夜だ、と断言するには、太陽もないくせに西が明るすぎた。西の夕映えはまだ残っているようで、空は天蓋全体を使って雄大なグラデーションを奏でている。少しずつ近づく夜は、透明がかった空の色を島にそのまま落としていくだろう。夜は黒くなく殊更に青く、家々の明かりは一等星や二等星の輝きをもって夜に光をもたらしている。そのうちに島は星空の生き写しになるだろう。少し高い丘から集落を眺めれば、島と夜空の境目はないに等しくなる。
 風が吹いていた。風は沈んだばかりの太陽が送っているのにしては少しばかり冷えている。夏の青田をも欺くように草が波をつくる平原、その真ん中に二本の轍が車のライトに照らされている。少し早いが、知念寛はライトをハイビームに切り替えた。ロクに整備されていない道を慣れていない軽トラックで進むのは、紺の甚平の袖が邪魔することもあり案外に骨だ。荷台に乗せた質量に比例してアクセルが重い。その上荷台では一足早いどんちゃん騒ぎの予兆なのか、三線が弾かれ、平古場の声が鼻歌を歌っている。その騒がしさに対抗するように、民放のラジオが郷土音楽の特別番組企画でもしているらしく、「てぃんさぐぬ花」を割れた音色で流していた。
 あまりの賑やかさに耐えかねたのか、木手が窓から首を出して荷台を覗き込む。しかしその引き締まった唇からは牽制の音は出ず、代わりに一つ溜息をついた。知念は慣れないハンドルを捌きながら尋ねる。草が生い茂る道を走っているからか、振動は絶えず車体を揺らしている。
「何したんばぁ、永四郎」
「いえ、何でも。その代わりに……ほら、あそこにある石、思い切り乗り越えてやって下さい」
 木手が指したのは、ちょうど行く道に埋まり、氷山のように一角を突き出した岩だった。ハイビームの光に照らされてはいるものの、知念はその岩を見つけ出すのに少々の時間を要した。まるで土枕みたいだ。知念はまずそう思う。
 しかしこの中途半端な暗闇の中、木手はよくあんな遠くの場所を見つけられたものだ。大学で勉強していると聞いたから、てっきり視力も落ちたのかと思っていた。眼鏡は落ちた視力もカバーしているらしい。よく見れば、木手のかける眼鏡は下フレームではなくなり、楕円を模したカジュアルなデザインになっていた。五年の歳月が経てば、人の趣味も変わるのだろうか。
 そういう自分もかなり変わってしまった。高校には進めたものの、家業を継がねばならないことから部活を禁止され、ひたすら修行に打ち込んだ。今頭に巻いているタオルも、紅型を作る際に汗を生地につけてはいけないという必要に迫られ、手拭用として巻いたものだ。
 荷台に乗る田仁志は少しだけ痩せたお陰で彼女持ちだと聞く。甲斐は本島でファミリーレストランのウェイターをしているが、給料が高くはないらしく、フリーの天文カメラマンとして何度か写真が雑誌や新聞に載った。その雑誌を見たが、コンピューターグラフィックスではないかと疑うほど綺麗な星空を撮っていた。平古場からはあまり話を聞いていないが、我が道を突き進んでいることだろう。皆、それぞれの夢に向けて必死に走っている。
 そんなことを考えながら、知念はハンドルを切りアクセルを踏み込んだ。少し進路を左に逸らして、盛り上がった岩を乗り越える。重力から開放され、荷台から「うお」という三重唱。どすん、という音の後に、車体が軋んだ。同じことはもうするものではない。荷台からまたしても「あっがぁ」という二重唱が届いた。田仁志はやや痩せてもなおありあまる脂肪が衝撃を吸収したお陰で、驚きさえあったものの、痛みはなかったようだ。残念ながら中学の時から「体脂肪率五パーセント」を自負していたおかげでその恩恵にあずかれなかった平古場は、不満を拳に込めて、座席の後方にあるガラス戸を叩いた。その騒音が木手のサディスティックなボルテージを上げていることに気付いていないのが幸か不幸か、知念には判断しかねる。
「知念、安全運転しれ! 自練通った奴のやることか!」
 そーだそーだ、と甲斐までが窓を叩き始める。
「手元が狂っただけさぁ」
 まさか木手の不機嫌による命令だとは言えない。そこで何故か木手がラジオのつまみをねじる。音量が少し大きくなった。
「ぬーよ! もっかい言え知念!」
「それはこっちの台詞さぁ」
「平古場君、かしまさいよ。夜中には静かにするのが常識でしょ。さっさとその減らず口を閉じなさい」
「だから聴こえないって言ってるさぁ!」
 そろそろ木手も子供のお守りは限界なのか、ポケットから一本の野菜を取り出す。緑色で、ぼつぼつしていて、バナナよりは少し長いぐらいの緑黄色野菜。
 木手は座らせた目で背後を見遣る。
「……ゴーヤー食わすよ。しかも、生で」
 その脅しだけは聞こえたらしい。平古場の声から急に威勢がなくなった。
「ううっ……だからそれだけは勘弁だってばぁ。それによ、そのサドだけは直せよ。彼女に嫌われるんどー」
「嫌ですね。それに彼女は俺の性格を分かってくれますし」
 その瞬間、平古場が甲斐に向け、「じゃあ永四郎の彼女ってマゾ?」と囁きかけた。
「違いますよ。そんなことを大切な人にすると思いますか? 俺をサドにしたくないのなら、君が静かにすればいいことです。それに、今から思いっきり騒ぐんですよ。今から体力を浪費してどうするんです」
 その瞬間、荷台から田仁志の「主将、フライドチキンが零れてるばぁよ」という悲痛な叫びが聞こえた。すると平古場と甲斐が、仲良く「何っ!?」と叫び、田仁志の元に駆け寄った。
 木手が、小さく息をついた。
「どう思います、知念君」
「いきなりだな。ま、成人式終わったばかりだし、あったーもはしゃいでて普通さぁ」
「そうでしょうね。よく考えてみれば、あの人達が静かにしているわけありませんもんね」
 二人の会話を遮り、平古場が「永四郎! 酒のつまみ、晴美ん家にもあるよな!」と大声で確認を取った。木手も「ええ、酒もあるでしょうね!」と窓から首を出して、ややヤケクソ気味に答えた。
 知念は再度ハンドルを握りなおして、行く先を見据えた。草原を隔てた隣の集落には、電気のついた民家が密集している。その中にある、明かりのついた一軒の沖縄民家に向け、知念は車を走らせた。
 夜の帳は下りるものの、彼らのテンションは下り坂を知らない。

