青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2005年4月(2)>
(522)うんちく 【55】 製鉄の響き その46
(523)うんちく 【56】 製鉄の響き その47
(524)うんちく 【57】 製鉄の響き その48
(525)うんちく 【58】 製鉄の響き その49
(526)うんちく 【59】 製鉄の響き その50
(527)うんちく 【60】 製鉄の響き その51
 
(522)うんちく 【55】 製鉄の響き その46 2005年 4月12日(火)
 【金属と鳥と鹿】

 北海道の西北部、小樽市の近くにある余市(よいち)町でのこと。昭和25年(1950年)の春、地域の人が「丸山」と呼んでいる崖山を崩して土を果樹園に運び出す作業中、突然、土がドドッと崩れだし、山の上方にポッカリと小穴が開いたのだそうです。穴といってもたいへんに小さなもので、子供が腹ばいになってようやく入れるほどのサイズで、中に蛇がいたりしたことから、誰も中に入って調べようとする人がなく放置されたそうです。
 その後、8月に入り、海水浴のシーズンになって、ここに遊びに来ていた大塚以和雄氏(当時、札幌南高等学校在学)が偶然この小穴を見つけ、好奇心から内部にもぐりこんだところ、貝殻と土器片を発見。
 大塚氏は郷土研究部に在籍していたため、この件を顧問の先生に伝え、これがきっかけとなって翌、昭和26年に正式な調査がおこなわれ、調査を開始すると、洞窟の内部に線画が描かれており、「角のある人間だ!」「翼がある!」など、調査団から次々と驚きの声が上がったそうです。こうして、今から 2000〜1500年前の遺跡「フゴッペ洞窟」が現代に目を覚ますことになったのだそうです。


 この時代は、縄文時代のすぐ後であり、本州や九州・四国地方では弥生文化に入っていましたが、寒さの厳しい北海道では、縄文時代と同じように、稲作ではなく、狩猟・漁労・植物採集などで暮らしていたものの、金属器を使った形跡があることから、縄文時代とは違うという意味で「続(ぞく)縄文時代」と名づけられた時代に、この遺跡は属しているそうです。

 昭和26年から3年間にわたる本格調査の結果、壁面に200を超す謎の彫刻群が確認されました。
 洞窟は爪で容易に傷がつくほどのやわらかい石質(凝灰岩)でできており、風化が激しく、彫刻群の崩落の危険もあるため、1972年、日本最初のカプセル保存方式(ショー・ウインドウのような形式での保存展示)が実施され、一般公開されるようになっています。

 こうした崩壊しやすい石壁が2000年近く守られてきたのは、入口をふさいだ丸山の土と内部の堆積層だといわれています。たまたま、その入口の土が崩れたため、存在が知られることになったのですが、世界で有名な絵画洞窟、スペインのアルタミア洞窟壁画も12歳の少女によって、フランスのラスコー洞窟も、 14歳の少年によって発見されており、フゴッペ洞窟も同様に少年によって発見されているのは偶然とはいえ不思議なことだといわれています。

 このフゴッペ洞窟の近くの小樽市には、慶応2年(1866年)、石材をとっていた石工によって発見された手宮洞窟もあります。
 ここにも彫刻線画があり、内容はどちらも共通する部分が多く、時代も今からおよそ1600年前の続縄文時代中頃〜後半の時代ということで同期していることから、共通な文化体系のもとに生まれたものではないかとみられています。
 http://www.mmjp.or.jp/OTARU/kyoyou/jtedou.html

 手宮洞窟では、刃の部分の傷んだ石斧が出上していることから、彫刻はこのような石斧などによって刻んだ後、磨いて仕上げられたのではないかと推定されています。

 この種の洞窟の線画は、日本では今のところ、フゴッペ洞窟と手宮洞窟の2例しか発見されておらず、たいへん珍しいものだといわれています。


 ところで、フゴッペ洞窟の絵画ですが、北と南の岩壁に線画が集中しており、左右に広がる羽を背中につけた人物、頭に2本の角のような突起をつけた人物など、シャーマンと思われる人物像が線画の大半をしめており、こうしたところから洞窟の内部は、神聖な祭祀空間であったと考えられています。

 舟や魚や四足動物(角つき)も少数見られますが、やはり画題の主軸は多数の人物像であり、特異な雰囲気をかもしだしています。

 日本には2例しかないこの岩壁画は、日本海を囲むロシア・中国・朝鮮半島などにも見られるそうで、こうした地域を覆う広い文化圏があったのではともみられています。

 手宮洞窟の彫刻には、角のある人物が表現され、さらに、手に杖のようなものを持った人や、四角い仮面のようなものをつけた人が描かれ、このほか角のある四足動物も描かれています。
 この動物はシカとみられ、人物の方も鹿角を頭につけているのではと考えられており、同じように鹿角をつけて儀式をおこなうシベリアなど北東アジアのシャーマンとの関連が指摘されています。

 ところで、シカに呪術性を求め、国作りを進めていたとみられる「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」は、弥生時代前期〜古墳時代前期まで600年以上継続された遺跡として知られていますが、「うんちく【53】」で触れたように、ここに多数のシカと一緒に、シャーマンと思われる人物像が土器などに描かれています。

 興味深いのはその腕で、大半が万歳の形で、両腕を振り上げているのですが、この腕は直線的な描写となってはおらず、鳥羽をつけたような方形の表現になっています。シカの群れの中に鳥装のシャーマンが存在しているといった、非常に不思議な図式となっているのです。


 この「唐古・鍵遺跡」の分村とされる「清水風(しみずかぜ)遺跡」から出土した土器絵画の人物像になると、左右の腕に明瞭な翼と思われる大きな袖がつき、両手を万歳の形でやはり上にあげています。

 奈良県の坪井遺跡の土器絵画は、右上半身しか残されていませんが、同じように振り上げた腕の袖には、かなり写実的な鳥の羽のデザインが見られます。
 http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/yayoi/index3.html


 また、頭部に鳥の羽が描かれている例として、大阪府の「星ヶ丘西遺跡」の人物線画が知られていますが、鳥の羽を思わせるものを頭に付けた例も現れ、他に鳥装シャーマンと思われる線画は、鳥取県の稲吉遺跡、岡山県の新庄尾上遺跡などの弥生土器にも見られるそうです。

 弥生時代には、鳥の羽のような袖をたらしたシャーマンが腕を振り上げ、鳥の羽ばたきのような「袖振りの儀式」をおこなっていたことを土器絵画が示しているとされ、この鳥装は、北方民族のシャーマンを思わせるスタイルだともいわれています。

