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安藤誠二 英米法研究
談論アメリカ契約法〈第3 講〉
 
イギリス契約法の継受(その1)
 
安藤 誠二
 
いつものように、馬場壮年、千葉青年、土井青年の三人は連れだって荒井老年の家を訪ねた。暫くの間は、中高年齢層の間で最近静かなブームを呼んでいる社交ダンスが話題の中心になった。周防正行監督の大ヒット映画「Shall We ダンス?」の影響ばかりではなさそうである。町のダンス教室は永年の運動が実り、一定の条件を充たせば、風俗営業法の呪縛から解放される。無数のダンス・サークルが活動している市町村の公民館は、日夜大賑わいを呈している。生涯スポーツの花形と成りつつあるダンスを、オリンピックの正式種目に採用せよとの運動すらある。
ダンスと言えば、イギリスが本家。ところが、ブラック・プールで毎年開かれ、最も権威ある競技会として知られる全英選手権大会の出場者は、その約1/3が日本人舞踏家で占められると言うから驚きである。
 
荒井(A)「そろそろ本論に入りましょう。テーマはイギリス法の継受です。二回に分けて論議したいと思います。千葉君と土井君に事前調査をお願いしてありますが、今回は千葉君の持ち分だけで終わることになるでしょう。」
千葉(C)「テーマが高尚で逡巡したのですが、イギリスの古い判例を報告するだけで良いとのことですから、割り当てを受けた19 世紀中葉の先例2件についてお話をします。」
土井(D)「アメリカの契約法判例を読んでいると、確かに、代表的なイギリス契約法判例に屡々出会います。」
馬場(B)「コモン・ローと一言で表現しても、イギリス、アメリカ、カナダなど、それぞれの国が別個の法域を形成して、独自の判例法を発展させているのでしょうが、根幹のところでは結びついているのですね。」
千葉「最初の判例は、1853 年判決のホクスター対ド・ラ・トゥール事件@です。被告のド・ラ・トゥール男爵は、1852 年6 月1 日から始まる3 ヶ月間のヨーロッパ大陸旅行に、原告のホクスターを月々10 ポンドの報酬で雇い、従者として連れて行くことにしました。雇用の契約を結んだのが、1852年の4 月ですから、出発の約2ヶ月前です。ところが男爵は、5 月11 日に手紙を書いて、気が変わったので、もう供は要らないとホクスターに伝えたのです。しかも、びた一文補償金は支払わないと言うので、ホクスターは訴訟を起こしました。訴訟の開始は、1852 年5 月22 日ですから、旅行開始予定の日、つまり男爵の債務履行期前のことです。」
馬場「アンティサパトーリ・レピュディエーション(anticipatory repudiation)ですね。履行期前に予め履行を拒絶すると契約違反となります。」
土井「そもそも、履行期到来前に契約違反が発生するなど、普通に考えれば、妙な話です。」
荒井「ともかく、千葉君の話を聞きましょう。」
千葉「しかも、原告は訴訟開始の時と出発予定日の間に、訴外アッシュバートン候と別の従者契約を結んだのです。新しい契約は破棄された雇用契約とほぼ同条件となっていましたが、旅行の出発日はずっと遅い7 月4 日でした。」
馬場「もし男爵が再度変心して、ヨーロッパ旅行に連れて行こうと言っても、ホクスターはお供ができませんね。被告はどのように抗弁したのですか?」
千葉「土井君の言うとおり、6 月1 日前には、契約違反は有り得ないと反論しました。事実審の裁判官は、この反論に納得しなかったようです。しかし裁判官は、被告から出された訴え却下の申し立てを認めるかどうかの判断を留保したまま、契約の内容や拒絶の有無など他の争点について陪審の判断を求めました。陪審からの答申は何れの争点も原告有利の判断でした。」
土井「訴え却下はノンスート(nonsuit)ですね。」
千葉「被告の弁護士は、頑張ったと見えて、訴え却下または判決抑止の仮命令を取り付けました。」
土井「仮命令はルール・ナイサイ(rule nisi)で判るのですが、判決抑止は何というのですか?」
馬場「アレスト・オヴ・ジャッジメント(arrest of judgment)でしょう。」
千葉「その後、訴訟抑止の申し立てに関して審理した女王座部裁判官のキャンベル卿は、問題を次のように要約しました。B が将来の特定日に出発する一定期間の外国旅行に、A を従者として連れて行き、出発日に雇用が開始する契約が、B とA の間で結ばれていたとします。A は従者として働く間、継続して月々の給料を貰うことになっていました。ところが雇用が開始する前に、B が雇用契約の履行を拒絶し、契約を破棄したとします。そのようなとき、B による契約破棄通告があるまで、契約履行の準備を整え、履行の意思を持っていたA には、期日前にも拘わらず、契約違反に基づく損害賠償を請求して訴える権利があるでしょうか?」
馬場「キャンベル卿と言えば、数々の法改革で有名なバロン・ジョン・キャンベルと同一人ですか?」
荒井「そうです。業績は毀誉褒貶相半ばしますが、法曹界に入った若年時に自ら予言した通り大法官になった人です。しかし既に齢80 歳になっていました。」
土井「被告の主張は?」
千葉「原告が契約の解消に満足せず、しかも契約上得られる全ての救済を放棄する考えがないのなら、実際に従者として働く契約が開始する時まで、原告は自ら履行の準備を整え、履行の意思を保ち続けるべきだというのです。その日までは、被告の契約違反は起こり得ず、従って訴権も発生しないとの考えです。」
土井「そのようなことが普遍的に言えるとも思えない。」
荒井「土井君も移り気ですね。」(笑い)
土井「違反が確実視されるのに、漫然と履行期の到来を待つのも、無駄のような気がするからです。」
馬場「無駄なのは原告だけでなく、被告の利益にもならない。更に突き詰めれば、社会全体の損失ともなります。」
土井「判りました。損害軽減義務が関係するのですね。」
荒井「話が進み過ぎたようです。」(笑い)
千葉「判決は、将来の行為を約束した契約があるとき、契約の違反があれば、行為期日の到来を待たずに訴訟提起が可能となる卑近な例を幾つか挙げています。」
土井「特定物の二重売買ですか?」
千葉「そうです。その他、土地の二重賃貸借と、婚姻契約の違反を挙げています。」
土井「土地の二重賃貸借は判ります。将来の一定期日から一定期間土地を賃貸する約束をしているのに、これを同一期間他人に賃貸すれば、直ぐに契約の違反となるわけです。しかし婚姻契約違反とは何ですか?」
千葉「男が将来の或る日に結婚することを約束しているのに、外の女性と結婚すれば、即時に結婚の約束を破ったものとして、訴えられます。」
土井「しかし、千葉君が言う三つの例で、履行期到来前に訴えを認める根拠は何でしょうか?」
千葉「一つの理由は、契約の履行が不可能となることにあります。」
土井「それは必ずしも当たらない。結婚した相手が死ぬかも知れません。(笑い)二重売買した特定物は買い戻しが可能です。賃貸した土地についても、相手が賃借権を放棄してくれるかも知れない。」
馬場「その意味では履行不能が事前に100 パーセント確定しているわけではない。しかし蓋然性は可成り高いでしょうね。」
荒井「他にも根拠がありそうですね。」
千葉「はい。キャンベル卿が挙げる二つ目の理由は、当事者間の関係です。将来或ることを行う契約があると、履行の時まで特別の関係ができると言うのです。その関係と矛盾し相手方を害することは何もしないと、双方が暗黙に約束したことになります。」
土井「フィアンセになると、浮気もできない。」(笑い)
千葉「この事件では、契約の時から雇用が開始するまでの間、旅行者と従者の間に誓約関係が出来上がり、どちらかがその誓約を破ると、黙示契約の違反とされるのです。」
荒井「そこで終われば、ホクスターの事件は特に真新しいことを言っていることになりません。それ以前にも、財務府裁判所の先例があり、女王座部もこれに追随した判決を幾つか出しています。」
土井「これからが核心ですね。」(笑い)
千葉「報告を続けます。もしホクスターには、契約が有効に存続するものと考え、6月1 日が来るまで旅行の準備を整え続ける以外に取る術がないとすると、彼の約束、つまり3 ヶ月間のヨーロッパ旅行、を妨げるような仕事を外に探せないことになります。」