  *

 早乙女晴美は一人、縁側に座ってビールのプルトップを上げた。白いランニング一枚では少々寒いが、風呂上りで火照った体には心地よい涼しさである。しかしこのまま酔って寝てしまえば、いくら沖縄といえども凍死するのは確かだ。酔い潰れないようにだけは注意することにする。
 テニス部で木手らを教育して、もう五年が経った。四十一歳だった早乙女も、もはや四十六。五年という歳月に思いを馳せる。中坊が起こした事件なぞ星の数ほどあった。しかしそのどれも記憶には強く残っていない。しかし年月は確実に経っている。たかが五年、されど五年。中年と成り果てた早乙女にはさほど長くない期間であったが、かつて教育した部員は今頃自分たちの掲げる夢に向かって着実に闊歩しているだろう。対する早乙女は相も変わらず酒浸りで、去年は肝硬変を患って入院の憂き目に遭った。酒を飲んだだけで病院送りとは、頑健を誇示していた肉体も衰えを見せ始めている証拠だ。
 開けたばかりのオリオンビールを口に当てて、半ば意地のように飲み込む。喉の奥に爽快なアルコールの味が滑り落ちていく。咽喉を鳴らしてごくごくと飲み込むも、昔のようにはなかなかスカッとしない。一度に半分ほどを一気に飲み込むと、大仰な溜息をついて缶を置いた。ウシガエルのようなげっぷをして、ぼりぼりと尻を掻く。
 妻に逃げられてからというもの、早乙女はたった一人で、この家を守っていた。教師という職でなかったら、早乙女は人間と会う機会もつもりもなぞさらさらない。孤独でも別に構わなかった。しかし、今日は教え子達の成人式である。せめて成長した彼らの顔を見たいと思ったが、わざわざ人寂しさの為だけに呼び出しをしては男が廃るというものだ。酒を買って来いだの、つまみでも買って来いだのと電話の一本でもかければ大抵は従ってくれたものだが、根本に人寂しさがあることを考えれば、やっぱりその考えは棄却するしかない。
 再度息をつく。やはりこんな所で物思いに耽っていても何が出来るというわけでもない。
 遠くで車の音が聞こえる。しかも音楽を大音量で鳴らしていることから考えると、成人式で勢いのついたガキが酒にでも酔って、無意味な暴走を繰り広げているのだろう。すると音が目の前の生垣の前で停まった。
 早乙女は「ああくそ」と呟いて頭皮を掻き、面倒くさそうに立ち上がった。あのような見境ないガキには拳骨の一つか、一発ドカンと言ってやらねば気が済まない。玄関に向かい、年代物のサンダルをつっかけると、戸をがらがら引いた。
「おい、お前らなぁ、」
 とそこまで言った瞬間、
「お、晴美やっしー!」
 と平古場の底抜けな能天気が出迎えた。そしてその瞬間差し出された段ボールを受け取ると、予想外の重さに膝が折れた。
「おい、平古場、」
「さっさと運んでくれよ監督ぅ。まだあるんだからよ。……ホレ」
 と平古場は、また新たに早乙女の腕にビール箱の負荷を与えた。流石に二箱も持つのは重い。早乙女はよろめきながら玄関に箱を下ろすと、ほぼ同時に平古場が次のダンボールを運び込んでいた。平古場は早乙女の問い掛けに対し、曖昧に笑って「秘密」という。その合い間にも玄関に次々と段ボール箱を積み上げられていく。この状況は何だ、引越し作業でもする気なのか? むしろ誰かが居候でもする気なのか?
 そうだ。そうに違いない。この家は昔ながらの沖縄家屋で、二階はないが旅館として作られた設計であり、部屋が二つ三つ余っていたほどだ。現在は経営していないが、余った部屋を使って誰かが居候する可能性も充分に考えられる。どうせ本島での仕事が辛くなって逃げ出してきたんだろう。そんな軟弱者をこの家に置くつもりは毛頭ない。
 また段ボールを運び込んできた知念に、ほとんど喧嘩腰で尋ねた。電気も点けていない薄暗がりの中で、頭に巻いた白いタオルと前髪が、殊更はっきりと見える。
「おい、これはどういう意味じゃ」
 知念は「あい?」と首を傾げた。その後に続く言葉を無視して、早乙女は一気に捲くし立てた。
「この箱を詰め込んで、最後に何を運んでくるんじゃ」
「どうしたんばぁよ、監督」
「箪笥だの布団だのが運び込まれてくるのかって訊いてるんじゃ!」
「はぁ?」
 もともと表情に乏しい知念の目が白黒になっている。
 すると突然、後ろから誰かの腕が肩を抱いた。早乙女と知念の間から、平古場が顔を出す。
「怒るなってよぉ、監督」
 乱暴に腕を振りほどく。
「貴様らが何をするかはお見通しじゃ。どうせ本島での仕事が辛くなって逃げ帰ってきたから居候する気なんじゃろう、軟弱者めが」
「そんなんじゃーあらん」
「じゃあ何と言い訳するつもりじゃ」
「せっかく揃ってここに戻ってきたんだからよ。やもめ暮らしの中年親父に、酒とつまみのプレゼント。ありがたく思えっての」
「酒だと?」
 段ボール箱には、オリオンビールという文字がこれでもかとばかりに印字されている。
「そーゆーわけ。今日は酒飲み解禁の宴会やし。なぁ、みんな!」
「おう!」
 後続の甲斐と田仁志がケンタッキーの赤いバケツを、古酒のラベルがついた泡盛を天井に叩きつける勢いで掲げた。その後ろで、木手が少しだけ楽しげな表情でフッと笑った。
 早乙女晴美四十六歳バツイチ。彼は生涯で五回もついたことのないような盛大な溜息を、アルコールの匂いとともに吐き出した。