 ところで、紀元前400年を上限とする中国の春秋末から戦国初期にかけての墓から、頭に2本の鹿角をつけた鶴の姿をした青銅製の霊鳥が出土しているそうです。

 鳥とシカが合体したものとはたいへん興味深い遺物ですが、こうした鳥とシカに比重を置いた呪術は弥生時代の特徴的なものともいわれ、弥生時代は金属器の文化でもあるため、「金属」と「鳥」と「シカ」の3者は、不思議なほど、密接なつながりをもっているとされています。

 なお、これらの3要素はヒッタイトに無関係とはいえない要素であるという点も、ここで付け加えておきます。

 北方民族のシャーマンが鍛冶、特に鉄にかかわりのあることについては、すでに何度か触れていますが、鳥と鍛冶師との深いつながりはアジア各地の神話伝承に広く見られるといいます。


 「うんちく【51】」で触れたように、鉄の神様である「金屋子神」は白鷺に乗ってきたという「鉄山秘書(1784年頃成立)」の伝承。さらに鍛冶師と縁の深い「八幡神」も、この神自身が「鍛冶の翁」として現れ、金色の鷹や鳩となるなどの伝承があり、このように日本でも、鍛冶と鳥の深いかかわりがみられるそうです。
 http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/hatiman.htm


 すでにこちらの連載で何度か触れていますが、「鍛冶」とは、古代において神と交わる神聖なものとされ、金属器を鋳造することが古代のシャーマンの重要な仕事であったともいわれています。金属鋳造において重要なのが火の制御であり、それは風によってなされるため、火を制御する「風の象徴」として「鳥のしぐさ」、すなわち羽ばたきを真似ることが鍛冶シャーマンの呪術としてあったのではないかと推定されています。

 羽のような腕を振り上げた鳥装シャーマンの線刻画は、このことを示しているのではないかといわれています。

 フゴッペ洞窟の人物画も、腕とは別に翼がつけられ、その翼を振り上げるようなスタイルで描かれており、こうした「有翼シャーマン」のポーズは、弥生土器に描かれた人物と共通したところがあるといわれています。

 しかし、どうしてここにシカが加わってくるのでしょうか。

 フゴッペ洞窟の前庭の広場は、祭祀空間であったとみられていますが、この空間で鹿の肩甲骨を使った占いの跡が認められるそうです。土器に納められた一対の鹿の肩甲骨(未使用)も出土しており、これらシカ骨が占いに使われたものとみられています。

 また、フゴッペ洞窟の入口から12mほど離れた北東部の砂層に、掘り込まれた墓が見つかっています。紀元後600年頃のものとみられていますが、頭を北東に向けて埋葬されていたそうで、頭の両側には原石が置かれ、同時に鉄製の太刀が2本、刀子(とうす・一般に長さ30cm以下の短刀のこと)1本、鉄のヤジリ2本が副葬されていたそうで、埋葬された人物は鉄器文化の人だということがわかっています。

 やはり、フゴッペ洞窟でも「鉄と鳥とシカ」が関連してくるのです。

 金属精錬と鳥のかかわりは、「火」と「風」の関係から理解できますが、金属器とシカとのかかわりは、いったい、どこに求めることができるのでしょう。


 (つづく)
 
(523)うんちく 【56】 製鉄の響き その47 2005年 4月13日(水)
 【スキタイとの関係】
  
 ロシア連邦の南シベリア、アルタイ地方の標高1600mの高所にはたいへん有名な墳墓があります。パジリク(Pazyrik)河岸にあることから、ここは「パジリク古墳」と呼ばれており、大型円墳5基と小型円墳9基からなる墳墓群として知られています。

 1929年にロシアの考古学者M.P.グリャズノフとS.I.ルデンコによって、1947〜49年には再びルデンコによって大型円墳5基を含む8基の墳墓が発掘調査され、スキタイ由来の驚くべき遺物が多数発見されました。

 スキタイについては「うんちく【32】」でも触れていますが、ヒッタイト滅亡後、ヒッタイトの文化をもっとも濃厚に継承したのがスキタイとされ、スキタイは、中央アジアにその後展開する、遊牧騎馬民族国家のルーツとして重要視される存在となっています。
 こうした遊牧民の特徴を表す墳墓は「クルガン」と称され、アジアだけではなく、ヨーロッパの文化を考える上でも貴重な資料となっています。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3

 パジリク古墳は、このスキタイの有力者のものとみられ、高地寒冷な気候のために、流れ込んだ雨水が凍結し、その後、永久凍土の中に埋没したことにより、棺内の遺体をはじめ、他の条件では腐敗しやすい馬の遺体、そして、フェルト・織物・皮革・木などの有機物を材料とする遺物が良好に保存されていたそうです。この中には、古代ペルシアじゅうたんの祖形とみられる、世界最古のじゅうたんも見つかるなど、専門家の関心を集めています。
 http://www.icc-t.co.jp/icc10.htm

 パジリクの墳墓の年代は、平均すると紀元前250年頃と推定されているそうですが、ここから出土したたくさんの遺物が、スキタイのことを記した古代ギリシアのヘロドトスの著書「歴史」の記述の正確さを裏付けているそうです。

 ところで、パジリク古墳の被葬者ですが、遺体は、脳・内臓・筋肉を除去し、ミイラとして納められていたそうです。
 東枕に置かれ、男女一組の合葬とするのを原則としていたそうです。
 男性は170cm以上、女性は150cm以上と背が高く、毛髪は栗色やブロンドであり、顔の彫りが深く“鼻が高く(後の連載で重要な要素となってきます)”、混血が考えられるものの、人類学の分類ではコーカソイド(ヨーロッパ人種)に属するのではないかとされています。

 ここで注目されているのが、2号墳で発見された男性の遺体(1体)で、その男性(紀元前400年頃とみられる)の両手・胸背部・右足には、四足獣・魚などを表現した黒色の刺青がみられ、これは、古代人の刺青の風習を考える上での貴重な資料ともなっています。


 さて、パジリク古墳をはじめとしたスキタイの王族墳墓から、副葬品として、大量の金製品が出土しているそうです。その多くが「ウクライナ歴史宝物博物館」で展示されているそうですが、まばゆいばかりの金製品の洪水だそうで、金冠から耳飾り、首飾り、胸飾り、ベルト金具や剣や杯、さらに服にも金の飾り板を縫いつけているという、大変に豪華絢爛なものだといいます。
 この金製品はスキタイが作ったわけではなく、当時、世界帝国として君臨していたスキタイの莫大な財力とひきかえに、金製品は黒海沿岸のギリシア人植民都市で生産されていたといわれています。こうしたところからもわかるように、スキタイとギリシアは、非常に深い関係にあったといわれています。