土井「あまり合理的ではない。」
千葉「被告が契約の履行を拒絶すると、その後、原告は契約違反によって蒙った損害を訴求する権利を保持する一方、自らが負担する未履行の債務からも解放されたと見なす自由を与えられます。その方が理に適うし、双方の利益にも資すると判決は言っています。」
馬場「無為に時を過ごし、無益な金銭を準備に費やすより、外に雇い主を探す自由を原告に与えた方が、賠償を求める損害金が軽減されることになります。」
土井「契約を拒絶し絶対に履行しないと宣言した被告に、原告が自分の拒絶を信頼し過ぎたとか、あるいは自分に認められて当然の考え直す機会を奪ったとか主張することを許せば、奇妙なことです。」
馬場「全くその通りです。原告がアッシュバートン候と結んだ別の従者契約が被告との従者契約と矛盾するから、救済を与えられないとすれば、被告の宣言に信頼した原告の方が却って利益を侵害されます。契約を完全に拒絶すると宣言したときには、未だ契約に違反していないと、被告に言わせない方が理屈に合っているのでしょうね。」
荒井「馬場君と土井君の弁舌が爽やかなので、千葉君が手持ち無沙汰のようです。」(笑い)
千葉「キャンベル卿判決の趣旨は次のように要約できます。思案の上結んだ契約を違法に拒絶した人は、相手方から損害の賠償を求めて即時に訴えられても、不平を言えません。損害を受けた相手方には二つの選択肢が与えられます。一つはホクスターがしたように直ぐに訴訟を開始することです。その他に、原告は、契約が引き続き拘束性を有するものと見なして、履行期の到来を待つことができます。原告にはその方が有利なこともあるでしょうし、それだからと言って、被告に不利だとは言えません。」
土井「第一の選択肢を認めることに何か難点はないのですか?」
荒井「今日の土井君は着眼点が的確です。」(笑い)
千葉「損害額の算定が困難ではないかという問題が提起されました。しかし現実の問題として、既に発生した損害、将来予想される損害、更に損害の増大と軽減の要素を裁定することは、さほど難事ではありません。」
荒井「千葉君ご苦労様でした。私から一つ補足します。判決でも言及されていると思うのですが、類似の先例が既に存在したのです。原告は定期刊行物に載せる学術論文の執筆を依頼されました。しかし論文を書き始め未だ完成しない時に出版が取り止めになりました。原告は論文の執筆を中断したまま出版社を訴えました。ところが出版社は、契約通り論文の執筆、提供、引き渡しがあってこそ、初めて原告は損害を求償できる筈と反論しました。訴因に関し若干の混乱はあったのですが、判決は拒絶は契約の違反であって、相手方当事者の条件達成を免除することになると言っています。」
土井「ホクスター対ド・ラ・トゥール事件判決以後、契約の履行拒絶に関するイギリス判例法は、どのように推移しているのですか?」
荒井「2 年ほど前に、私が『契約履行期前違反の諸相』Aと題して詳しく述べていますから、ここでは取り上げないことにします。後日そちらを参照して下さい。」
土井「それでは、直ちにアメリカ契約法に入ります。」
荒井「進行役を務めてくれて感謝します。(笑い)それでは馬場君どうぞ。」
馬場「サミュエル・ウィリストン教授は、定められた履行期日が到来する前に約束を破ることはそもそも不可能であるため、契約の履行期前拒絶の法理は非論理的であると言って、批判しています。更にウィリストンは、この法理を認めると、約諾者に約束の早期履行を求めることになって、約諾者の義務を不公平に増大させると言っています。」
土井「約束の早期履行を求めるとは、履行期前に損害賠償を求めることを指しているのですね。」
荒井「土井君は察しが宜しい。」(笑い)
馬場「アーサー・コービン教授は法理に対してもっと好意的です。拒絶自体が契約上の権利の価値を減少させて、相手方当事者に損害を与えることを正当性の根拠としています。更にコービンによれば、即時に訴訟を認めれば早期の解決と損害の賠償が促進されます。」
荒井「批判はあるものの、履行期前拒絶の法理はアメリカの裁判所によって広く受け入れられています。しかも、この法理は契約法(第2 次)リステートメント§253(1)と統一商法典§2-610 に採用されました。」
馬場「千葉君は用意周到な人です。きっと訳文を準備している筈です。」(笑い)
千葉「『拒絶の違反としての効果』と題するリステートメント§253(1)は次のような規定です。『不履行による違反を犯す前であり、しかも合意された全ての交換債権を受領する前であっても、債務者が責任を拒絶したときは、その拒絶のみで完全な違反に対する損害賠償請求権を発生させる。』」
土井「交換債権とは相手方の債務の意味でしょうが、それはどうなるのですか?」
千葉「それは『拒絶が他の当事者の責任に与える効果』と題する§253(2)に定めています。『約束が交換され、双方の履行が交換提供されることとなっているとき、一方当事者が履行提供の責任を拒絶すると、他の当事者は履行を提供する残余の責任から免除される。』が私の試訳です。」
荒井「ご苦労様でした。統一商法典もお願いできますか?」
土井「千葉君のことですから抜かりなく準備しているでしょう。」(笑い)
千葉「UCC §2-610 のタイトルは『履行期前拒絶』となっています。拙訳を披露します。『何れか一方の当事者が未だ履行期の到来しない履行に関し契約を拒絶し、その履行の喪失が相手方の有する契約の価値を実質的に損なうときは、侵害された当事者は、(a)商業的に相当とされる期間拒絶当事者の履行を待つか、または、(b)拒絶当事者の履行を待つと既に通告し、または拒絶の撤回を既に求めていたとしても、(§2-703または§2-711 に規定する)違反に対する如何なる救済をも追求できる。更に(a)と(b)何れの場合に於いても、侵害を受けた当事者は自己の履行を中断するか、または、違反にも拘わらず物品を契約の目的物として特定し、或いは未完成物品の廃品価値を回収する売主の権利を、本章の規定に従って行使することができる。』ここに引用された§2-703 と§2-711 は、売主と買主にそれぞれ与えられる救済を一般的に定めた規定です。」
土井「千葉君の苦心は良く理解できます。しかし、法理の定義として、リステートメントと統一商法典を聞いただけでは、理解に若干未消化の嫌いを感じます。」
荒井「無理もありません。それでは纏めを兼ねて、カリフォルニア州最高裁が或る判決Bで述べた定義を披露しましょう。『双務契約の一方当事者が契約を拒絶したとき履行期前違反が発生する。拒絶は明示または黙示の何れで為されても良い。明示の拒絶は、履行の明瞭、明白、明確な拒絶である。黙示の拒絶は、約諾者が自己の行為によって履行を自らの力の範囲外に置き、その結果、約束の実質的履行が不可能となるとき起きる。約諾者が契約を拒絶したとき、受難当事者は救済の選択を迫られる。第一に、受約者は拒絶を履行期前違反と見なして、当事者間の契約関係を終結し、契約違反に対する損害賠償を即時に訴求できる。または第二に、受約者は拒絶を空虚な威嚇と見なして、履行期の到来を待ち、履行期に実際の不履行が在れば、その時彼に与えられた救済の権利を行使できる。しかしながら、受約当事者が拒絶を無視し、契約を依然として有効なものと見なしたとき、約諾者が履行期前に拒絶を撤回すれば、拒絶は無効となり、受難当事者には、履行期に行使できる救済がもしあれば、その救済が残されるだけである。』これなら土井君にも納得してもらえるでしょう。」(笑い)
土井「未だ何か残っていたような気がします。はて?」(笑い)
馬場「土井君がいち早く指摘した損害の軽減義務でしょう。」
土井「そうでした。いつもながら迂闊でした。」(笑い)
荒井「それでは馬場君に説明をお願いましょう。」
馬場「それでは、比較的古いのですが、第4 巡回区連邦控訴裁判所の判決Cに格好の例がありますから、それを紹介しましょう。計画道路上の橋梁建設工事の発注契約を行った地方公共団体が、工事開始後まもなく道路新設と橋梁建設の中止を決議して、請負契約者に契約の履行拒絶を通告し、工事の中止を指示しました。しかし請負契約者は、橋梁の建設工事を続行して橋を完成させました。接続する道路がなく、森林の中に建設された橋は、地方公共団体にとって何らの価値がありません。」
