 鉄砲さえあれば、秀吉を殺せる。
 紳士のように冷静に、狐のように冷酷に、柳生の表情がゆがみ、仁王の感情がゆれる。
「その城に……私も連れて行って下さいませんか」

  *

 また白い妖精が降り始めた。
 もはや明度を失った雲から生まれ、灰色の六花は風を縫うようにゆらめき、地へと吸い寄せられる。しかしその雪の欠片は林から立ち上った煙に潜り、火の粉と触れ合う前に雨となった。雨粒が頬に落ちて、すう、と筋を引いた。濁ったプラネタリウムが泣いている。人目を忍ぶようにぽろぽろと小さな涙を落としている。涙を流せぬ冬の化身であるこの身の代わりに天が泣いてくれているのだろうか。それとも全てはただの幻想なのだろうか。手を伸ばせば煙を抱いたようにかき消えるまぼろしであれば、下手な希望を持たぬまま春風に融かされて、近いうちに真田の埋められる土の上に戻ってこられるというのに。雪の精に堕ちたこの身は人と触れ合うことも許されない。
 山は火の粉を無数に散らしながら、橙色の手で木々をべたべたと触っていた。山を越えてきた炎か、それとも雪女狩りの残党が火を放ったのかは定かではない。それでも真田は緋の舌が山肌を舐める景色を見渡せる雪原に佇立していた。その片手は幸村の肘を掴み、手のひらは生きているものの肉ではないほど温度を失っていた。凍ってはいない。それは幸村の皮膚に直接触れねば氷の繭に包まれることはないことを知った対処であった。
 名残雪はいずれ水に変わる。冬は春へ、春は夏へ、夏は秋へ、秋は冬へ、春夏秋冬はとわに巡り廻る。冬が訪れるたびに雪は山野を覆い、人の隣に積もる。あわよくば幸村が冬にのみ戻ってこられるのならば、少しずつ年を重ねていく真田と毎年会えるはずだ。七夕の日に一度だけ会える織姫と彦星に仮託するだけで、もう二度と凍らない水になるやもしれない我が身を、いつわりの希望で凍てつかせる。焦がれは身を溶かすだけと、冷徹なまでに理性的な幸村の左脳は悟っている。
「幸村よ」
 世界も終わるほど長いように思えた時間のあと、真田はようやく唇を動かした。紫に変じ、乾いた血がこびりつき、皹を覆うように血糊が固まっている。まだ髭の生える年齢でもなく、がっしりした骨の形が見て取れる顎には拭いきれない返り血と喀血が張り付いていた。
 罪の糾弾でもない低い声が、静かに耳に届いた。
「お前が雪の精だということは重々承知だった。魑魅魍魎の類だと。人とは決して交わることの出来ぬ隠り世に生きる者だと」
 皮が爛れ、心臓を爪で引き裂き、内臓が引きずり出されて腸の位置が変わるような熱い濁流が喉の奥から込み上げる。
「どこかで逢った覚えがある、そんな根拠のない下らん情動に流されて、此処まで連れ立った。長年、真田源二郎信繁として育てられ、労咳を患って、捨て駒の影武者だと明かされて……ひとり逐電し、自ら己を棄てたも同然の俺と、どうしてともにいた」
 不如帰の如き血を吐くような末期の唸りに、震えが混じる。
 答えなぞひとつしかないではないか。どうしていまここで尋ねる。それ以外の理由なんてどこの土を掘り返しても宝物のように手に入るわけがないじゃないか。
 真田だったから。現代の立海大のテニス部で、副部長として君臨し、二年連続で全国大会優勝に導いた立役者。真田とともにいた時間は他の友人達よりも比較にならないほど長い、誰よりも深く理解してくれたかけがえのない戦友と瓜二つの者を信用せずして誰を信ずることができよう。
 この時代で会った真田弦一郎信繁は、幸村にとって、現代のテニス部で一緒にいた真田弦一郎に他ならなかった。手放したくない、というのは女々しい執着か、それとも幼児らしい独占欲の発露か、判断がつかずに心臓のあたりをぎゅっと掴む。もう鼓動しない自分の胸はやはり凍てついている。
 いかなる苦悩が思考の糸を乱せども、最終的に幸村はいつも真田を全てに優先するような行動をとってきた。それが原因で人が死ぬ。妖狐やかまいたちと手を組んだ結果、しい太が死に、ジャッカルは首級を取られ、ブン太は二度と声を交わすことも叶わぬ身体になり、柳生の心は砕け散り、幾度となく死を望んでも柳はその度に生と死を繰り返す。そして最大の行動原理だった真田は柳を討った咎で自ら腹を切った。閉鎖病棟でも開放病棟でも人は見境なく時間に殺され、また自ら命を絶つ。幸村は真田に死んでほしくはない。生きてわずかでも長く真田のそばにいたい。この命尽きるまで、幸村はただそれだけを想う。
 しかし、真田は?
 自らの意思に関係なく人を凍てつかせる異類の身に、幸村は成り果てた。真田を失いたくないがために、見境なく放った無数の氷の矢で罪なき少年の命を打ち砕いた。
 冬の名残の雪童子は、春の訪れとともに消えていく。いかなる懊悩も煩悶も、瀬戸内を超えて訪れる春風の前には意味をなさず、朔が上弦に、望月に、下弦に、そして再び朔へ戻ることを何度か繰り返すごく短い間に幸村は泡沫と消ゆ。