 ギリシアからは金製品などが、スキタイからは穀物や家畜や奴隷が交換されていたといわれ、ギリシアの職人は、スキタイの王侯貴族の趣味に合わせて、スキタイの特徴となっている鹿などの動物デザインをそこに施しましたが、作り手たちのギリシア神話も少々混入されたといわれています。

 東西の交易路として知られるシルクロードの一つ「草原の道」は、すでにスキタイの時代にできていたとされ、ギリシア文化も、こうしたスキタイの交易路に沿って北東アジアに伝播するところとなったといわれています。
 「うんちく【52】」で触れたアイヌと古代ギリシア神話にみられる「クマと北斗七星」の類縁関係は、このスキタイの運んだギリシア文化の影響ではないかと考えられているそうです。

 さて、このスキタイの文化を濃厚に引き継いでいるといわれているのが、新羅(しらぎ・しんら・シルラ)です。
 韓国の慶州(キョンジュ)市は、古代の新羅王国の都である金城(クムソン)があった場所として有名だそうですが、ここから、スキタイ文化を思わせる数々の遺物が出土しています。

 慶州は、町全体が博物館といわれるほど重要、かつ膨大な遺跡が出土しており、「慶州歴史地域」として、世界遺産登録もされるほどだそうです。
 http://www.tabijin.com/kyungju-ge-info.html 


 中でも重要なのが『金冠』で、王墓と推定される古墳から多数発見されています。


 慶州の近くにある釜山の福泉洞(ポクチョンドン)古墳からも同様の金冠が発見され、新羅の王侯貴族の権威の象徴として、この王冠が用いられたのではないかとみられています。

 特徴となっているのは、鹿角と樹木を合体させたような独特なデザインで、中央に「出」の字型で縦に伸びた樹木のシンボル、そして、左右の耳の上に伸びた鹿角のような王冠の形態が特徴的なものだといわれています。
 http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2002/kankoku/html/01.html 

 この、鹿角と木を形相化したデザインが新羅の金冠の特徴となっていますが、鹿と木を崇拝するスキタイの墳墓からも類似の銀製冠が出ているそうです。
 すでに何度か触れたようにシベリア地方のシャーマン(女性が多い)は、実際に鹿の角を挿した冠を利用することから、新羅の金冠はスキタイに由来する北方民族文化と密接な関連を持っており、かつ、シャーマニズム的性格を、強く反映しているものと推定されています。さらに新羅の金冠には、鳥の飾りが付加することもあるそうです。
 新羅は有名な鉄器文化の国であり、またしても、ここに「金属・鳥・鹿」の流れがみられるのは非常に興味深い点だといわれています。


 ところで、奈良県の「藤ノ木古墳」から出土した奇妙な冠が注目されています。
 http://www.town.ikaruga.nara.jp/ikaho/kouza/f422.html

 このような立飾りの冠はほとんど日本に出土例がなく、新羅の金冠に類似した形から、大陸に伝播するスキタイ文化との関係がうかがわれるとされています。

 そのスキタイ、彼らの文化の主軸となったのが「馬」であり、スキタイの生んだ馬具は、周辺の遊牧民に大きな影響を与えたといわれています。
 
 福泉洞古墳群から、多数の鉄器と馬具が出土していますが、その馬具の中で注目されているのが、鉄製の「馬冑(ばちゅう・うまかぶと)」と呼ばれるものです。
 その名のとおり、これは戦闘用の馬の頭部を守る冑(かぶと)ですが、朝鮮半島でもあまり例がなく、10数例見つかっているだけとのことです。

 この遺物が、日本でも2例見つかっているそうです。


 一つは和歌山県の「大谷古墳(5世紀頃)」で昭和33年(1958年)に発見(国重要指定文化財)されました。
 http://www.kiifudoki.wakayama-c.ed.jp/zyosetuten-kofun.htm
 
 この古墳に埋葬されていた豪族は、朝鮮半島を経由したスキタイ文化につながる習俗を持っていたと考えられているそうです。
 大谷古墳を含めた紀ノ川北岸一帯の豪族たちは、積極的に大陸と関わっていた形跡が認められ、当時の和歌山の地は、外に開かれた社会・政治体制であり、いろいろな人や物が往来する活動的な地域であったと推定されています。
 http://www.city.wakayama.wakayama.jp/menu_4/bunka/otani.htm


 もう一点の馬冑は、埼玉県「将軍山(しょうぐんやま)古墳」で見つかっています。
 http://www.j-muse.jp/history/str04/page2.htm

 これら鉄製の馬冑は、国産品でなく朝鮮半島からの渡来品と考えられており、日本では、戦闘用でなく、もっぱら豪族が乗る馬の権威を示すための道具であったとみられています。

 こうした鉄製馬具は、ヒッタイトの鉄文化を引き継いだスキタイに起源を持つもので、スキタイの影響の濃い新羅を経由した、スキタイ文化の日本への伝播の可能性が注目されています。
 鉄製馬冑の出た和歌山県に隣接する奈良県の「藤ノ木古墳」で、スキタイの鹿と樹木信仰を象徴化した新羅金冠と類似の冠が見つかったのは、大陸との交流の証拠ともみられています。


 さて、スキタイは単一民族国家ではなく、様々な民族の連合国家であったとみられており、全体を統治する王のもとに、群小部族の王が従属していたとみられています。

 こうしたスキタイの政治体制で興味深い記述があります。
 それによると、スキタイ人は巫女である女王によって治められており、女王が死ぬと、さまざまな副葬品を備えた墓に、ただ一人で埋葬されるとあります。こうした墓が1954年、冒頭で述べたパジリク古墳で発見されたそうです。

 スキタイ美術に見られる唯一の神も「女神」だといわれており、この女神に仕えるスキタイの男性は去勢し、女装したといわれています。

 スキタイの女性たちは、かなり活発であったようで、「男性のように戦い、勇敢さにおいて男性に劣ることは決してない」という記述や、「スキタイの娘は戦争で敵を3人殺して初めて結婚することを許された」など、勇ましい表現がみられ、政治的、宗教的にも女性がリーダーシップをとるケースが少なくなかったといわれています。

 この首長たる女性がシャーマンであったというが注目されます。

 新羅の金冠は、そうしたスキタイの首長、女性シャーマンの呪具の形象を受け継いでいるのではないかといわれています。

 ところで、京都府の大宮町にも、先に述べた和歌山県と同名の「大谷古墳」がありますが、ここは古墳時代中期(5世紀)に築かれた全長約32mの前方後円墳であり、古墳の中から、鏡・玉類・鉄剣・鉄斧などとともに、保存状態の良好な熟年の女性の遺体が発見されたそうです。
 http://www.kiis.or.jp/kansaida/omiya/omiya03.html