 *

 その後が修羅場だった。
 ちゃぶ台には、するめいか、山と積まれたケンタッキー、ピスタチオ、思いつきで買ったアーモンドとにぼしの小袋、これまた適当に籠に入れたケロッグコーンフロスティが数箱、枝豆らのスタンダードでオーソドックスなつまみが皿の上に乗せられ、缶ビールは瞬く間に箱を空けた。縁側に面していたので酒臭さを逃がす為にガラス戸を全開にしていたものの、酒の匂いは一向に逃げ出さない。しかもほどよく酔い始めたからか全員の声は日常生活と比較しても少しずつ大きく、陽気になっていく。
 最初に競り合いが始まったのは、枝豆の塩加減だった。卓を挟んで、木手の調節した塩味を、濃いや薄いやとする論争が始まったのだ。知念が「ちょっと濃いな」と言い始めたのを皮切りに、知念と甲斐が「濃い」、田仁志と平古場が「薄い」、木手と早乙女が「ちょうどいい」とする連合政権が論争を始めたのだ。
「そんなに塩多いなら、慧君その内死ぬんどぉー」と、甲斐。
「いや、こんなに薄いのは枝豆じゃないばぁよ」と、田仁志。
 木手が「これぐらいがちょうどいいんですよ」と頬杖を突けば、
「ちょうどよくない!」と平古場がちゃぶ台を叩く。知念はそんな論争を横から気だるげに眺めていた。
 早乙女は「どうでもいいじゃないか」とでも言わんばかりに残り少ない枝豆をさやから出してむしゃむしゃと頬張り、果てしない論争でヤケになった平古場が塩のボトルを取ってキャップを外してざらざらと枝豆にかけ、逆上した早乙女が平古場を追い掛け回すという事態に陥った。しかしその騒ぎの中でも、論戦は既に枝豆のストックが切れているのにも関わらず続いている。その内に木手は酒をちびちびと飲みつつ、塩分の過剰摂取と摂取不良が人体に及ぼす影響について講義を始めた。しかも誰も聴いていない。
 次に始まったのはケンタッキーの早食い競争だった。一人につきバケツが二つも用意されているので、それを食べ終えたものに泡盛が手渡されるというものだ。これは田仁志が優勢と思われたが、「お・か・わ・り!」は一度聞こえただけで、二箱目に突入すると見る見るうちにペースを落としていった。田仁志は早食いを始める前にも、常人では普通食べられない量の酒とつまみを胃に送り込んでいたからだろう。それにつまみの一つとして出したコーンフレークは腹の中で膨れる性質を持つ。そして田仁志が最後の一個に手を伸ばした時に、平古場が「いっちばーん!」と手を上げた。
「あーくそっ! わんもあと一個だったのに!」
 甲斐が地団太を踏み、唇を尖らせた。
「さすがですね、みなさん」
「そういう永四郎もあと三つだったあんに」
「三つもあれば負けに変わりありませんよ」
「平古場、ほら、優勝賞品」
 と知念が持参の泡盛を、赤いバケツを二つとも逆さまにして勝利を誇っている平古場に手渡した。
「へへっ、もーらいっ」
 平古場は、まるでサンタクロースからプレゼントを貰った朝の子供のように泡盛を抱いた。
「あー飲みてえ飲みてえ飲みてえ! 何でだばぁよ、たった一個差あんに!」
「ぎゃーぎゃーうるさいですよ、甲斐君。負けは負けです。いくら悔しくても認めなさいな。二十歳になって、大人気ない」
「だってよー……」
「裕次郎。かしまさい」
「……分かった」
 その代わりに、甲斐は新たな缶のプルを開けて、一気に飲み干した。
「でもよ裕次郎。そんなに飲みたいんばぁ?」
「当たり前さぁ」
 泡盛に向ける甲斐の熱い視線を憂えて、木手が宥めるように頭を撫でる。
「甲斐君、駄々こねない」
「だって、オトーリすれば飲めるじゃねえかよ。みんなで」
「駄目。あれは平古場君の賞品なんですからね。平古場君が飲まなきゃ、せっかく勝負して勝った意味がないでしょう」
「じゃあやっか。オトーリ」
「だから駄目ですよ、甲斐君、そんな駄々こねてちゃ」
「永四郎。今言ったの、わん。平古場凛」
 木手は全く意に介していない。そして隣にある空間に話しかけ、時にはビールを勧めたりした。しかし空間は何も言わず座っているだけだ。木手は虚空に対して講義を始め、同意を求めたり、沈黙の後に突然頷いたりを繰り返す。
「あにひゃー、酔ってない顔してるくせに完全に酔ってやがる」
 てっきりうわばみだと思っていた。精神年齢、外見の年齢を考えても、木手は中学生の頃から破格に大人びていたからだ。
 平古場は立ち上がると、
「晴美ぃ、コップまだ残ってるよな?」
「ああ。欲しいなら台所にある。好きなだけ取れ」
「わかっとぉーさぁ」
 そして平古場が台所に消えようとする瞬間、思い出したように首だけを出して早乙女に尋ねた。