土井「計画道路の建設も中止したのですね。」
馬場「一審判決が建設業者の請求を全額認容したので、被告の地方公共団体が控訴しました。第4巡回区連邦控訴裁判所は、ノース・カロライナ州中部地区連邦地裁の判決を破棄して、差し戻しました。」
土井「理由は?」
馬場「判決はノース・カロライナ州最高裁の先例Dを承認して引用し、これを根拠としています。内容は次の通りです。『契約が未だ履行段階にあるとき、一方の当事者は、相手方当事者の損害を補償する限り、明確に指示してその履行を中断させる権利がある。中断を求められた当事者は、それ以降履行を継続して損害を増大し、その賠償を求めることができない。当事者の一方が、法が通常許容する損害填補を前提として、契約を破り、放棄し、または拒絶するコモン・ロー上の権利は、場合によりエクウィティーの要請する特定履行に従う条件付きながらも、一般に認められ行使されている。』」
千葉「判決は履行拒絶に関する法理には全く言及していないのですか?」
馬場「いいえ。当然のことながら、第4 巡回区連邦控訴裁判所は、ホクスター対ド・ラ・トゥール事件判決、これに追随する連邦最高裁判決、及び、ノース・カロライナ州最高裁判決を検討しています。しかし、損害軽減義務を伴う本件事実関係にはこの法理は妥当しないと判断したのです。」
土井「ところで、ノース・カロライナ州最高裁判決の中にある『場合によりエクウィティーの要請する特定履行に従う条件付き』とはどういう意味ですか?」
荒井「契約違反に対しコモン・ロー上認められる救済は、一般に金銭賠償です。しかし、債務の履行強制を求めるスペシフィック・パフォーマンス(specific performance)はエクウィティー上の救済であって、例外的なものです。詳しくは別の機会に取り上げたいと思います。みなさんのご協力で契約の履行期前拒絶も旨く纏まったようです。しばらく休憩した後次の問題に移りましょう。」
 
荒井夫人心尽くしの甘酒を味わいながら、暫くは、ダンスの話題で賑わった。荒井夫妻が最近社交ダンスに熱を上げている。200 人を超す参会者を前にして、チャチャチャとワルツのデモンストレーションを二度に渉り披露したと言うのだから、初心者にしては可成りの強心臓である。
 
荒井「それでは千葉君に2件目の判例をお願いします。」
千葉「有名なハドレー対バクセンデール事件Eです。ホクスター対ド・ラ・トゥール事件判決の2 年後に財務府裁判所で下されたものです。原告のハドレーはグロースターで大規模な製粉業を営んでいました。5 月11 日に蒸気エンジンのクランク・シャフトが破損し、製粉機が動かなくなりました。そこでエンジンを製造したグリニッチのジョイス会社に破損したシャフトを送り、同一規格のシャフトを新しく作ってもらうことにしました。破損を発見したのが12 日です。翌13 日に、原告は使用人一人を、ピックフォード会社と言う良く知られた名で運送業を営んでいる被告の事務所に派遣し、シャフトをグリニッチまで送る話をさせました。原告の使用人は応対した事務員に、製粉機が止まり、シャフトを至急に送る必要があると伝えました。シャフトが送れるか尋ねたのに対して、いつの日でも12時前に持ち込みさえすれば、翌日にはグリニッチに配送できると事務員は答えました。翌日正午前にシャフトは、グリニッチまで送るため、被告の許に届けられました。原告使用人は全行程の運賃として2ポンド4 シリングを支払ったうえ、被告事務員に配達を急ぐため、もし必要なら、特別の記載をするように告げました。ところが、グリニッチへのシャフト配送は何らかの怠慢が原因で遅れていまいました。その結果原告が新しいシャフトを入手したのは、全てが順調に推移した場合より数日遅れ、製粉機の運転も再開が遅れました。配送の遅れがなかった場合に比べて、原告は得べかりし利益を失ったのです。そこで原告は、営業損失と使用人の賃金を会わせて、300ポンドの損害賠償を求めました。」
馬場「事実関係は良く判りました。ところで訴因は何ですか?」
千葉「二つあります。一つが被告は翌日にシャフトを届ける約束をしたのに、これを怠ったというものです。二つ目は、被告はシャフトを迅速に配送する注意義務を負っているのに、この義務に違反したとの主張です。」
荒井「最初の訴因が特定契約上の責任で、第二の訴因がコモン・キャリアとしての一般的契約責任ですね。」
千葉「被告は特定約束の存在を否定する一方、一般的な契約責任を認定された場合に備えて、25 ポンドを裁判所に供託しました。」
馬場「原告の反応は?」
千葉「原告は最初の訴因に関し訴えを取り下げ、第二の訴因に関して、裁判所への供託金額では請求に不充分であると答えました。」
土井「訴えの取り下げは何というのですか?」
千葉「ノリー・プロスクウァイ(nolle prosequi)です。被告はこの損害が因果関係に於いて疎遠に過ぎるため、責任を負わないと反論しました。結局、裁判官は陪審の一般評決に任せました。」
土井「結果はどう出ましたか?」
千葉「陪審は供託金額に更に25 ポンド上乗せした金額の裁決を下しました。これに対し、被告は陪審に対する裁判官の説示の誤りを指摘して、再審理を求め、仮命令を取得しました。」
土井「成る程。それで本論に入る訳ですね。」
荒井「催促されては、千葉君も急がなくてはなりませんね。」(笑い)
千葉「御指示に従い、先ず結論から申し上げます。(笑い)財務府裁判官のバロン・オールダソンは、再審理の必要を認めたうえ、次の審理に際し裁判官が陪審に説示する損害賠償額裁定に関する原則を示したのです。」
土井「ここから有名な文章が続きます。」
千葉「はい、急ぎます。(笑い)オールダソン判事は言います。『さて私たちは本件の如き場合に妥当する法理をこう考える。二当事者が結んだ契約がその一方当事者に破られたとき、他の当事者がこの契約違反に関し償われるべき損害は、この契約違反自体から自然に、即ち事理通常の成り行きに従い、発生したと見なすことが公平且つ理に適うような損害か、或いは契約違反の起こり得べき結果として、契約締結の時両当事者が予期していたと無理なく推測できるような損害でなければならない。(the damages ... should be such as may fairly and reasonably be considered either arising naturally, i.e., according to the usual course of things, from such breach of contract itself, or such as may reasonably be supposed to have been in the contemplation of both parties, at the time they made the contract, as the probable result of the breach of it.)さて、契約が実際に結ばれた特別の事情 (the special circumstances)が原告から被告に伝達され両者の知るところであったならば、斯かる契約の違反から結果として生じると両者が無理なく考える損害額は、このように伝達され知るところとなった特別事情の下で契約違反から通常生じるであろう損害の額である。他方、これら特別事情が違約者の全く知らぬところであれば、違約者はこのような契約違反から一般的に、つまり特別事情に左右されない大多数の事例に(in the great multitude of cases not affected by any special circumstances)、生じる損害の額のみを予想していたと考えられるだろう。何故なら、特別事情を知っていたならば、両当事者は契約違反に関して損害額を特別条項としてわざわざ規定したに違いないからである。当事者からこの利点を剥奪することは条理に反する。』」
土井「含蓄の深い文章ですね。反復して読まなければ真意が把握できませんね。」
馬場「反復して理解できる問題なら、何の苦労もありません。」(笑い)
土井「読書百遍意自ずから通ず、の筈ですが?」(笑い)