 古墳から確実に女性とわかる人骨が出土した例は、熊本県や大分県などで発見されているものの、全国的にたいへん珍しく、現在「女王の丘」として整備され、石棺が公開されているそうです。


 力に劣る女性が、屈強の男性を従え、リーダーになるということは男性、そして一般民衆を納得させる大きな「力」が必要だとされています。その「力」とは何なのか。
 それは古代においては神につながる秘術、すなわちシャーマン的な能力ではないかといわれ、「うんちく【53】」で記した奈良県「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」の女性首長も、こうした、突出した能力を背景に、国家統治をおこなったのではないかと考えられています。

 その日本の女性首長の背景にも、鹿の呪術が存在しているのは興味深いとされ、スキタイ、そしてその背後に存在しているとみられるヒッタイトの流れが注目されているそうです。

 金属器と鹿とのかかわりはこうした点から深められていくとのことですが、この続きは明日、触れることといたします。

(つづく)
 
(524)うんちく 【57】 製鉄の響き その48 2005年 4月14日(木)
 【鹿の聖力】


 「播磨国風土記(はりまのくに ふどき)」に不思議な記述があるそうです。それは次のようなものです。


 生ける鹿を捕り臥せて、その腹を割きて、その血に稲種(ま)きき。
 よりて、一夜の間に苗生ふ。すなはち取りて殖ゑつるかも。


 生きた鹿の腹を割いてその中に稲種を入れ、鹿の生き血に触れさせることで、種は、苗を生じさせる生命力を持つという伝承です。


 「風土記」は、奈良時代の和銅6年(713年)、各地の特徴をまとめた地誌を編纂せよとの命令によってまとめられたもので、各国の編纂した風土記はほとんどが散逸してしまったものの、出雲風土記(いずもふどき 島根県)、常陸風土記(ひたちふどき 茨城県)、豊後風土記(ぶんごふどき 大分県)、肥前風土記(ひぜんふどき 佐賀県)と並び、播磨(はりま 兵庫県)の風土記は、現存するほぼ完全な形の5つの風土記の1つとして貴重な資料となっています。

 播磨の場合は、中央から派遣された国司による編集が行われる前の大変古い形を残しているとされ、播磨の古代史を今に伝える貴重な資料といわれています。

 ここに上記のような鹿の呪術の記述が出てくるのだそうです。
 鹿が生命力のシンボルとして扱われるのは、シベリアでも同様で、鹿(トナカイ)の皮をかぶり、頭に鹿角をつけ、動物に仮装したシャーマンが動物の繁殖を願う呪術的な踊りがおこなわれるといいます。

 鹿を「大地の持つ生命力の象徴」ととらえる考え方は、たいへん古い、北方ユーラシア大陸を中心とした観念だといわれています。
 これは「鹿の枝角」に由来するものだといわれています。
 角のある動物は少なくありませんが、鹿がことのほか神聖視されるのは、この「枝角」に理由があるのではと考えられています。


 森の中で鹿に出会った古代人が、鹿を見たとき、頭に樹木の形象を持つ鹿角から、これは樹木の化身、精霊ではないかという観念が育まれ、大地にどっかりと根をおろした樹木は「大地の精」が地上に現れ出たもの、すなわち樹木は「生命を育む大地」そのものであり、その樹木と同じ形の角を頭に乗せ森を闊歩している鹿(トナカイ)は、「生命を育む大地」からの使い、つまり、自然を神とみなしていた古代の世界にあって、鹿は、『樹木』との関係において聖獣の地位を得ていったのではないかとみられています。

 古代人のこうした素朴な観念が、昨日触れた、新羅の「樹木」と「鹿角」を組み合わせた金冠のデザインに表れているのではないかともいわれています。


 播磨の風土記で注目されるのは、鹿の生き血をふりかけたのではなく、鹿の腹の中に稲種を入れたという部分です。


 これは鹿を「大地(母胎)」ととらえ、腹の中に入れられた種を、鹿の聖なる力による出産(芽を出す)をうながす呪術ではなかったかといわれています。

 鹿の発情とはらみの季節が、稲の実入りの季節に一致しており、加えて、鹿の出産期が5月であり、稲種が苗代で発芽する季節ともなっていることから、稲の生命サイクルと鹿の生命のサイクルが同じであるため、稲作を旨とするようになるにつれて、鹿は、ますます生命力を司る「大地の聖なる化身」としての観念が強まっていったものとみられています。
 ちなみに、イノシシの発情期は真冬で、イノシシと稲の生命サイクルは一致しないことが知られています。


 もともとは狩猟採集民が生命を育む「森の精霊」としてとらえられた鹿は、背中に白い米粒を思わせる「鹿の子まだら」の模様を伴っていたこともあって、稲作と関係の深い聖なる大地の神として、弥生人にますます崇拝されるようになっていったものとみられています。

 日本全国にみられる、鹿にまつわる地名伝承の多さは、鹿が地霊とつながった存在との古代人の認識のあらわれだともいわれています。

 鹿スタイルで踊る青森県や岩手県の獅子踊りの目的の一つは「五穀豊穣」ですが、これは、聖なる大地の使者である鹿を通して、大地に「豊穣の祈り」を伝える意義があるのではないかと考えられています。鹿が大地につながった存在であるという古代人の考え方がこの背景にあるとみられ、これはシベリアのシャーマンとも共通するものだといわれています。


 古代人にとって神とは、擬人化された存在ではなく「自然」そのものので、古代人は自然の諸力に神威を感じていたといわれています。
 こうしたアニミズムと呼ばれる信仰形態が背景にあったことにより、鹿は大地につながる存在として神聖化が進んだとみられています。

 ここから古代人は、鹿角や鹿皮に呪力を感じるようになったといわれ、王権が進むと、その土地の頂点に君臨する王は、地霊とつながる鹿、その角でできた杖を権威の象徴として手にするようになったといわれています。

 「うんちく【53】」で触れた、大阪府の亀井遺跡で出土した鹿角の枝分かれの部位で作られた王杖、また、この形象を受け継いだ奈良県茶臼山(ちゃうすやま)古墳の碧玉製玉杖はこのことをよく示しているといわれています。

 ちなみに茶臼山古墳のある地元の高校では、この鹿角形式の玉杖が校章として採用されているそうです。


 古墳時代以降もこうした観念は継続し、念仏踊りで有名な平安時代の空也上人(くうやしょうにん)も、鹿皮を身にまとい、鹿角の杖は亡くなるまで離さなかったと伝えられています。
 http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/doc/story_2_2_1

