青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2014年7月>

(972) エンブリと田植踊りとの間 (7)
(973) エンブリと田植踊りとの間 (8)
 
(972) エンブリと田植踊りとの間 (7) 2014年 7月 6日(日)
 (その1 田植踊りの中の「えんぶり」)


 田植踊りのすべてに「えんぶり」の要素が見られるわけではないが、重要度の多寡はあっても、少なからぬ田植踊りに「えんぶり」が登場してくる。


 福島県会津地方に分布する早乙女踊りでは、踊り手は早乙女数人とエンブリ1~2名による。

 「佐布川の早乙女踊」(大沼郡会津高田町)では、早乙女7人で、「棒舞」に2人の「えんぶり」が登場し、早乙女の前でエンブリで田面をならすように踊る。エンブリは長さ約1メートル、先端の最大幅は25センチメートル。扮装ははっぴに紺の股引で赤帯を締め、手甲、白足袋、草履ばきで、豆絞りの手拭いでほおかぶりをする。



 山形県では、村山地方の田植踊りにテデ棒をつく「テデ系」とグロテスクな面をつける「弥十郎系」の二つの系統があるが、この「テデ系」は「エンブリ系」とも呼ばれ、『東北民謡集 山形県』(日本放送出版協会)によると、西村山郡左沢町「小見の田植踊り」はかつて「小見えんぶり田植踊り」と称していた。

 この田植踊りは「中太鼓1人(唄上げもする)、朳2人、早乙女4人の7人の踊子が囃子に連れて稲の耕作の順序を踊る。布子に鉢巻、袖無羽織を着て手に朳を持った「朳役」がつくために「えんぶり田植」と称する」。「テデ棒(朳)」を手にした男たちが「棒を大地に激しく突き立てして踊る」様は、八戸エンブリとの共通性を感じさせる。



 宮城県では、花笠をかぶった紋付きの長振袖姿の早乙女たちが美しく舞う「弥十郎系」の田植踊りが大半を占める。しかし、今は廃絶して既にないが「かつて弥十郎田植と双璧とされた奴田植」というものが「仙台城下周辺でも泉地域にのみ伝承されていた」という(千葉雄市「宮城県の民俗芸能2」)。

 この田植踊りには「エブリスリという弥十郎役の者は3名登場するが、そのうちの1人は太夫と称し、派手な大立烏帽子をかぶり、鼻下に八の字髭をつけ、猩々緋の陣羽織を着し、手に15センチ程の「エブリ(馬鍬様)」の紙製のものを青竹の先に吊して担ぎ、踊のたびに口上を述べる」。ほかには「奴」という青年男子12人、「やく人」と呼ぶ青年男子8人等がおり、「早乙女」は3人のみであったという。


 また、仙台市宮城地区大倉には「役人田植踊」と呼ばれる異色の田植踊りが現在も伝承されており、「踊りの構成や衣装、芸態等が隣の泉地区に多くあった奴田植と類似点が強い」。「大倉役人田植踊は「エブリスリ」3人のうち、その長とする1人が「鬼人」と書いて「えんぶり」と呼ぶ役で、やはり鳴子の付いたエブリを肩にかついで出る。その扮装も仰々しく、頭に引立烏帽子を冠り、背中に「神武天皇」と大書した陣羽織を着ている。早乙女は人数が少なく、いつも後方で終始目立たない風に踊っている」。





 岩手県では、田植踊りが多様に展開し、森口多里『岩手県民俗芸能誌』では「気仙・東磐井型」「胆沢型」「和賀型」「中部型」「その他の型」に分けているが、「えんぶり」は大半の田植踊りで重要な位置を占めている。以下、それぞれ代表的なものを列挙する。



(1)気仙型
 大船渡市の「菅生田植踊り」は庭田植えで、踊りは3人の孫蔵の口上と会話を軸に進行していく。「えぶりすり」は「代掻き」の後、三孫蔵の口上で始まる。

○一すりすれば悪魔をはらい、二すりすれば祝のえんぶり、三すりすれば上のこっこう下のこっこう中のにょろにょろ、ひょうたん曲りの口曲り、えびす大黒毘沙門弁天、次郎神布袋を先として黄金の水をすととんとんとんとすりこんだり。

 道化た物の言い回しの中に、「えんぶり」作業が「悪魔払い」「祝い」「黄金の水」をもたらすことを述べている。




(2)胆沢型
  胆沢型では仰々しい装束のエンブリが命令者であり、早乙女はなく、年少のヤッコと年上のカッコとが2列になっておどる。すべてニワ田植である」。

 胆沢町(現奥州市胆沢区)の「南都田田植踊り」では、「エンブリスリは太夫ともよばれ、垂れのある烏帽子に紅白の鉢巻・水色の袍。太刀をさし、青竹の杖に畳扇を添え、その頭を右手で握る」。「弥十郎1人。装束はエンブリと同じ」。
 この2人のうち、踊りの前に口上を述べるのが太夫だが、作業としての「えんぶり」の表現は、田植踊りの中にはない。




(3)和賀型
 和賀型は各曲目の踊りに先立って、エンブリ(またはエブリスリ)と弥十郎とが口上をのべながらエブリとよぶ杖を軸にしてめぐることや踊子が初めから輪になっておどることが特徴である」。
 北上市和賀町の「煤孫田植踊り」では、「エブリスリと弥十郎の両人とも鳥甲をかぶり、裾の長い紋付羽織を着る。エブリ(白木の杖)の下から三分の二のあたりに鉄の鳴金がついている」。
 2人は向かい合って立ち、長々とした口上を述べていくが、「えんぶり」の作業の表現は、「初田植」の中で行なわれる。