馬場「例えば、千葉君の訳文中、要の部分をもう一度読み返してみましょう。『二当事者が結んだ契約がその一方当事者に破られたとき、他の当事者がこの契約違反に関し償われるべき損害は、この契約違反自体から自然に、即ち事理通常の成り行きに従い、発生したと見なすことが公平且つ理に適うような損害か、或いは契約違反の起こり得べき結果として、契約締結の時両当事者が予期していたと無理なく推測できるような損害でなければならない。』文章を語句の流れに沿って読めば全くこの通りです。しかし、『契約違反の起こり得べき結果として』は、後半部分の『契約締結の時両当事者が予期していたと無理なく推測できるような損害』だけでなく、前半部分の『この契約違反自体から自然に、即ち事理通常の成り行きに従い、発生したと見なすことが公平且つ理に適うような損害』をも修飾すると解釈されています。Fこれなど、英語力の拙い私にはなかなか理解できません。」
土井「馬場さんの引用された文章が、日本民法第416 条『損害賠償の範囲』の原型となるのですね。前半部分が通常損害、後半部分が特別損害にそれぞれ対応します。」
千葉「確かに、ハドレー対バクセンデール事件判決の法理と日本民法第416 条が極めて酷似しているのは事実です。しかし、重要な点で違いがあります。」
土井「と言いますと?」
千葉「先ず、第416 条は不法行為にも準用されています。しかしイギリス法では、契約違反と不法行為では適用される基準が異なります。不法行為の方が違反者に厳しいのです。次に、特別事情を知る基準時を、日本法では契約履行(違反)時、イギリス法では契約締結時と考えています。」
荒井「第416 条については、ドイツ法の流れを汲む相当因果関係説が未だ判例・通説でしょうし、特別事情を知る基準時についても、契約締結時と考える学説もありますから、ここでは、それとなく対比することに留めて(笑い)、深く議論しないことにしましょう。向学心の旺盛な土井君には平井教授の著作Gをお薦めします。」
土井「有り難うございます。いつの日か報告会を開きます。(笑い)ところで、ハドレー対バクセンデール事件判決の意義を簡潔に纏めると、どのようになるのでしょうか?」
馬場「論議が拡大すると思いきや、突然方針を変更して、結論を求めるのですか?」(笑い)
千葉「損害賠償金の一般原則は、期待利益乃至履行利益の補償です。被害当事者に恰も契約が履行された如き金銭的立場を可能な限り回復させることが目的とされています。Hしかしこの原則を徹底すると、違反から生じた事実上の損害全てを、例えそれが稀にしか起きない予期不能なものであっても、完全に補償することとなって、違反当事者に過酷な結果を招きます。」
土井「そこでリモートネス・オヴ・ダメジズ(remotness of damages)つまり『損害の疎遠性』に関する基準が必要になるのですね。」
馬場「イギリスの有名な判例に、次のようなものがあります。Iクリーニング業兼染色業を営む原告は、事業を拡大するため、既設ボイラーより5 倍の蒸気発生力を持つボイラーを、被告から購入する契約を結びました。被告は原告がクリーニング業兼染色業を営んでいること、及び、大型ボイラーを緊急に必要としていることを知らされていました。しかし、引き渡しの数日前、被告構内でのボイラー解体作業中に、作業請負業者の過失から、ボイラーが横転し、損傷してしまいました。修復に時間を要し、ボイラーを原告が入手したのは当初予定より5 ヶ月遅れとなりました。被告の履行遅滞によって、原告は事業を拡大することができず、この期間に当然挙げ得たであろう利益を失いました。それだけではありません。偶々、原告は政府機関から極めて収益性の高い染色契約を受注しようとしていたのです。こちらの損害は一層多大でした。」
土井「裁判所はどこまでの損害を賠償金として認めたのですか?」
馬場「事実審裁判官は、契約違反に対する損害賠償金として、細かい経費など110 ポンドを認定しましたが、これに原告の失った事業収益を含めることは認めませんでした。しかし、控訴院では、これが覆されました。」
土井「すると、失われた事業収益を全て認めたのですか?」
馬場「ご期待に添えなく申し訳ありませんが(笑い)、全てではありません。被告は契約の時、原告がクリーニング業兼染色業を営んでいたこと、及び事業のため大型ボイラーを緊急に必要としていたことを知っていました。被告の業務経験及び、当事者間の関係から、履行遅滞があれば原告の側である種の事業収益が失われることを、被告は予期していたものと推論できます。当時クリーニングの需要は拡大していましたから、その事情下で合理的と考えられる事業収益は損害賠償の対象とされたのです。」
土井「第一原則の『事理通常の成り行きに従って』発生した損害ですね。」
馬場「しかし、被告は収益性の高い染色契約の存在を知らされていません。したがって、染色契約で失った事業収益を違反の蓋然的結果として想定しろと言っても無理な話だったのです。」
土井「『特別の事情』が関係する第二原則の適用ですね。」
馬場「控訴院の判決理由を代表して述べたアスキス卿は、ハドレー対バクセンデール事件判決で示された法理を華麗に分析しています。そして、土井君の言う第一原則、第二原則のように、法理を、当事者が当然持っていたと推論される知識を基礎とする第一分肢と、現実に持っていた知識に基づく第二分肢に分けて把握しています。しかしこの考えは後になって貴族院により否定されました。」
土井「折角話が順調に進んできたのに、どんでん返しですか?」(笑い)
馬場「必ずしもそうとは言えません。二つの原則ではなく、単一の原則と理解されたに過ぎません。違反から発生する特定損害の蓋然性が減少するのに相応して、被告の側に求める知識が増大するのです。通常損害と特別事情に基づく損害はこの基準の両極に過ぎません。両極の中間には、被告に正確な情報の伝達が為されなくとも、或る程度の知識だけで賠償が認められる事例が多数存在すると考えられます。何れにせよ、損害の疎遠性を理解するためには、今でもアスキス卿判決は必読判例です。」
荒井「馬場君もお疲れでしょうから、後は私が引き受けます。馬場君の言う貴族院判決は、ヘロン二世号事件Jです。これも必読判例ですから簡単に紹介しておきましょう。原告は3,000 トンの砂糖貨物をコンスタンザからバスラまで海上輸送するため被告から汽船ヘロン二世号を航海傭船しました。コンスタンザからバスラまでの所要航海日数は、直行すれば通常20日です。しかし、本船は被告の都合で途中三度に渉り離路したのです。離路は『適切な全速力で航行する』(proceed with all convenient speed)と定める傭船契約の違反です。結局バスラへの到着が9 日遅れました。この9日の間にバスラでの砂糖市場価格は急落し、原告は損害を蒙りました。」
千葉「このような場合の損害賠償額は、陸上貨物運送契約であれば、引き渡し予定期日の貨物市場価格と実際の引き渡し日に於ける貨物市場価格の差額ですね。」
荒井「貴族院はハドレー対バクセンデール事件判決で示された法理が海上貨物運送契約の違反にも適用されることを先ず確認しました。そして、船主は航海の遅延が傭船者に損害をもたらすであろうことを、当然予期していたと考えても無理がなく、本件損害は離路から自然に発生したものと判断したのです。結局船主は貨物の市場価格損失に対し責任を負うものとされました。」
千葉「全員一致の判決ですか?」
荒井「そうです。関与した5 裁判官がそれぞれ長文の判決理由を述べています。その全てに目を通すと、損害の疎遠性に関する法理の理解が一層深まるはずです。みなさんに是非一読をお勧めします。」
土井「今日は沢山の宿題を与えられました。」(笑い)
荒井「そろそろアメリカ契約法に移らなければなりませんので、イギリスの判例法を纏めておきましょう。馬場君にお願いします。」
馬場「法理は次のように要約できるでしょう。契約に違反した当事者は、契約締結時に自らが、事実上または推定上、持っていた知識に照らして、損害が『思いもよらぬことではない』(not unlikely)か、『起こりやすい』(liable to result)か、『起こりそう』(likely to result)か、若しくは『重大な可能性がある』(serious possibility)と、論理上考えて然るべきときに限り、原告に発生した損害に対して責任を負うことになります。」