 室町時代の「融通念仏縁起絵巻」には上端に鹿角を取り付けた、いわゆる「鹿杖(かせづえ)」をつく人が多く描かれていることで知られています。
 「鹿杖」は上部がT字型になるように横木を取り付けた形、また、地面に接する下部が二股にわれたタイプもあるそうですが、実際の鹿の角を上部に取り付けた杖が、特に威力あるものとして用いられていたということです。このように、王権のシンボルとして首長が利用したとみられる「鹿杖」は、後代ではもっぱら宗教者の重要な呪具として利用され続けることになりますが、これは鹿に呪力をおいた観念が、北方系民族のシャーマニズムに由来することと無関係ではないとされています。古代日本の王権の中心にもシャーマニズムがあったことはよく知られています。

 「うんちく【54】」で触れた青森県の寺下遺跡から出土の権威の象徴として用いられたとみられる「鹿角製腰飾り」には、同じような観念があるものとされています。

 こうした鹿の呪力が、占いにも利用されてきたことはよく知られています。

 動物の骨を焼いて、生じたひび割れによって吉凶を占う術は、最初は、その素材として羊の肩甲骨が使われ、それが鹿にかわり、後に、亀の甲羅にかわっていったといわれています。

 日本の縄文時代には、鹿は単なる食料資源であり、あるいは骨角器を利用するための実用動物としてみられていたふしがあり、これについては、「うんちく【52】&【53】」の三内丸山のクマ信仰の部分で触れました。北海道のアイヌも鹿は儀礼に使用せず、鹿の神様そのものも存在しないそうです。

 したがって、上記で述べてきたように、鹿に聖なる力を感じる「古代人」とは、普遍的なものではなく、ある特定の地域に居住していた人々の信仰に基づくもので、占いに使われた「動物骨」の変遷は、信仰を異にする民族の交代によって生じたものだといわれています。

 「鹿の骨」を占いの対象とする呪術は日本では、弥生時代の頃から古墳時代にかけてみられることが多いといわれています。



 現在も新潟県の弥彦山神社に、この神事が残されているそうです。
 http://www.kamnavi.net/it/higasi/yahiko.htm

 ところで、この神社の本来の祭神は西から渡来したとの伝承があるそうです。
 この地方の4〜5世紀はじめの古墳である南赤坂遺跡から出土の土器もサハリンやシベリア系の土器に酷似するといわれており、日本書紀にもそれを肯定するような興味深い以下のような記述があるそうです。


 欽明天皇544年12月、佐渡島の北の御名部の崎に粛慎(しゅくしん)の人有りて、一船舶(ひとふな)に乗りてとどまる。春夏捕魚して食に充つ。その島の人、人にあらずとまうす、また、鬼なりともうして・・・


 「人にあらず」という表現からうかがえる異形の風貌、すなわち、これは身体的特徴を異にする外国人の渡来の記述とされ、6世紀中ごろ、ツングース系民族の粛慎(しゅくしん)人が佐渡に漂着し、その民族のシャーマンの儀礼が、弥彦山神社に残されているのではないかとみる人もいるそうです。


 いずれにせよ、日本列島の日本海沿岸に大陸から北方系の民族が渡ってきていたのは確実視されており、これらの人々が原日本人とどのようなかかわりをもっていたのか非常に興味深いといわれています。

 この北方系民族にみられる固有の動物信仰が、スキタイに代表されるように鹿であり、それまで日本でみられなかった鹿信仰の広がりが、こうした民族の日本への拡散と密接なつながりがあるとみられています。

 フゴッペ洞窟の前庭の祭祀空間から、占いに使われたとみられる鹿の骨が出土していることについては「うんちく【55】」で述べましたが、アイヌの古老によると、この洞窟は、アイヌ以外の民族のものとの言い伝えがあるそうです。

 フゴッペ洞窟(余市町)も、日本海に面した場所に位置しており、この地は、古来、北方系民族の往来のあった場所との伝承もあるということです。
 http://www.yoichi-kankoukyoukai.net/japan/index.html


 このフゴッペ洞窟のすぐ近くに、不思議な遺跡があることが知られています。


 (つづく)
 
(525)うんちく 【58】 製鉄の響き その49 2005年 4月15日(金)
 【ストーンサークル】


 フゴッペ洞窟のある余市町(よいちちょう)と小樽市を結ぶ周辺地区は「環状列石」、いわゆる「ストーンサークル」と呼ばれる不思議な遺構が密集(大小あわせて約80)している地域として知られています。

 フゴッペ洞窟のすぐそばにも、西崎山(標高約70m)の頂上に、縄文時代後期(約3500〜4000年前)につくられたとされる「西崎山ストーンサークル」があるそうで、ストーンサークルは山の頂上にあるため、この地点から眼下にフゴッペ洞窟が見わたせるそうです。

 大小、約100個の自然石が集められ、直径1〜2mの環状に配列された7基のストーンサークルがここから見つかっているそうです。
 どの配石の下からも、直径50cm、深さ70cmほどの穴が見つかり、その穴の中からリン成分が検出されているため、人骨があったことが推定され、丘の上に広がるストーンサークル群は、環状列石墓ではないかとみられています。

 また、ほど遠からぬところにある小樽市の地鎮山(じちんやま 標高約50m)の頂上にも同様のストーンサークルがあるそうです。
 こちらも今からおよそ3500年前の縄文時代後期の遺跡と考えられ、「地鎮山ストーンサークル」と呼ばれています。
 http://www.otarucci.jp/kankou/bunka/bunkazai/bunka004.html
 
 この地鎮山の頂上の平らな地点に、高さ1mほどの立石を12個使い、長径10m・短径8mの楕円形の区画を形成しているストーンサークルがあるそうで、昭和24年(1949年)、中央付近の石を敷き詰めた部分の下から縦・横2m、深さ1mの四角い墓穴が見つかったそうです。
 墓は1個しか見つからなかったことから集団の墓ではなく、首長墓としての性格を持つものとみられています。


 この種の北海道のストーンサークルで最大のものは小樽市で見つかった「忍路(オショロ)ストーンサークル」で、これは小樽市の中心から西に約15kmの所にある三笠山(標高約130m)の標高約20mの緩い斜面(平らに整地してある)にあり、ここに南北33m・東西22mの大きな楕円型で石が並んでいるそうです。
 http://www.mmjp.or.jp/OTARU/kyoyou/jstone.html

 この忍路ストーンサークル付近から大量の土器・石器・建材・漆製品などが出土しているとのことで、ストーンサークルに関わった人々がそばに住んでいたことが確認されており、お祭り広場タイプの大きなストーンサークルとして有名だといいます。ちなみに巨大な柱も出土していることから、ストーンサークルを大型の建物が取り囲み、たくさんの人々が生活していたものと推定されています。
 この遺跡も縄文後期(今から約3500年前)のものだといわれています。