「ところで晴美もやるよな、オトーリ」
 早乙女は「うぃっぷ」とげっぷになりきらない音を出して、缶をちゃぶ台に叩きつけた。
「やらない奴なぞこの宴に必要ない」
「あいよ」
 そう言って、平古場は台所の闇に潜った。
 一つの安っぽいアクリルグラスを持って、すぐに戻ってくる。
「やったー席につけぇ! オトーリの始まりやっしー!」
 甲斐の目が一瞬で明るくなり、田仁志が太陽よりも陽気な笑い声を上げた。
 まず、ちゃぶ台を中心として、全員が車座になって胡坐をかいた。そして親となる平古場が酒をグラスに注いだ。グラスを掲げ、口上を述べる。
「この度はわったー五人の成人式を祝って、一言申し上げます。平古場凛、誰よりも誕生日早いから一番早めに酒飲めると思っても意外と我慢してる二十歳! ゴーイング・マイ・ウェイ突き進みすぎて内定したばっかの会社クビになりました! こんなんだからフリーターやってます! 乾杯!」
 甲斐と田仁志が示し合わせて「一気! 一気!」と手を叩いた。豪快にグラスが傾き、中の泡盛がどんどん量を減らしていく。そして全部飲み終わると、なんとも親父臭く息を吐いた。
 そして新たに泡盛を注ぐと、隣にいた知念にグラスを回した。この順番だと左回り、つまり大漁回りになる。
 その知念も勢いよく飲み干した。酒の飲みすぎでユデダコそっくりになった田仁志に比べ、顔に何の変化もない。熱さもない。知念は木手よりも更に多く酒を飲んでいた。その意味では、知念の方がはるかに曲者で、うわばみだ。しかしこれは「恐怖のオトーリ」と他県に揶揄される飲酒の方法なのだ。誰が先に潰れるか。そして潰すか。ある意味ゲームのような要素も持ち合わせている。
 どんどん回っていくと、木手はまだ二杯しか飲んでいないのにもかかわらずちゃぶ台に突っ伏して寝息を立て始めた。しかし勢いのついたオトーリは止まらない。坂道に置かれたローリングストーン。優勝賞品はとっくに飲み干されて、次から次へと泡盛が追加されていく。ときどき最後までもたないからといって、ビールがグラスに注がれ始めた。酒の酔いが回っているのか、時間はひどく短く感じる。いつの間にかビールの箱が一箱空き、二箱空く。それでも木手を除くほぼ全員はなかなか潰れる気配を見せない。
 しかし百分後、ついに田仁志が潰れた。そのさらに二十分後、甲斐が潰れて木手が復活した。木手が復活してすぐ、親であるはずの平古場が潰れた。これで三人となったままオトーリは続いていく。
 知念は酒を飲む量としては早乙女と肩を並べている。昔から親に酒を飲まされていたこともあり、両親ともにかなり「飲める方」なので、遺伝と環境の影響で酒には強い。
 平古場が再び目を覚ましたとき、知念はやっとこの「オトーリは恐怖とされている」という言葉の意味が分かった。今までこの島にいたのに、親のオトーリに付き合わされていたのに気付かなかったのか、と思う。
 車座になって飲む限り、酒宴は永遠に続く。それは、自分の尻尾をくわえてぐるぐる回る蛇を夢に見て発見されたランドルト環のように、泡盛とグラスは回り続けるのだ。この永遠の酒席から逃れるには一度潰れるしかない。が、潰れたとしてもいつかは誰かが復活して、途切れた円環は再び繋がれるのだ。明日の二日酔いを覚悟する前に、今起こったとしても不思議ではない急性アルコール中毒の心配をせねばなるまい。現に田仁志は仰向けに寝転がり、大きな腹はいっぱしの小山を連想させる。甲斐は田仁志に背を向けて横になり、木手はいつの間にか机に突っ伏していた。
 しかし、ここまで飲めばもうどれだけ飲んでも同じだと、知念は思う。毒を食らわば皿まで、酒を飲むなら潰れるまで(今作った)だ。
 復活したばかりの平古場は半ばヤケクソになってグラスをあおった。今平古場に渡っている酒は、早乙女秘蔵のかなり純度の高い泡盛だった。さっきまで潰れていたのに大丈夫だろうかと心配する矢先、何を掴もうとしているのかも覚束ない手で泡盛の瓶を掴み、どぼどぼと注ぎ込んだ。西を東と間違えるぐらいに手元が狂っている。グラスを持つ手を液体が濡らしている。溢れたのを見かねて、知念は平古場の手から酒瓶を奪い取った。
「平古場、大丈夫か?」
「ゲ……ゲド戦記……」
 と、ろれつの回らない意味不明の言葉を残し、平古場はまた机に突っ伏してしまった。
 これで、残るは知念と早乙女の二人だけとなった。しかし、二人だけではオトーリも楽しさが半減するというものだ。
「どうする、監と……く?」
 早乙女まで、目を離していた瞬間に眠ってしまった。