土井「そのノット・アンライクリーとか、ライアブルとか、蓋然性や可能性を表す形容詞を羅列して示されても、理解できるようで、結局何のことやら判らない。」(笑い)
千葉「そう言えば、先ほどから疑問に思っていたのですが、何故直裁に『予見可能性』(foreseeability)を用いないのですか?」
荒井「極めて適切な疑問です。『思いもよらぬことではない』とは、五分五分のチャンスを可成り下回りますが、極めて異常と言うことではなくて、容易に予見可能な蓋然性の程度(a degree of probability considerably less than an even chance but nevertheless not very unusual and easily foreseeable)を意味する、とリード卿はヘロン二世号判決の中で定義しています。ここでオールダソン判事の判決文を読み直す必要性がありそうです。馬場君にはご苦労ですが、先ほど千葉君が紹介した部分と別のところを読み上げて下さい。」
馬場「承知しました。『契約が結ばれた時、原告から被告に伝達された事情は、物品が製粉工場の破損したシャフトであること、及び、原告が製粉工場を営んでいることに限られていた。しかしながら、破損したシャフトを運送者が不相当に遅れて第三者に配送すれば製粉工場の収益が断絶するとが、この事情のみから論理上理解できるであろうか?原告が当時運転中または予備のシャフトを他に持っていて、単に破損したシャフトの製造者への返還を意図していたと考えて見よ。これが上記事情と首尾一貫することは明白である。しかも、配送が不相当に遅れても、製粉工場の収益に何らの影響を与えない。或いは、運送者にシャフトを渡した時、製粉工場の機械が他の欠陥で停止していたとしたらどうか?同様の結論が導かれるであろう。しかし本件では、破損シャフトが新しいシャフトを作るモデルとして実際に送られたこと、新品シャフトの無いことが工場停止の唯一の原因であったこと、新品シャフトの到達が遅れ実際に収益損が発生したこと、及びこれがモデルとなる欠陥シャフトの配送遅れから起きたことは事実である。しかし、通常の事情であれば、製粉工場経営者が運送者に依頼して破損シャフトを第三者に送る大多数の場合に、このような結果は、十中八九起こらなかったであろうことは明かである。』以上で宜しいでしょうか?」
荒井「結構です。オールダソン判事は、配送遅延により工場の操業再開が停止することは合理的に予見可能であったとは言っていませんし、その意図もなかったようです。判事は単に、十中八九つまり大多数の場合に起こり得ないであろうと、言っているに過ぎません。判事が区別しているのは、予見可能と予見不可能ではなく、大多数の場合に起こるため起こりそうな(likely)結果と少数の場合に起こるため起こりそうもない(unlikely)結果です。」
馬場「大多数の場合(in the great majority of cases)に起こるであろう結果は、両当事者が予期していたと無理なく推測できますが、十分の可能性があって予見可能であっても、少数の場合(in a small monority of cases)にしか起きない結果は当事者が予期していたと考えられないのですね。」
千葉「成る程。」
土井「何を感心しているのですか?」(笑い)
千葉「『予見可能性』(foreseeability)と『当事者の予期』(contemplation of the parties)が異なる法的概念である、と言われる意味が分かったような気がするのです。」
馬場「『予期』は契約の場合に、『予見可能性』は不法行為の領域にそれぞれ使った方が良いと言われる所以です。」
土井「一寸待って下さい。お三人は理解されているようですが、私にはついて行けません。」(笑い)
荒井「先程、千葉君が日本民法第416 条とハドレー対バクセンデール法理の相違点に言及した際、不法行為に適用される基準は、これより違反者に厳しいと指摘していたのを覚えているでしょう。」
土井「フーン、そんなものかなと聞き流していました。」(笑い)
荒井「ネグリジェンス不法行為で用いられる『損害の疎遠性』に関する基準は、枢密院司法委員会のワゴン・マウンド号事件答申裁決Kで確立しています。その要旨は次のようなものです。不法行為者は、注意義務違反の結果起こり得ると彼が合理的に予見できる損害に対して、それが如何に起こりそうもない(unlikely)ことであっても、起こり得ぬこと(far-fetched)として無視できない限り、責任を負うのです。つまり、極端に異常な場合であっても、起こり得ることと合理的に予見可能(reasonably foreseeable)であれば、危険が非常に小さいため無視しても正当と考えられる場合を除き、責任が課せられます。」
土井「しかし、枢密院司法委員会採決は、判事の構成が貴族院と同じであっても、リーズ・ジュディケータに制約があるのではないですか?」
荒井「その通りです。コモンウェルス諸国のみに先例拘束性(res judicata)があり、イギリス国内では説得的先例(persuasive authority)とされるに過ぎません。しかしこの採決はその後の判例Lで屡々追認されていますから、コモン・ローの一部と考えて良いのです。」
千葉「契約法とネグリジェンス不法行為法で基準が異なるのは何故でしょうか?」
荒井「不法行為者は被害者にとって完全に見知らぬ人であることが一般ですが、如何に偶然の出会いとは言え、被害者は法律上不法行為者の隣人であるため、不法行為者には被害者の権利に相当の注意を払って行動する義務があります。このような義務を怠れば、損害賠償金の裁定に際して、厳しい基準が適用されます。しかし契約では、当事者は違反の相手方に対する結果だけを考えればよいのです。損害賠償額が、予見可能ではあるが最も起こりそうもない結果ではなく、相互に引き受けた共通の知識と予期に依存するのは公平なことです。更に当事者は、合意によって、損害に対する責任を制限し、または除外することができますし、予定損害賠償額すら取り決めることができます。また、一方の当事者は他の当事者に対して、違反があれば格別に重大な結果がもたらされるような特別事情を暴露して、相手方の注意を喚起することができます。」
土井「良く理解できました。不法行為の場合には、契約の場合と違って、被害者には危険に対する防禦の機会が与えられていないところに根拠を求めるのですね。」
荒井「適当なところでイギリス法を切り上げ、アメリカ法に移ろうと考えていたのですが、予見可能性まで論議が進むとは思いませんでした。アメリカ法への接点としても適当な話題ですから、予定を変更して、別の判例を一件取り上げることにします。」
馬場「ロード・デニング・エム・アール(Lord Denning, M.R.)による例の判決Mですか?」
荒井「そうです。」
土井「デニング卿は簡明直截な文体で問題点を鋭利に分析し、数々の画期的法理を打ち出した人です。日本のイギリス法研究者の間にもファンが多いようです。画龍点晴を欠くことの無いように、お話を伺いましょう。」(笑い)
馬場「事実関係は私が報告します。養豚業者の原告が大容量の飼料貯蔵ホッパーを製造者の被告に一基発注し、被告がそれを原告の農場に設置することになりました。ホッパーは『上部換気装置付き』と表示されていました。被告は輸送中の便宜を考え換気装置を密閉したのですが、ホッパー設置後換気装置から密閉を解くことを怠ったのです。換気装置が地上28フィートの高さにあるため、装置が閉止状態にあることを原告は気付きませんでした。換気がないためホッパーに貯蔵された飼料用ナッツにかびが生え、これを食べた豚が珍しい種類の大腸菌に感染し、その内254頭が死亡しました。」
土井「そこで製造者に対しホッパー売買契約違反訴訟を起こしたのですね。」
馬場「原告は死亡した豚の価格10,000 ポンドに加えて、逸失した売り上げの損失として10,000 ポンドから20,000 ポンドの範囲の金額を請求しました。事実審裁判官は、契約違反の結果現実に発生した病気が起こる重大な可能性(serious possibility)の存在を当事者が予期していたとは論理的に推論できないと判断したのですが、豚の死亡と病気は動産売買法に定められている違反の直接的結果(direct result of a breach)であると判示して、請求額の賠償を認めたのです。」