○進童六が持ちましたえぶり、誰がさした彼がさしたとお尋ねなさる方も御座りませう、かたづけなくも感宝元年ヤグワンの年、ししだ様の御時代に奥州南部和賀の郡煤孫村、馬頭観音御堂建立なさる節、飛騨の工はかんながら以てさしおかれたえぶりはこのえぶり、天晴えぶりの結構じゃ、さりによって一度すれば人一代の守となる、二度すれば二葉の松に千代へれ、三度すれば三ごん幸目出度さに、上ぐろに廻るは小金の水、中は福徳いも三郎、のろのろのっぺらや、さらさらさあともすりました

 「和賀型」では、エブリが飛騨の匠によって作られた由緒あるもので「人一代の守り」となり、「黄金」「福徳」をもたらすと語る。




(4)中部型

 中部の座敷田植は花巻から岩手町一方井に至る北上川流域を主に分布し、早乙女の笠振りや中踊りの踊りが見事であること、一八という道化が活躍すること、三番叟・狂言・囃子舞・万歳等種々の芸が加わった複合的な演出であることを特色とする。
 岩手町一方井の「黒内田植踊り」では、苗を養育する「しつけ」の口上の中、エンブリスリは右手に錫杖、左手にエンブリを持って登場。この「えんぶり板」が飛騨の匠の作であることを述べ、

○さるに依って出での方には米という字が七流れ、目での方には泉という字が七流れ、中に一つの叶ふあり、一枚当てますれや一千刈、二枚当てますれや二千刈、三枚となれや数知れず、ヨイヤさらさらやさらさらやと摺って溜るは黄金の水、ぷんぷんはねるは、ほうしょうの玉、畦を越すは化粧の水、後に廻るは福の水、中に福徳ェ門三郎とも摺り当ておきましてござる

 これは「和賀型」のエブリ詞章と同系だが、エンブリの効用がより強調されている。



(5)その他の田植踊り

 これ以外の型として遠野と江刺の田植踊りが上げられている。後者は仙台の弥十郎田植えの系統でエンブリは登場しないが、前者では「徳左衛門が朳を摺れや稲や良き」とし、飛騨の匠の作った花の朳で摺れば「黄金の水」「白金の水」「悪魔を払う水」が生じると述べる。
 これら、エンブリの効用を述べた詞章は、八戸エンブリの「田植万歳」にも見られ、岩手の田植踊りとの関連をうかがわせる。






 以上、田植踊りの中の「えんぶり」を見てきたが、明らかに田植踊りでは「えんぶり」を重視し特別の意味を持たせている。それは何故か。



 東北では、「エブリを摺ることは霊魂をいわいこめる呪術であって、特に田植前のエブリは田の代によい霊力を斉いこめる意味を持っている」と考えられてきたこと、また、「田の植代をより平らにする「エンブリ摺り」の出来不出来が田植の最終段階の苗を植えるという作業に大きくひびく」と広く認識せられていたことがあろう。




(つづく)
 
(973) エンブリと田植踊りとの間 (8) 2014年 7月11日(金)
(その2 エブリスリの位置)


 田植踊りでは全般に「えんぶり」の要素が強いのだが、八戸周辺のエンブリ(大きな烏帽子をかぶった三人の太夫が演ずる)との関連で注目されるのは、「えんぶりすり」が主役として登場する仙台の「奴田植」と「役人田植」、岩手の「胆沢型」「和賀型」の田植踊りである。


 彼らの主な役割は直接的なエブリの作業を表現することではない。
 では、「えんぶりすり」とは何者か。




 『岩手県史 民俗篇』の「耕作用具」の項に「エンブリ摺り」の説明があり、エンブリの形状・材質を記した後、こう書かれている。

 「田植組で、このエンブリすり役になるのは重要な役目とされている。田の面の土を平に均らすこと、田の水加減を巧みに調節すること、植付を指図すること等で、中枢的な役目であった」。

 つまり、「えんぶりすり」は、稲作にとって最も大切な田植えにおいて、一番中枢の役割を負っていたのである。その姿を誇張して表現したのが、これらの田植踊りだったといえよう。



  八戸エンブリの「摺り込み」の詞章は、

○エンヤアエンヤアエンヤア、エンヤエンヤと今日のえんぶりすりの藤九郎殿が参って候、前田千刈後田千刈合せて、弐千刈の大田の大水口から植えて申したりやい

 と、田植えに来たことを冒頭で告げている。「前摺」「中摺」「後摺」の詞章がいずれも「田植え」の場での歌だったことは先に述べた。



 そして「後摺」の後の「畔止め口上」では

○オーヤイオーヤイ植えて申したりや植えて申したりや 今日の早乙女は誰誰参って候、鶴子に亀子に千才子(略)、四方四又ごとくに植えて申したりやい(「横町えんぶり」)


 と、田植えの終了を告げている。エンブリはエブリ作業の表現を主眼にした踊りではなく、田植えそのものを表現する田植踊りであるといえる。




(つづく)


←前月     バックナンバートップ     ホームへ     次へ→