 なぜこのようなものが作られたのか不明だそうですが、フゴッペ洞窟や手宮洞窟に関係ある文化のもとで生まれたものだとみられています。

 ちなみにストーンサークルとアイヌはあまり関係がないといわれており、アイヌの文化体系とは異なった民の存在が考えられています。


 このようなストーンサークルは主として北海道と東北地方に多く見られ、石組みスタイルが異なっているものの、基本的には同じ文化圏のもとに生まれたのではないかと考えられているそうです。
 時代的には東北地方の方がやや先行するため、ストーンサークルの文化と技術は、東北地方からの影響によるものと考えられています。

 青森県の三内丸山遺跡にもこうしたストーンサークルが見つかっており、三内丸山遺跡の場合は、巨大なストーンサークルによる祭祀広場というより、墓の要素が強いそうです。

 三内丸山遺跡のサイズは5mに満たないもので多数発見されているものの、ストーンサークルとしては初期段階のものとみられています。
 その用途は墓で、村を見下ろすような高い斜面に意図的に造られていることから、これらの環状配石墓は、代々の首長のものではないかと考えられています。性質としては、村を見下ろす山の頂上に作られた西崎山や地鎮山のストーンサークルによく似ているともいわれています。

 ところで、三内丸山遺跡のすぐ近くに「小牧野(こまきの)遺跡」がありますが、こちらのストーンサークルは大規模です。平成元年(1989年)、青森市内の高校生の遺跡発掘研究クラブにより発見されたものだそうですが、最外部の直径が35mの3重の環状列石で、この特殊な3重形態構造の環状列石は、墓域をかねた祭祀施設と考えられています。
 三内丸山遺跡より、やや新しいものだそうで、時代は、縄文時代の後期前半(今から約4000年前)の遺跡になるそうです。平成7年3月に国指定史跡となりました。


 ストーンサークルは「山」と少なからず関係を持っていることが知られています。小規模なものは山の頂上に築かれていますが、大規模なものは山の頂上には無理なので、忍路ストーンサークルのように、山の麓に築かれるケースが少なくないそうです。

 小牧野遺跡も、標高約145mの地点、八甲田山の麓に位置しています。注目すべき点は、このストーンサークルが隣接する山の「形状」です。
 なぜかきれいな三角形、すなわちピラミッド型の山がストーンサークルの近くにみられるケースが少なくないのだそうです。小牧野ストーンサークルの近くにも、きれいな三角形の山があります。雲谷峠(もやとうげ 533m)です。
 http://snowman-s.whitesnow.jp/climbing/moyatoge.htm

 ちなみに青森県の日本海・十三湊の近くにも、靄山(もややま 152.4m)と呼ばれるきれいな三角形の山があり、この山へのお山参詣がおこなわれるなど、地元の人の信仰を集めているということです。
 http://www.toonippo.co.jp/photo_studio/mountains/tugaruhanto/moya/pic1.html


 「もや」とはピラミッド型の山に対する呼称とも思われ、靄山と雲谷峠の呼称はその形から生まれたのではないかといわれています。

 さて、日本最大のストーンサークルは小牧野遺跡からそれほど遠くない地点に存在しています。
 秋田県鹿角市の「大湯ストーンサークル」です。
 http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/WebLibrary/oyu/


 こちらは今から4000〜3500年前ほどの縄文後期の遺跡として知られ、直径48mという壮大なストーンサークルを拠点とした遺跡が、近年、ストーンサークル館などに整備され、大勢の観光客でにぎわっているとのことです。
 http://www.ink.or.jp/~oyusc/


 注目されるのが、やはりこの大湯ストーンサークル近くにもピラミッド型の山があることです。地元の人が黒又(クロマンタ)と呼んでいる標高280mの山です。
 http://www.geocities.co.jp/Outdoors/8721/kanjyou-pira.htm


 こちらもきれいなピラミッド型をしていることで有名な山で、大湯ストーンサークルのすぐそばに位置しています。


 ところで、ピラミッドについては諸説ありますが、いずれも太陽信仰に関係したものとされ、太陽神殿として建設されたという説が有力視されています。

 大湯ストーンサークルも、約90m離れた2つの大きなストーンサークルの中心の延長線上に、夏至の太陽が沈むような設計となっており、この2つの大きなストーンサークルの中心から西北西の方位に「日時計」と呼ばれている組石がみられるそうです。
 これは東西南北の方位に丸い石が置かれ、その中心に1mほどの石棒が立っている不思議な遺物だそうです。


 こうしたところから、大湯ストーンサークルは太陽信仰と関係があるのではないかとみられ、さらにその太陽信仰と関係の深いピラミッド型の山がそばに見られるのは非常に興味深いとされています。

 この大湯ストーンサークルから不思議な遺物が出ています。


 それは、二重丸の模様をつけた三角形の土器で、ほぼ正三角形に作られた土器の中央部に、二重の円を浮き彫りにしたものだそうです。
 大湯ストーンサークルは、二重の環状構造をしているので、二重の円はストーンサークルを意味し、三角形はピラミッド、すなわち黒又山を象徴的に表しているのではないかともいわれています。

 ちなみに、小牧野遺跡からも三角形の不思議な遺物が多数出土しており、小牧野遺跡の場合は土器ではなく、三角形の石板となっています。


 こうした三角形の土器は、岩手県一戸町の「御所野(ごしょの)遺跡」からも出ているそうです。
 http://www.town.ichinohe.iwate.jp/goshono/mura/syutudohin/syutudohin3.htm
 ※番号14の写真


 山あいの高台に展開する、この御所野遺跡からもストーンサークルが2つ見つかっているそうです。


 御所野遺跡は、岩手県北部の馬淵川沿いの段丘上にある縄文時代中期の集落跡で、住居跡は600棟を越えるそうで、縄文時代でも最大規模の集落遺跡だそうです。
 http://www.town.ichinohe.iwate.jp/goshono/

 このストーンサークルを持つ御所野遺跡でも、呪具と思われる三角形の用途不明の土器が出ており、関係者の興味を引いているそうです。



 ところで、ストーンサークルは東日本で多く見られるのですが、西日本にも少し例があります。特に、滋賀県栗東市の辻遺跡が、非常に興味深いものだとされています。

 この遺跡は、やはり今から4000年ほど前の縄文後期のものだといわれていますが、遺跡の近くに「三上(みかみ)山」があります。
 三上山は標高432mの山で、近江富士とも呼ばれることからもわかるように、きれいな三角形の形状をしています。