 その存在自体が影武者だった真田は、武士という矜持が誰にも増して強い。もろもろの感情を捻じ曲げ、ただ人の世の理を成すためだけに真田は刀を振るうだろう。
 腕から、真田の熱い手の平が離れた。昼に中天の金烏に融け、玉兎の青白い光に凍りついた堅雪にざっくざっくと草鞋の穴を開け、雪の化身は近寄れない場所に立った真田は、ぎざぎざになったなまくら刀を炎にくべて、すっくと炎に相対した。揺らめく炎の影となった背中は、今にも薪になってしまいそうなほど危うい。赤く燃えたぎる炎は火の粉を空に放ち、無風の山に踊った。無数の蛍が飛び交う夏の河に似て、炎の蛍は赤黒く光る空に融けて消えた。赤い星は低く燻り死を迎えるという知識がふと脳裏をかすめた。死んだ星は電磁波でも捉えられない黒色矮星と変ずる。地獄もまた陰陽道的に黒で表わされる。幸村が人と星を重ねるのもむべなるかな。血と炎に染む彼はまさしく死を間近に控えた赤色巨星であった。
「人を数多に斬り捨てて修羅の道をゆく覚悟はしていた。しかし武士として……俺は今、人の道を選ぶ。鬼神、物の怪、人の前に立ちはだかる怪をすべて斬らねばならん。幸村。お前といられた時間は、かけがえのないものだった。お前が黄泉路を逝く頃には俺も賽の河原におりる。それまで僅かな刻限、石を積みて待っておれ」
 賽の河原とは親より先に死んだ子供が行く三途川の河原だ。親兄弟を哀しませた罪を償うため石を積み続ける。塔が作られる前に鬼が来て積み石を壊してしまい、子供は地蔵菩薩に救われるまで永遠に石を積み続けなければならない。
 その河原に自らおりるということはただひとつ。その意味に想到した幸村の息が思わず止まった。雪の化身に存在しないはずの心臓が見えない手に鷲掴みにされる。真田がいなくなるという仮想に囚われる感情を振り払い、幸村は地を網状の氷越しに蹴った。
「真田……っ」
 薄氷に覆われた雪を裸足で踏み、しかしひとつとして足跡をつけずに、真田へ駆け寄った。火が熱い、融ける。かなり離れているのに炎は容赦なく幸村の肌を溶かしていく。
 振り向きざまに首筋に当てられたものは、赤く色を変じ、炎に焙られた刀であった。龍の鱗に似てぎざぎざに削れた刃はもはやプロミネンスと変わりない。陰になった瞳が鉄の仄明かりを弾いた。
「今、この場でお前の名を剥奪する。我が名は真田源二郎幸村。お前の全てを奪う男の名だ」
 その頬を流れ落ちる星の光は、誰のために流されたのだろう。炎の照り返しを弾いた涙は、星のように地面に吸い込まれた。
 気付けよばか。どうしようもないくらいそんなんだから、融通がきかないばかだから、心と行動が乖離していくんだ。気付いていないんだ。幸村は自らの胸を掴む。雪を踏みぬけぬ裸足の先に目を落とす。
 自分で気付かない涙を流すくらいなら、もう全てを持っていけよ。この命も想いもなにもかも消えてなくなってしまえばいいのに。そんな憐れみと哀しみのないまぜになった表情さえ与えず、知り難きこと陰の如く、侵掠すること火の如く、雪の精霊を薙ぎ払え。
 足元に脇差が放られた。じゃき、と鞘と鍔が擦れ合い、表面を凍らせた雪をへこませた脇差、それを手に取る。
 真田の真意が、分かったような気がした。
 喉が震える。寒くもないのに指先ががたがたと震え、鞘の中で脇差がちきちきと鳴った。意思に反して唇が笑いの形にひずむ。
「むかし、お前と交わした約束を守らなきゃならないな。雪童子に身を落としても……俺は負けられない。立海大附属の部長として、お前と交わした不敗の誓いだけは絶対に破るわけにはいかないんだ」
「ああ。負けてはならんぞ、幸村」
 ああ、と幸村はひとつ頷いた。鞘を投げ捨て、短いつるぎは音を立てて氷結した。炎がダイヤモンドダストを輝かせ、見る間に背丈近い槍に伸長する。槍先を軸に十字架の形に鎌が生え、炎を赤く弾く鎌槍はまさに真田十文字槍であった。幸村は咆哮した。
「この世で添い遂げられないなら、ともに六道を巡るまで! 人の道なんて行かせない。ともに地獄に落ちるんだ、真田!」
 終焉が避けられないのならば、この手で終わりを告げる。こがれは身を溶かす。どうして目から流れることがない。涙さえ流せぬことが雪の呪いか。聖書でも神の子は十字架によって全ての罪を贖う。不敗の誓い、妖と手を組んだ罰、真田への妄執、他人の放擲――幸村にかけられた呪いはすべて、いまこの場所に結晶した。

 火よ、いまこそ死をわが身にもたらせ。
 ともに輪廻をめぐるため。
 ともに業火で果てるため。

 いま、この十文字槍で。
さようなら


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