 やはり、オトーリは恐怖の酒席だと思う。生きて帰る者のいない宴だ。
 時刻は、午後十一時を十分ほど過ぎている。
 しかし酒を飲んで眠りこける同級生(と大人一名)の無邪気な寝顔を見ていると、オトーリもそんなに悪くないと知念は思う。

  *

 全員が眠ってしまっては酒席を続ける意味がない。知念はそう思って、少しだけ片づけをして、電気を消して、全員に薄い夏掛けをかけてから、壁を背にする。まぶたを下ろすと、意識が闇に飲み込まれた。睡魔は黒くて形がないくせに、重さがあることを暗に知る。
 そして夢さえ見ずに、突然目が覚めた。空は紺碧で、星の光が薄くなる、朝まだきの頃である。眠る前と眠った後の記憶がすっぽりと欠落している。まだまぶたは重い。
 知念は頭をかきながら起き上がると、少し肌寒さを感じた。いや、むしろ冷えた夜気に起こされたと言った方が正しい。部屋の中まで寒い証拠に、甲斐は寝相の関係で田仁志に寄り添って眠っている。起きたらすごいびっくりした声を上げるんだろうな、と思ったら口角が持ち上がった。木手は一寸も動かずに、知念が眠る前とそのまま同じ姿勢でちゃぶ台に突っ伏し眠りこけていた。あれで腰や背中が痛くなっても知らない。早乙女はいびきを立てて、仰向けで天井に向かって突き出た腹を上下させている。
 しかしなぜこんなに寒いのだろう。知念は周囲に視線を巡らせた。
 その答はすぐに分かった。ガラス戸が空いていた。誰かが縁側に座って、星を眺めていた。
 誰なのかについては全く考えが及ばなかった。
 絵画が立て掛けられているのかと見紛うほど、その光景は静止していた。
 五年前と変わらない金色の長い髪。夜風に揺られてときおりさらさらとなびいているのは、その光景が絵画との見間違いを防ぐためだ――そう説明されたら一も二もなく納得してしまうかもしれない。背中を向けられているから顔は見えない。でもそれは、ファンタジーに出てくる絶世の美女が顔を出さない理由と同じように思えた。顔を見せたら、世界が戦乱により滅亡する……そう思わせるのに、長い髪は充分な説得力を持っていた。
 誰なんだろう。漠然と、そう思う。
 冬であるのにもかかわらず、黒いタンクトップを着て、穴の開いたジーンズをはいて、シルバーアクセサリーでピンポイントに飾り付けて、縁側に座って、子供のように足をぶらぶらさせて、ただ空を眺めている。星を見ていると見えたのは幻想だ。空にある光の弱い星は、根こそぎ薄明に拭い去られてしまった。
 顔を見たいと思った。
 顔を見ようと思った。
 知念は音を立てずに立ち上がる。するとフライング気味に、その影が振り返った。
 影は、知念の姿を見つけてニカッと笑う。
「なんだ、知念か」
 やっと、その金髪の持ち主が誰かということに考えが及んだ。平古場だ。今まで考えもつかなかった。傾城の美女と間違えていた自分を情けなく思う。
「酔いは? さっき手元が狂うぐらい酔ってたみたいだが」
「醒めた。とっくによ。頭ガンガンすっさぁ」
「だろうな」
 平古場は両手で頭を抱え込む。昨日、あれだけ飲んだのだ。二日酔いにならない人間の方が充分おかしい。とすると、今の知念はおかしい方に入るだろう。
「それはいいんだけどよ。キャベジン飲んだから」
「あったのか?」
「ああ。あそこの棚の中。一人分にしちゃ量があったぜ。一本二本くすねたってばれないさ。やぁーはいるか?」
「いらない」
 頭痛はほとんどない。これは本音だった。するとその答えに驚いたかのように、平古場が額を掴んだ。
「かぁーっ、あれだけ飲んでてそういうか!? やぁーこそ化け物なんじゃねえの?」
「化け物?」
 いきなり化け物呼ばわりされて、傷つくよりも先に思い当たることばかりが頭に浮かんだ。小さい頃から骨ばかり浮いていたから、文化祭の時はいつもお化け屋敷で包帯をぐるぐる巻かれた。顔を真っ青に塗られて、暗いところから懐中電灯つきで出るように指示されたこともある。研修合宿で行われたナイトハイクのときには、自分たちのグループを脅かそうとしていた女性教師を逆に泣かせて慰める羽目になった。平古場が言っていることは多分それかもしれない。
「ぬーしたばぁよ。急に黙り込んで」
「いや、やっぱりわんって化け物っぽいか?」
「はぁ? いや、本気に考えんけー。酒飲む量が、ってことだばぁよ」
「飲む量?」
 平古場は「ああ」と答えて、続けた。
「わったーがいっくら潰れても、やぁー、顔色一つ代えないしよ。うわばみが現れた!なーんて思ったわけよ」
 平古場は手で蛇の口を再現して笑う。
「そうか」
「ああ。本気で化け物に遭ったと思ったばぁよ」
「……そうなのか」
「だーかーらー、本気で考えんけー。こっちがどうすりゃいいかわからなくなるっての」
 上手く言葉を返せなかった。
 しばしの沈黙が夜のように降りた。相も変わらず早乙女と田仁志のいびきが聞こえてくる。平古場の貧乏ゆすりが大きく早くなる。
 すると突然平古場は両手で大袈裟に耳を塞いで、「あーうるさいうるさいうるさいっ!」と首を左右に振った。長い髪が首の動きにワンテンポ遅れて振り回された。
「ああもう、せっかくゆっくり話してぇってのにうるっせぇんだよあのデブども!」
「まあ、かしまさいといえばかしまさいな」
「これだからデブは嫌やっし。いびきはでかいし、大飯ぐらいだし、腋毛も無頓着だし。晴美なんてキーマーだぜ、キーマー」
「そこまで言うか」
「言うね。後で文句の一つでも言ってやる。いびき、しにかしまさいよ。静かな場所行って話してぇ。あ、そうだ知念、軽トラ運転してたよな?」
「これでもな」
「そっか。ならよ、」
 平古場は髪に指を埋めて、ばりばりと掻いた。跳ぶように縁側から立ち上がり、両手の指を組んで、天に届くほど伸ばし、弛緩させる。
 そして平古場は、知念を、ひた、と見つめる。そして知念も、その真っ直ぐな視線に絡めとられて、視線を目の前から見据えた。
 一陣の風が平古場の金髪をもてあそんで、空の何処かに去っていく。
 沈黙。世界の凍結が、このまま永遠に続くんじゃないかと思う。
 何か無茶なことを言い出すんじゃないかとばかり思う。いや、平古場のことだから無茶なことしか言い出さないだろう。とすれば、その要求は何なのか。考えれば考えるほど、悪い考えしか思い浮かばない。自分と平古場以外が全員眠っている今、「油性ペン探すぞ」と言い出さないとも限らない。実際、小学校のときも中学校のときも、高校に上がってからだって、修学旅行の夜は水性マジックペンを持参していた平古場だ。そうすれば、額に肉の字でも書かれた木手はどれだけ憤慨するのだろう。
 全国大会に出場した後に行った肉々苑では、甲斐が肉の乗ったままの網をひっくり返して額に焼肉が落ち、火傷ゆえに他校合同焼肉大会で脱落した。負けを嫌う木手はその敗退を今でも引き摺っているだろう。額に文字であろうが本物であろうが肉があれば、その時の怒りが再現されるに違いない。
 焼肉大会の後にゴーヤーの刑を受けた甲斐はぼやいていた。最低でも昼食がゴーヤー料理に変わり、自宅にまで手を回されてゴーヤーばかりが食卓に並べられたそうだ。平古場と甲斐が絶対拒否するほど知念はゴーヤーを嫌ってはいないが、食傷気味になればそのまま嫌いになることは明白なる事実だ。
 その原因を作り出そうとしている平古場を止める術は知念にはない。
 ずっと時が止まるんじゃないかと危惧して、油性ペンを探し出す覚悟を決めて拳を握りこんだ瞬間、不意に平古場が口を開いた。
「海、連れてけ」
 ……拍子抜けした。