 辻遺跡から見ると、三上山はちょうど夏至の日の「太陽が昇る地点」に位置しているそうで、辻遺跡のストーンサークルも、ピラミッド型の三上山とセットになった存在とみられ、太陽信仰となんらかの関係があるのではないかといわれています。

 この三上山には伝説があって、それによると、考霊天皇6年(296年)6月18日、「天御影神」が御降臨になったといいます。そこで、今でも毎年、6月18日の未明、氏子たちは山頂に登り神迎えのお祭りをするのだそうです。 
 ちなみに夏至の日は6月21日頃でお祭りの日と近く、夏至と神迎えのお祭りは、何か深い関係があるのではないかといわれており、またそれは、ストーンサークルの作られた時代に由来する、何かが起源となっているのではないかともいわれています。

 ところで「三上山」は古くは、山頂に磐座があり、「御神山」と表記され、崇められてきた神体山だそうです。
 その山上に祭神を鎮座した御上神社の祭神は「天御影命」だそうですが、この神の別名は「天目一箇神」、すなわち、一つ目の神様で、鉄の神様として、鍛冶の業に大功を立てた神とし、地方開拓の祖神として地元の人に古来尊崇されてきたといいます。

 この一つ目の神様が降り立った山が、ピラミッド型の三上山なのだそうです。


 「うんちく【47】&【48】」で触れましたが、ピラミッドと一つ目伝説は非常に密接な結びつきがあるといいます。三上山は「近江富士」と呼ばれるピラミッド型の山でしたが、青森県にも「津軽富士」と呼ばれる、きれいな三角形の山がありました。
 岩木山です。
 http://www.toonippo.co.jp/photo_studio/mountains/tugaru/iwaki/pic3.html



 この岩木山と、先に触れた十三湊の近くにある靄山(もややま)は、姉妹山とされ、古来一対のものとして信仰の対象になっていたことが知られています。
 この岩木山にも鉄の不思議な伝承が残されているということについては、すでに、何度か触れてきました。

 ピラミッド型の「三角形の山」に、片目の鉄の神様が降り立ったという三上山の伝承は、たいへん興味深く、かつ暗示的だといわれています。



 (つづく)
 
(526)うんちく 【59】 製鉄の響き その50 2005年 4月16日(土)
 【ストーンサークルと電磁場】

 シャーマンの研究では世界的な権威であったM.エリアーデが、オーストラリアのシャーマンが不思議な石で病人の治療をおこなう件について紹介しているそうです。そのシャーマンの持つ石は「アトノンガラ石」と呼ばれ、石英の結晶だそうです。
 石英の純度を高めたものが水晶であり、水晶は「パワーストーン」の代表的な存在として知られており、癒しや治療の道具として現在も多用されていることから、シャーマンの治療具に石英結晶が選ばれていったのは、別に不思議はことではないといわれています。

 ところで、この石英(水晶)は不思議な性質を持っていることが知られており、圧力をかけ、ひずませると、電気を発生するのだそうです。「ピエゾ電気」と呼ばれ、身近なところでは100円ライターやガスコンロの点火装置に、この「ピエゾ電気効果」が利用されているとのことです。

 エジプトのピラミッドの「王の間」だけに『花崗岩』が使われていることが知られています。
 花崗岩には多くの石英結晶が含まれ、ピラミッドの石組による巨大な圧力がかかることによる電気的な効果が考えられています。電気と磁場には密接な関係があることから、わざわざ王の間に花崗岩を取り入れた理由は、「王の間」の電磁気的な特性を高めるため、つまり、場を、エネルギー的高密度空間にする必要があったからではないかといわれています。


 大湯ストーンサークルの組石の素材の大半は「石英閃緑ひん岩」で、重さ平均30kg(なかには200kgの巨石もあるそうです)のたくさんの岩がわざわざ、遺跡から約7km離れた諸助山の安久谷川から運ばれたそうです。
 http://www.pref.akita.jp/kagaku/5f/space/3/menu1/b.html

 ストーンサークルは、どの石で作ってもよさそうですが、古代人はその素材にこだわりを持っていたとされています。しかし、なぜこの石が選ばれたか。

 見た目の美しさに加え、岩石の成分、すなわち「石英成分」に秘密があるのではないかといわれています。

 巨石による圧力が、石英結晶に与える電気的効果は先に触れましたが、石英結晶にはもう一つ不思議な性質があるそうです。ある電磁場環境に置かれると、石英結晶は膨張・収縮の振動を始めるのだそうです。
 条件が整うと、弱い振動はだんだん増幅され、強くなり、いったん始まった結晶振動はこうして持続していくそうです。

 また、石英は温度変化によっても電気を生じる(パイロ電気)ことが知られており、電気に非常に関係の深い天然の鉱物としてよく知られています。

 大湯ストーンサークルは、こうした特性を持つ岩でストーンサークルを形成しているという点が注目されています。


 この種のストーンサークルの岩石成分と土地の磁場やエネルギーといった分野での研究が非常によく進んでいるのはイギリスだそうです。

 約5000年前の遺物とみられる「ストーンヘンジ」と呼ばれる巨石による遺構がイギリスには、多数残されています。
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tetsuzan/web/megali.htm

 おもしろいことに、これらの遺跡は無秩序に点在しているわけではなく、遺跡などのある古来から「聖地」とされてきた地点を結ぶと、独特な幾何学的パターンが得られるといいます。

 この背景には活断層や、埋蔵鉱物の影響による地磁気や重力の異常などが関係しているとみられており、他の場所よりも不思議な特性を持つ土地を選んで、巨石遺構が作られているそうです。

 もともと特異な性質を持つ土地に、このような巨石遺構を組むことで、土地の特性がさらに強調されるようで、オクスフォードシャー州の「ロールライト・ストーンサークル」でおこなわれた実験によると、日の出30分前から、超音波を補足するセンサーの針が動き出すなど、太陽の動きに連動し、ストーンサークル内で超音波が発生することが認められるといいます。夜が明ける30分前、そして10分前の2通りの開始時刻から、超音波の放射が始まり、約1時間継続することが他のストーンサークルでも確認され、春分・秋分の日よりも、夏至・冬至の日の方が放射が強くなるといいます。対照実験となった近くの丘陵では、そのような反応はみられなかったそうです。

 現在、超音波が、患部治療や、植物の種子の発芽促進として利用されていることから、特定の時間にストーンサークルに入ると癒される。このような古代の病院のような存在であった可能性も指摘されているそうです。

 また、巨石の内部に強い電磁場を持つ遺跡もあり、立石を螺旋状に上るように磁場ができているそうです。ガウスメーターで測定したところ、普通考えられないような強い電磁場が石の周囲に存在していることが確認されているといいます。