土井「ところが、判決に不服な被告は控訴しました。いよいよ待ちに待ったロード・デニングの登場です。」(笑い)
荒井「後は私が続けます。控訴院は被告の主張を認めず、原審判決を承認したのですが、結論に至る道筋が違いました。デニング卿は、貴族院のヘロン二世号判決を論じた後、経済的損失と物的損害が区別されつつある不法行為法の現況に言及して、類似の区別が契約法の分野にも現れつつあると言っています。つまり、契約違反の結果生じる利益の逸失(loss of profit)と物的損害(physical damage)です。デニング卿が提言する逸失利益の解決方法は次のようなものです。違反当事者は重大な可能性または現実の危険の存在を、契約締結時に、論理上予期して然るべき結果に対してのみ責任を負います。(the defaulting party is only liable for the consequences if they are such as, at the time of the contract, he ought reasonably to have contemplated as a serious possibility or real danger.) これに対して、物的損害または実費用に関しては、違反当事者は、例え可能性が僅少に過ぎなくても、違反時に、可能性ある結果として論理上当然予見すべきあらゆる損害と実費用に対して責任を負います。(the defaulting party is liable for any loss or expense which he ought reasonably to have foreseen at the time of the breach as a possible consequence, even if it was only a slight possibility.)」
千葉「豚の死亡は物的損害でしょうから、損害の疎遠性はネグリジェンス不法行為法と同じく合理的予見可能性が基準となるのですね。」
馬場「かびた飼料が豚に与えられること、そして豚が病気になって死亡することには、重大な可能性や現実の危険は存在せずに、僅少な可能性しかありません。しかし、ホッパーの製造者は論理上当然予見すべきであったのです。」
土井「ヘロン二世号事件判決の基準は充たしていないものの、不法行為法と同等の基準には達していると判断されたのですね。ところで、デニング卿の意見は控訴院一致の結論ですか?」
荒井「いいえ。他の二判事は疎遠性の関係で経済的損失と物的損害を区分することに反対しています。ホッパーの欠陥によって豚が病気に感染することを重大な可能性として被告は予期できたはずであるから、ヘロン二世号の疎遠性基準を充足しているとの判断でした。」
土井「理由は別にして、原判決を承認した点は同じですね。」
荒井「しかし、スカーマン卿が『損害疎遠性の基準が、原則上、訴訟原因の法的分類によって異なるのは不合理である』と述べていることは将来に禍根を残しました。」
千葉「契約違反にも合理的予見可能性を認めよ、との意見に理解できるのですね。」
荒井「損害の疎遠性に関するイギリス法の理解はこれでほぼ充分と言って良いでしょうから、しばらく休憩した後、アメリカ法に移ることにしましょう。」
 
紅茶とクッキーを味わいながら、談笑した。話題は引き続き社交ダンスである。一般のアマチュア・ダンサーは大きく分けて四グループに分けられる。サークルに所属して、週に一・二回定期的に踊る人たち。メダル・テストでの昇級を目指して技術を磨く人たち。競技会に参加して、競争場裡で切磋琢磨する実践派の人たち。多数の観客を前にショー的要素を織り込んだ踊りを披露するデモンストレーション指向の人たち。道筋は違っても、それぞれに生涯スポーツとしてのダンスを楽しんでいることに変わりない。
 
荒井「準備が良ければ再開しましょう。イントロは馬場君にお願いします。」
土井「既に本論も核心に入っていますから、今更導入部とは?」(笑い)
荒井「言葉が足りませんでした。これからアメリカ法に移るのですが、議論が進め易いように何か適当な判例を紹介して貰おうと思ったのです。」
馬場「これからお話しするのはアーカンソー州最高裁の判決Nです。原告の蒐集家が永年に亘り蒐集したコインを自宅で厳重に保管していたのですが、盗難保険の保険料が著しく高率になったため、銀行の貸金庫に預けることにしました。偶々被告の取引銀行が新築ビルへの移転を計画中であったため、大型貸金庫3 個を予約し、使用料も前払いしました。金庫は1,2ヶ月以内に使用可能になる予定でした。複数の銀行員が、貸金庫の準備が出来次第、原告に知らせることを約束していました。」
千葉「貸金庫に移す前にコインは盗難にあったのですね。」
馬場「盗難が発生したのは9 月4 日土曜日の夕刻で、家人が留手中のことでした。翌週月曜日がレーバー・デーの休日であったため、火曜日になって原告が貸金庫について照会したところ、貸金庫は盗難の日より5 日前の8月30日に使用可能になっていたことが判りました。連絡が無かったは、単に銀行員に『時間が無かっただけ』の理由からです。」
千葉「貸金庫の使用を原告が急いでいたことを被告の銀行は知っていたのですか?」
馬場「貸金庫が緊急に必要なことは縷々説明してありました。それに大柄の息子が大学に帰る9 月1 日迄には是非とも金庫が欲しいと伝えていました。」
土井「息子が大柄であることに何か意味があるのですか?」
馬場「それで盗難が防げるとも思えませんが、判決文はそう書いています。」(笑い)
千葉「コイン・コレクションの価格を銀行は知っていましたか?」
馬場「原告が銀行の融資部門に出した融資金申込書にはコインの時価が記載されていましたから、被告は知っていた可能性があります。」
土井「銀行は金庫が使用可能になったことを、約束に反して、知らせなかったのですから、契約違反ですね。」
馬場「ところが一審では、事実審理にも入らずサマリー・ジャッジメントで原告は敗れました。」
千葉「確かに重要な事実問題については争いがないようですね。特別事情に関して被告が認識していただけでは、法律問題として、被告を有責とするために不充分なのでしょうか?」
馬場「アーカンソー州最高裁は、原告の上告を斥けて、アーカンソー州では契約違反に基づく派生的損害の賠償にいわゆる『暗黙合意基準』(tacit agreement test)を採用すると言っています。この基準に従うと、契約違反の論理的帰結として原告に特別損害が発生する、との認識が被告にあったことを、原告が単に証明するだけでは足りないのです。少なくとも、責任の引き受けを被告が暗黙に合意したことが明白にならなければなりません。」
千葉「ハドレー対バクセンデール事件で示された法理より原告に厳しい条件です。」
土井「この厳しい条件はどこから生まれたのですか?」
馬場「ホームズ判事の判決です。」
土井「有名なオリヴァー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(Oliver Wendell Holmes, Jr.)ですか?」
馬場「そうです。連邦最高裁での判決です。」
荒井「ホームズは1841 年に医師であり、詩人であり、しかも著名な文筆家でもあったオリヴァー・ウェンデル・ホームズの長男として生まれました。幼友達には、ウィリアムとヘンリーのジェイムズ兄弟が居ます。ウィリアム・ジェームズ(William James)はプラグマティズムの主唱者として知られる哲学者ですし、ヘンリー・ジェームズ(Henry James)は後に英国に帰化した著名な小説家です。ホームズはハーヴァード・ロースクールに学び、ボストンで暫く弁護士をした後、母校のハーヴァード大学で教鞭を執りました。学者時代の彼は多くの著作を残しましたが、中でも1881年に出版した『コモン・ロー』(The Common Law)はアメリカ人の書いた最良の法律書として著名です。1882 年にマサチューセッツ州最高裁判事に任命され、20 年間その職にありましたが、任期中最後の3 年は長官を務めました。在任中の1897 年に、『法と経済学』の源流とも言われる『法の道』(The Path of the Law)と題する長文の論攷をハーヴァード・ロー・レヴューに発表しています。マサチューセッツ州最高裁判事としての業績は、ニュー・ヨーク州最高裁判事時代のベンジャミン・カードゾ(Benjamin Cardozo)に比べると印象の薄さは否めません。寧ろ裁判官としてのホームズの花が開いたのは、1902 年、彼が62 歳の時にセオドア・ルーズベルト大統領によって連邦最高裁判事に任命された後のことです。1932 年に同僚判事の誹りにあって退任する迄30 年間在職しましたが、その間に数々の有名な意見を書いています。1935 年、彼は94 歳の誕生日を目前にして他界しました。なお彼は、南北戦争中に志願兵として参戦し、3度も重傷を負いました。」