 *

 薄明が空を染め上げる時間帯。細く雲がたなびく空の下、軽トラは振動を続けている。景色は前から後ろへ流れていって、時間の流れと共に水平線の色を変幻させている。
 助手席に座った平古場は頭痛がまだ引いていないらしく安全運転を要求したが、道は悪条件の宝庫である。アスファルトも敷かれていなければ草も刈られていない。その中で振動を無にして走行するというのはそもそも無茶な話だった。
「ならやぁーが運転すればいいさぁ。自練通ったの同じとぅくるだったろ」
「わん、それ以来車に触ってないんやし。おとうが『運転したいなら自分で買え!』だってよ。一年も経ちゃ忘れちまう。鳥頭だ、笑え、大いに笑え」
「笑ってやりたいところだが、やぁーにはトサカも翼もあらん」
「揚げ足取らんけー」
「やぁーは足を上げてない」
「屁理屈言うな。永四郎みたいやっしー」
「別にそれでも構わないさ」
 些末な雑談をしていても、車は浜辺に向けて、残りの距離を縮めつつある。途中で早起きの老人が三人揃ってゆんたくをしているのを見たし、時速10メートルぐらいで歩行する老婆の姿もあった。こんな早い時間に起きていられるのは老人だけなのかと疑問に思う。そうすると、今起きている自分たちは二十歳を通り越して、宴の夜を経た後に急激に齢を重ねたのではあるまいか。まだ老いたくはない。
 景色と頭の中の地図を照合する。海に着くにはあと五分も必要としない。
 そのとき脈絡もなく唐突に、平古場が尋ねた。
「あのよ。やぁー、どう過ごしてるよ」
「……どうって言われてもな」
 紅型家業に縛られて、何もできていないしやりたいこともない。
 そう答えたら、平古場は「じゅんにか!? ゆくしじゃあらんの?」と身を乗り出してきた。
「ああ。一度は衰退しかけた紅型を続けるには、長男が家を継がなきゃならないらしい」
「らしいって何だよ。やりたくないならやらなきゃいいじゃん」
「それは平古場だからこそできる方法だな。わんには紅型しか道がないわけさ」
「ってか、夢……諦めたのかよ」
「そうでもしなきゃ、飯にはありつけないさ。夢だけで食っていけるほど、家のしきたりは浅くない」
 実際、知念は紅型の三大宗家の、分家とはいえ末裔だ。琉球政府の庇護からの脱落、沖縄戦での徹底的な破壊などの文化迫害は紅型にまで及んだ。そして知念家では、父が家業を継がず後継者がいないことで、長男の寛が仕方なく家を継ぐ羽目になった。
 知念だって、卒業文集に「紅型職人」と書いた憶えはない。書いたのは、三線奏者、バンドのボーカルなど、外見に似合わぬハイカラな音楽関係職ばかりだった。
「中学の卒業文集ではバンドのボーカルってあったな」
「今じゃ叶わぬ夢さ」
「それじゃあわんがやぁーの夢取っちまったようなもんじゃねえかよ」
「組んでるのか?」
「ああ。アデヤミってバンド。艶やかな海って書くんばぁよ」
 ヴィジュアル系で、インディーズ。メンバーは本人含めて四人。平古場はRINという名前で、ベースかキーボードをその日の気分で弾いている。語り口からして、売れ行きはあまりよろしくないようだ。それでも熱烈なファン数人からアクセサリーや花束を貰ったり、チョコレートの山を送られたり、本島のアパートまで尾行されたり、誕生日に全身をリボンでぐるぐる巻きにした女の子が家の玄関に立って「私をあげる」とどこぞの萌え漫画のシチュエーションを地でされたり、封筒にカミソリや画鋲が入れられていたりしたこともザラらしい。最後の二つには、木手が言っていた「恋愛とは、男性にとっては人生の挿話で、女性にとっては人生そのものなんですよ」という論を思い出した。しかし、ちょっとやりすぎな人もいるものだと思う。
 正直初耳だった。どうして言わなかった、言えばライブ見に行ってやったのに。そう呟くと、本人曰く、「わんしか活動していない」そうだ。ルックスを武器にして小遣い稼ぎにバンドを組んだところ、やっぱり上手くいかなくてメンバーが次第に離れていき、今は解散同然の状態である。しかし、「復活しないと死んでやる」「復活したら殺してやる」という過激極まる血判状が送られてきたことも一度や二度ではないらしい。
「知念も入るか? Hiroがいい? それともそのまんまでChine?」
 もし入ったところで、そんな「浮ついたもの」をしていればおじいから叱責を受けて解散させられるに違いない。それに平古場の体験談から察するに、少し恐怖だ。入ってはみたいが、上辺ばかりの理由を並べ立てて丁重に断った。平古場は世にもつまらなさそうな表情で「ふーん」とだけ言った。
 開け放していた窓から流れ込む空気に、潮の匂いが飽和せんばかりに満ち満ちていた。
 角を曲がって、防波堤の真横に車を停める。ドアを開けて車から降りる。アスファルトの上には防波堤越しであろうと砂が撒かれており、下駄で踏むと、からん、じゃり、と音がした。対する平古場はスニーカーであり、砂とアスファルトが擦れる音しかしない。平古場のような軽装がよかったかもしれない。甚平は夜明け前には少し寒い。
 平古場の後に続いて防波堤を乗り越える。
 天辺に立つと、海があった。視界のど真ん中に水平線が横たわっている。地球に沿ってかすかに歪む水平線は、視界を真一文字に切り裂いて左右に伸びている。雲が薄くたなびき、水平線から上の空はすっかり白んでいる。細波が空気を響かし、風が芳香を運んでいる。
 海を眺めていると、五年前の辛い記憶までよみがえってきた。早乙女のスパルタ特訓には苦い思い出しか残っていない。
 左手に見える小島にレギュラーだけを残して、一週間のサバイバル合宿をさせられた。水が足らなくて、何人も脱水症状を起こした。電波の悪いトランシーバーから返された早乙女の言葉は「それぐらい自分らで何とかしろ」だった。とても教師のやることだとは思えない。