 このような研究はイギリスが非常に進んでおり、イギリスでは、単なる石組みの『形状』の研究だけではなく、その石組のパターンと材質が、土地のエネルギーと共鳴し、どのような効果を生んでいるのかが非常に熱心に調べられているそうです。

 イギリスの巨石文化も太陽信仰に関係しているそうですが、太陽エネルギーと土地のエネルギーの干渉効果を、良い方向に増幅する働きが、ストーンサークルの意義の一つとして考えられるのではないかといわれています。



 ところで、富山県の立山町に「尖山(とんがりやま・とがりやま)」と呼ばれる標高559mのピラミッド型の山があるそうです。この山の頂上にもストーンサークルがあることでよく知られています。
 http://homepage2.nifty.com/hatazoku/tongari.htm 


 山の頂上に置かれたストーンサークルの中心には黒色の石が置かれているそうです。この黒石の真ん中だけが白くなっており、ここに方位磁針を近づけると、本来、北を指し示すはずのN極が、正確に真東を指すのだそうです。
 この石全体がこうした特性を持っているのではなく、石の白い点から外れると、方位磁針の磁場は正常に戻ってしまうのだそうです。

 どのような仕組みでこのような現象が起こるのか大変不思議だといわれていますが、とにかく、人工の石組によって、このように磁力線がコントロールされていることが確認されており、古代人の電磁気学、その英知に驚嘆するといわれています。


 このストーンサークルのある尖山の山頂の調査が進められ、鎌倉時代まで、ここが祭祀の中心地であったことがわかっているそうです。
 大型の石を四角形などに組み合わせた祭壇とみられる場所の近くから、祭祀用の鉄剣(約25cm)や、煤の付いた土器の一部(数十片)、そして鉄釘などが見つかっているそうです。
 ちなみに、尖山には、布倉姫という女神が住んでいたとの伝説が残っているそうで、これは女性シャーマンではないかとみられています。


 (つづく)
 
(527)うんちく 【60】 製鉄の響き その51 2005年 4月17日(日)
 【鹿石】


 縄文時代中期〜後期にかけての限定された時期に、西日本の一部、そして北海道から東日本の広い範囲でストーンサークルの文化が花開いたことが知られています。
 
 これは日本列島だけの現象ではなく、青森県とほぼ同緯度にある中国の遼寧省(りょうねいしょう)でも見られるそうです。


 この地にある「牛河梁(ぎゅうかりょう)遺跡」でも、外環のリングが二重囲みであるストーンサークルが見つかっているそうです。
 これは三内丸山遺跡のストーンサークルと特徴が似ているそうで、さらに三内丸山遺跡と同じような形式の土器も、牛河梁遺跡などで見られることから、古い時代に、何らかの相互交流があったものと考えられています。

 巨石を大地に立てるという文化は、日本においては外来の文化だとみられることが多いのですが、日本に近い中央アジアに展開した立石の形式で興味深いのが「鹿石」と呼ばれるものです。

http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/stoneman/paradise.htm
 ※鹿石の画像データが豊富です。


 その名が表しているとおり、「鹿石」とは高さ2mほどの立石に鹿の絵が刻まれているという不思議なものです。時代は、今から3000〜4000年前のものだといわれていますが、かなり古いものだということは断定できるものの、明確な時代は判然としていないそうです。

 ところで、不思議なのが鹿のデザインで、「鳥のくちばし」をもった鹿の絵が、最も多いのだそうです。
 もちろん、このような種類の鹿は生息していないことから、古代人がなんらかの象徴的な意味合いを込めて描いたものだといわれています。

 紀元前2300年頃に古代メソポタミアで栄えた都市国家のラガシュの紋章は、2頭のライオンの上に鳥の王者である鷲が両翼を広げて立っている図案でしたが、この2種類の動物が、後の時代になると融合し、翼を持つライオンのデザインへと変わっていきます。

 「うんちく【55】」で触れた中国出土の2本の鹿角をつけた鶴とみられる青銅製の霊鳥のデザインも、こうしたところに由来しているのではないかと考えられており、北方系のシャーマンにとって非常に神聖な動物であった「鹿」と「鳥」が、このような姿で融合したのではないかとみられているそうです。

 「鳥のくちばしを持つ鹿」の石絵のデザインも、同様な過程で生じたものではないかと考えられているそうです。

 鹿石の見られる地域で、天界の狩人が3頭の大鹿とその小鹿を連れて天上に飛び去ったというものがあり、鹿は鳥と結びついて、天と地を行き来する存在として語られています。
 こういったわけで、現地では、「鹿石」の別名が、「天猟石」ともなっているそうです。

 興味深いのはこうした鹿石がしばしばストーンサークルの一部として現れるという点です。

 アルタイ山のあたりでこうした遺物が多数(50以上)見られるそうで、特に巨大なのが「新疆(しんきょう)ウイグル自治区」の青河県(せいかけん)に展開する遺跡だそうです。
 その遺跡の直径は92mにも及び、22mの高さにもなる地点があるという巨大なものだそうです。
 遺跡は、ほぼ同じ大きさの石で構成され、中心部の周囲には7m幅に小石が敷き詰められ、その周り7ヶ所に「鹿石」が置かれていることが確認されているそうです。

 さらに円の中心部から70mのところには幅5mの外円が描かれ、その外周は700mにも及ぶそうで、中心から、通路のように十字型に石が敷かれているとのことです。
 その石が敷かれている総面積は0.67haにもなるそうで、石は複雑かつ精巧にならんでおり、この壮大なスケールから「アルタイ山の謎の王墓」と呼ばれているとのことです。

 興味深いのは、これら鹿石の付近で「一つ目の人物」の岩壁画が見つかっているという点です。


 「一つ目」と鉄とのかかわりは何度か触れてきましたが、鉄は「うんちく【36】」などで触れているように、もともとは天空から飛来する隕石に含まれる隕鉄の加工から、鉄と人類のかかわりは始まったとされ、古代は「天空の金属」と称されるなど、「天」とは非常にかかわり深い金属として知られています。


 こうしたストーンサークル遺跡が出ている場所は、「鉄器文化」を背景に勢力を伸ばした遊牧騎馬民族「スキタイ」が展開した地域として知られており、天をかける鹿伝説と、鳥と結びついたような奇妙な形の鹿の石絵は、天空からの贈物とみられていた隕鉄、その鉄に由来する古い信仰が影響しているのではないかと考える人もいるそうです。


 ストーンサークルも太陽信仰と密接に結びついているといわれ、「鉄」「一つ目」「鹿」「鳥」「ストーンサークル」が、「天(太陽)」を軸にし、結びついていくのは非常におもしろいといわれています。


 (つづく)


←4月(1)     バックナンバートップ     ホームへ     4月(3)→