土井「ホームズが同僚判事の誹りで退任に追い込まれたのは何故ですか?連邦最高裁判事の定年は95 歳です。」
荒井「頭脳は未だ明晰であったのですが、肉体的に職務の分担を果たしていないとの非難があったようです。今では書記官が、いわゆるゴースト・ライターとなって、判決文を書くことも珍しくなくなりましたが、当時は90歳を超す老人が自分で意見を書いていたのです。横道に逸れてしまいました。馬場君続けて下さい。」
馬場「ホームズ判事はグローブ製油会社対ランダ綿実油会社事件Oの連邦最高裁判決で次のように言っています。『人々は契約を結ぶとき違反ではなく履行を考えているため、一般的に、違反の結果何が起こるかに関しては殆ど何も言わないのが実際である。そこで、違反に言及していたと仮定して、おそらく発言したであろう内容を定める一般原則が常識から導き出された。履行期が到来した時、どのような契約でも履行すると、絶対に確信できる人はいない。彼の力が完全に、または相当程度に、及ばない出来事の危険を、彼が負担している(taking the risk of an event which is wholly , or to an appreciable extent, beyond his control)のは、多くの場合、明かである。このような場合、責任の限度はおそらく彼が抱く予想の内部にある。予想に含まれるか否かは、考えを質されたと仮定して、彼が同意した(assented to)と公正に推定できるかどうかの基準で解決されるべきである。・・・原告の賠償請求権は、契約締結時に被告が意識的に引き受け(assumed consciously)、または引き受けたと原告に思わせる理由を与えたと、公正に判断できるような責任は何か?との設問に左右される。』一部英文を示したのは、この判決が『暗黙合意基準』の根源となったことの理解を容易にするためです。」
土井「コイン・コレクション盗難事件でアーカンソー州最高裁が採用した『暗黙合意基準』はどの法域でも認められているのでしょうか?」
馬場「『暗黙合意基準』は『推定合意基準』(presumed agreement test)とも呼ばれますが、少数派です。攻撃の標的にされていると言っても良いでしょう。」
土井「例えば?」
馬場「契約法(第2 次)リステートメント§351 の公式注解a には次の記述があります。『更に、違反当事者が損害に対し有責とされるために〈暗黙の合意〉を行ったことの必要性はない。基準は彼に予見すべき理由があることを根拠とする客観的基準であるため、契約締結時に、損害が彼の念頭にあったことすら求められない。』」
荒井「コービン契約法は、『現存する規則は、予見の理由のみを求め、実際の予見を必要としない。被告が結果損害を実際に想定して居るべきこと、またはそれ故違反の際に支払うことを〈暗黙または明示して約束〉して居るべきことは要件でない。』Pと言っています。ところで、ここでホームズ判事の名誉のために、二点ほど付言したいことがあります。」
土井「大多数の裁判所が離反した『暗黙の合意基準』の弁護ですか?」
荒井「イェス・アンド・ノーです。(笑い)第一に、19 世紀の人民間訴訟裁判所(Court of Common Pleas)の判決Qに、当事者の一方が異常な損害を蒙っても、相応して増大する危険(the greater risk)に対する対価を払っていない限り、相手方は負担しないと判示したものがあります。対価の支払いがなければ、相手方に特別な結果に対する責任を引き受ける意思があった(intended to undertake liability for the special consequences)と信じる正当な理由にならないとの趣旨です。
馬場「それは、契約とは、実のところ、万一の場合に損害賠償金を支払う合意であると喝破したホームズ理論Rに近いと言えますね。」
荒井「次に、リチャード・イプスタイン教授(Prof. Richard Epstein)の意見Sです。教授は『暗黙合意基準』が近年斥けられ、ハドレー対バクセンデール原則が一般に適用されることを批判して、契約違反に対する損害賠償金の決定は契約解釈の問題と見るべきであると主張しています。損害賠償額決定に関する規定が契約にない場合、問題を考慮していれば当事者が合意したであろう蓋然性の最も高い『デフォルト・ルール』(default rule)を裁判所は適用すべきであると教授は言います。」
千葉「『デフォルト・ルール』と言えば、任意規定と考えて良く、当事者の合意が存在しないとき適用される統一商法典の規定のようなものですね。」
荒井「この場合には若干意味合いが違い、更に広義に理解した方が良さそうです。商慣習によっては『デフォルト・ルール』に従って定める損害賠償金がハドレー対バクセンデール原則によるものより、少額となることがあるのだそうです。例えば、消費者向け商品の販売は『修繕または取り替え』条件で行われるのが常態です。」
千葉「私がリステートメントの試訳を準備してきたので披露します。」
土井「用意周到ですね。」(笑い)
千葉「リステートメント§351 の全段『損害の予見不可能性』(Unforeseeability on Damages)と題する部分@です。『(1)違反当事者が契約締結時に違反の蓋然的結果として予見すべき理由のない損害に対する賠償は認められない。(2)損害は、(a)事理通常の成り行きに従い、または(b)事理通常の成り行きでなくとも、違反当事者が知るべき理由のある特別事情の結果として、違反から生じるとき、違反の蓋然的結果として賠償を認められる。』」
土井「質問!」
馬場「大きな声を出さないで下さい。」(笑い)
土井「イギリス契約法を論議しているとき、『損害の疎遠性』に関する基準が契約法とネグリジェンス不法行為法では異なり、前者は『当事者の予期』(contemplation of the parties)、後者は『予見可能性』(foreseeability)であると聞いたように記憶します。ところがアメリカ法に移ると契約違反に対して予見可能性が現れたので、いささか戸惑いを感じます。」
荒井「土井君は相変わらず感覚が鋭い。」
土井(小声で)「感覚が鋭くとも理解が鈍いのでは何にもならない。」
荒井「何か言われましたか?」
土井「いいえ。」(笑い)
馬場「契約法の基準が不法行為法の基準より原告に厳しいのはアメリカ法もイギリス法も変わらないと言って良いでしょう。フォーシーアビリティー(foreseeability)の意義が英語と米語でニュアンスに差があると考えるほかないと思います。なおアメリカ不法行為法では、該当する言葉に『損害の実質的または主たる原因』(substantial or proximate cause of damages)を当てているようです。」
土井「判りました。リステートメント§351(1)(2)の内容はハドレー対バクセンデール判決の趣旨と同一に読めますね。」
馬場「現に、『ハドレー対バクセンデール法理がニュー・ヨーク州の法であり、合衆国一般の法であることに疑問の余地はない。』と断言した第2 巡回区連邦控訴裁判所の判決Aがあります。」
荒井「ニュー・ヨーク州最高裁長官時代のベンジャミン・カードゾ判事は、『この法理は永年に亘り普及しているため、当事者の意思によっても排除できない強行法規的準則と同等の効果を持つ。』(The doctrine has prevailed for years, so many that it is tantamount to a rule of property.)Bとまで言っています。」