 海に一番長く潜っていられた奴がレギュラーだというのにも参った。不知火は頑張りすぎて、岩にしがみついたまま気絶していた。しかしそれでレギュラーの座を勝ち取ったのは凄いことだと思う。早乙女は気絶してまで潜っていた不知火を「根性のあるやつ」として大いに褒めそやした。同時に、非レギュラーと、レギュラーに入れた中で一番早くに水から顔を上げた田仁志を「根性なし」と罵った。負けん気の強い平古場は田仁志を庇って早乙女にたてついたところ、背中に竹刀の青あざを作って帰ってきた。それでも平古場はけらけら笑って、大したことない、と笑っていた。今ではそのあざは消えてはいる。それでも知念は、平古場の背中を見るたびにその青あざの幻をときどき見ることがある。
 多分、それらの苦い想い出が、部の結束力と個人の忍耐力を育て上げたのだろう。
 それでも、海自体を嫌いになったわけじゃない。
 海は心を洗う。見るたびにそう思う。今までの悩みがとても矮小なものに見えてきて、海に比べれば何でもないことのように思えてくる。海が巨大な水溜りだということも忘れてしまう。流した涙も、巡り巡って海の一部になるのだろう。
 知念は防波堤から一段ずつ下がって、砂に下駄を落とした。手で掬えば指の間から零れ落ちるのに、踏めば大地と同じように固い。渚に向かって歩むと、剥き出しのふくらはぎに砂が散った。平古場も無言で横に立つ。
 波打ち際までの道なき道には、夏の残骸が風葬されていた。アイスバーの棒、日焼け止めの空ボトル、誰かが失くして中身を抜き取られた財布、どこかの団体がバーベキューをして燃え残った炭、砂が詰められたペットボトルに、骨だけになった傘。そして半分ぐらい中身の残ったサンオイルのボトル。サンオイルを使う馬鹿観光客がたまに診療所に運び込まれる。
 そして、花火の死骸。
 このピンクの棒が、手首ぐらいの太さの円筒が、針金の先に残った燃え滓が、色とりどりの炎に彩られていたかと思うと虚しさばかりが募る。昔これで遊んだというのに、残るものはあまりにもあっけない。風化もされず、砂にも還らず、花火の残骸は片付けられない限り永遠に屍を晒し続けるだろう。
 後ろを歩いていた平古場が突然、「花火か……」と呟いた。
「花火が? ぬーした」
「ああ。やったことねぇなって、思い出してさ」
 平古場は花火の残骸の一本に、視線を注いでいた。
 思い出せば、このメンバーで花火をしたこともなかった。昼間に散々会っていたから、夜中まで会う必要性も感じなかった。それに中学生の頃は財政的な問題があり、高校生になったらそれぞれの都合があった。全員が幼馴染だというのに、花火だけは一度もしたことがなかった。いや、すること自体を考えていなかった。
「やりたかったな。花火」
「またの機会に用意すればいい」
「用意しても、永四郎は参加しないさ。今を逃したら、後はお盆と正月だけやし。やんどぉー、永四郎はいつも論文作りにやっきになってるから。今日だって、無理矢理参加させたようなもんだったしよ」
「……永四郎と花火、やりたいのか?」
「いや、揃ってやりたい。それだけさ」
 それだけ言い捨てて、平古場は花火を海に棄てた。木の棒は水上に浮き、細波に押されて、どこかへ消えていった。
 この花火のように、何も考えないままどこかへ行けるかな。不意にそう思う。一つのことだけを考えているというのは他を考えていないことと一緒で、それは何も考えていないことと一緒だ。それと同じで、一つのことだけを成就させる為だけに走っていったら、いつかはどこかへ行けるのかな、と思う。何処まで走っていけるのだろう。地図も見ずに走って行けば、いつかは目的の場所にたどり着けるのだろうか。
 紅型を棄てて、音楽の道に進みたい。他の何も考えないで、ただ音楽だけを考えていたい。
 幼いころからおばあに聴いていた、三線を弾きながら歌う「てぃんさぐぬ花」。親の教えを破るかもしれないけれど、三線のプロ奏者になって、幼い子供達に聴かせてあげたい。
「あのさ。海って、わんが一番好きな場所なんだばぁよ」
 平古場が長い沈黙の後に、呟くように言った。
「海って、船があれば内陸部じゃなきゃどこにでも行けるだろ? それと同じでさ。どんなに荒れ狂っていてもいつかはどこかに行けるんだ、行こうと思えば行けるんだ、って思うんだばぁよ」
「どこにでも?」
「そう。南にはフィリピンがあるし、北には本土があるだろ。そして西には中国があるし」
「東にはアメリカ……か?」
「正解。百点満点あげるさぁ」
 何が基準で百点なのかは、知念には預かり知らぬところだ。
 平古場は明け染める暁天を指差した。
「わんはアメリカ行きたい。自由の国、アメリカによ」
「行ってどうする気か」
「流浪のギター弾き。時々歌」
 羽のように軽い言い草。しかし平古場が軽く言うときは、本気で考えているのを、知念はよく知っている。
「ずっと思ってた。こんな狭い島国にいるよりも、ずっとずっと広いアメリカで、自分だけの力で生きてみたい、って」
「自分の力だけで……」
「そ。まぁわんの場合、上からの圧力が嫌いってのもあるけどさ。ほら、わんって晴美みたいなやつには楯突いちまうからよ。そのせいで高校のとき内定した会社、一ヶ月でクビになったわけだけど」
「確かにな。やぁーが一つところにじっとしているところなんて考えられないさ」
「ぬーよ、ひっでぇ言い草。でもそうだろ?」
 平古場は、誰にも負けないぐらいの笑顔を浮かべた。夢だけへ走っている人の笑顔は、こんなにも素晴らしいものなのだろうか。
 夢に向かって走る。それはどんな代償を払っても、やるべきことなのではないか。挫折も楽しんで、それでも走って行ければ、いつかは夢のありかにたどり着けるのだろうか。
 不意に、おばあの歌った「てぃんさぐぬ花」の最後の節がよみがえってくる。

 なしば何事ん
 なゆる事やしが
 なさぬ故からど
 ならぬ定み

 成せば何ごとも成る事だが、成さぬから成らないのだ。
 昔から語られ続けた教訓。どこにでもある、普遍的な言葉。それでも、ああ、そうだと知念は思う。
 夢は追いかければ、成る。

 唄を歌いたい。
 やはり自分は、夢を追いかけていたい。家のしきたり、紅型という鎖を切って、唄に生きたい。
 太陽が昇り始める。目覚めても壊れない夢を、見ていたい。

「じゃあ……何か歌うか?」
「ぬーよ突然」
 平古場は怪訝な顔をしたが、「まあいいか、何にする?」と訊き返してきた。
 決心がついた、という言葉は胸の中に仕舞っておくことにする。
「お互いに知っている唄がいいさ。知念、決めてぃ」
「ああ。じゃあ……」
 てぃんさぐぬ花。
 平古場は数瞬考えて、「てぃんさぐぬ花か。いいんじゃないの?」と賛成意見を出した。
 知念は一つ頷く。
 頭の中でメロディが流れ始める。昔、おばあが三線を弾きながら歌った歌詞を、自分の口から、紡ぎ始める。
 それに合わせて、平古場も歌い始めた。



 夢を壊す朝がやってくる。
 それでも叶えようと誓った夢は、壊させない。
 夢を掴むための声は、今紡ぐために流れ出したのだから。













 この小説は7777ヒットフリー配布小説です。転載可。コピペして、ご自由に背景をつけてもらっても構いません。しかし文章自体に手を加える行為はお止め下さい。
 転載時には、
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ambrosiaseed/
「エディヌの砂礫」にテキストリンクをお貼り下さい。
 報告はなくても構いませんが、あると管理人が喜びます(笑)。Web拍手からでもBBSからでもメールフォームからでも受け付けいたします。そして喜んで訪問させて頂きます。


TOP > 小説目録 > ユメノアリカ