土井「成る程。今日のテーマである英国法の継受が、お二人の発言で確認できました。」(笑い)
千葉「土井君が英国法の継受を納得してくれたので(笑い)、今日の論議をこれで終わりですか?」
荒井「お疲れでしょうが、もう少し辛抱願います。アメリカ契約法学者の意見を二つほど追加したいと思います。
土井「一寸待って下さい。(笑い)その前に質問があります。」
荒井「どうぞ。」
土井「カードゾ判事の名が2 度出てきました。略歴を簡単に説明願います。」
荒井「ベンジャミン・ネーザン・カードゾ(Benjamin Nathan Cardozo)はアメリカ裁判史上最も著名な裁判官と言って良いでしょう。1870 年生まれ、コロンビア大学に学びました。1891 年から1914 年まで弁護士を努め、1914年にニューヨーク州最高裁裁判官に任命され、1927 年に最高裁長官に選任されました。続いて、米国連邦最高裁の裁判官に任命され、1932 年から1938 年の死に至るまでその職にありました。1921 年に出版した『司法手続きの本質』(The Nature of the Judicial Process)は有名です。」
土井「有り難うございました。次に学者の意見をどうぞ。」(笑い)
馬場「それでは先ず私から。今でもシカゴ大学で教鞭を執るリチャード・アレン・ポズナー(Richard Allen Posner)の意見をご紹介します。」
土井「ポズナー判事は以前『契約の成立に伴う書式の争い』Cを論議したときにも登場しました。」
馬場「第7 巡回区連邦控訴裁判所首席判事のポズナー判事はその著書『法の経済的分析』(Economic Analysis of Law)Dの中でこういう例を挙げています。商業写真家が雑誌に載せるヒマラヤの写真を撮るためフィルムを一本買ったとします。フィルム代には現像代が含まれています。写真家はヘリコプター賃貸料の他多大の出費をしました。彼は撮影したフィルムを現像のためメーカーに送ったのですが、現像中にフィルムが紛失してしまいました。」
千葉「メーカーが違反した結果派生する損害全額を賠償するか、それとも責任をフィルム代に制限するかの問題ですね。」
馬場「ポズナー判事は誘因的効果(incentive effect)を比較します。派生的損害の全額について賠償が得られるなら、写真家は将来類似の事故について何らの防止策を講じません。費用と逸失利益を補償されるからです。他方、フィルム・メーカーも追加防止策を採らないでしょう。どのフィルムに多大の経費がかかっているのか判別は不可能ですし、そのようなフィルムが多数にならない限り、現像するフィルム全てに追加予防策を講じるのは不経済であるからです。」
千葉「それと比べて、責任を制限するとどうなるのですか?」
馬場「安上がりでしかも効果的な防止策を採る誘因を写真家に与えます。写真家は念のため予備のフィルムを一本撮って置くでしょうし、現像のため発送するときにも注意して処理するように要求するでしょうから。」
土井「ポズナー判事はハドレー対バクセンデール法理の意義をどのように把握しているのでしょうか?」
馬場「危険の予見可能性という法的用語は甚だしく意義曖昧であるとポズナーは言っています。フィルムの現像者はフィルムを紛失したり損じたりした場合の結果を知らなくとも、このような損害の生じ得ることは知っています。つまり、予見可能性はあるのです。買主(写真家)は違反自体を回避することはできませんが、違反の結果を回避するうえで、売主(現像者)より優位な立場にあることが核心です。したがって、ハドレー対バクセンデール法理は、交通事故の被害者がシート・ベルトを着用すれば避けられるであろう損害の賠償を得られない(普遍的に認められた原則とは言えない)不法行為の原則に類似しています。シート・ベルトを着用しても事故は避けられず、加害者の責任は影響されません。しかし、傷害の程度は変わります。」
荒井「法理を回避可能結果の原則(the principle of avoidable consequnces)と捉えると、写真家が優越危険負担者(superior bearer of the risk)となります。」
千葉「ポズナーは現職の裁判官ですから、自ら裁決した適切な判例がありそうですね。」
荒井「電信送金上の過誤を理由に、契約関係のない銀行に対して、派生的損害の賠償請求を行った屑鉄業者の訴えを却下した判決Eの中で、ポズナー判事はハドレー対バクセンデール事件法理を分析しています。」
土井「ハドレー対バクセンデール事件法理を不法行為に適用したのですか?」
荒井「いいえ。同法理がイリノイ州法上不法行為に適用されるか否かの判断は別です。しかし、当事者が相互に契約によって拘束されるか否かによって、異なる結果を招来することには疑問を呈しています。契約の存在しないが故に、責任の限度が制限されるのではなく寧ろ拡大することになるとすれば奇妙なことであると言っています。」
千葉「法理のポズナー流解釈を聞かせて下さい。」
荒井「ハドレー対バクセンデール事件判決が商業上の約束不履行または履行遅滞に起因する派生的損害に対する責任に関しての指導的コモン・ロー判例であると述べた後、ポズナー判事は、『被告に派生的損害の原因となった特別事情を告知していなければ、派生的損害に対する賠償は与えられない。』と言っています。」
土井「特に変わった見解とは思えません。」
荒井「即断は避けて下さい。」(笑い)
土井「未だあるのですか?」
荒井「ハドレー対バクセンデール法理の根拠は、『取引経過上発生する不都合な結果の費用は当該結果を最低費用で回避できるにも拘わらず、回避しなかった当事者が負担すべき』(the costs of the untoward consequences of a course of dealings should be borne by the party who was able to avert the consequence at least cost and failed to do so)ことにあると、ポズナー判事は明言してます。」
馬場「『法と経済学』者の面目躍如ですね。」
荒井「その他、ポズナー判事は不法行為法上の予見可能性概念についても論じていますが、ここでは割愛します。次は、リチャード・ダンジグ教授(Prof. Richard Danzig)の意見です。」
馬場「ハドレー・バクセンデール事件判決の出た歴史的背景を分析した有名な論文Fですね。産業革命最中の時代にあって、未だ脆弱な産業を意識的に保護することに、判決の意義があるとの見解です。」
荒井「確かにそれが主要なテーマでしょう。しかしその他にも、判決の背景に様々な要因のあったことをダンジグ教授は指摘しています。つまり、議会と裁判所の軋轢、裁判所間の葛藤、裁判官と陪審の緊張関係、及びコモン・キャリアーに妥当する責任限度とその活動に対する規制などが、この法理を産み出したのです。その他にも、商事法と代理法の未成熟が指摘されています。」
土井「代理法(agency law)の未成熟とは何ですか?」
荒井「代理法に限らないのでしょうが、当時の法の発展そのものが、歴史法学で著名なメイン教授(Sir Henry James Sumner Maine)が判決の6 年後1860年に著した「古き法」(Ancient Law)の中で指摘した『身分から契約へ』(from status to contract)の過程にあったのです。」
千葉「『身分から契約へ』は有名な標語ですね。」
荒井「千葉君が最初に指摘したように、最初は訴因が二つあったのです。第一の主張によれば、被告はクランク・シャフトを二日以内に届けると約束したのです。それは事実でしょう。しかし、被告の従業員に被告を拘束することとなる特別契約を結ぶ権限があるか否か、懸念が生じたため、最初の訴因が取り下げられたのです。」
馬場「代理人の行為が本人に法的効果を及ぼすとの概念が、未だ定着していなかったのですね。」
千葉「そこで第二の訴因、つまり相当の期間内に貨物を安全に配送する、とのコモン・キャリアーの責任を追及したのですね。」
土井「当に契約ではなく身分です。」
荒井「それから、被告がピックフォード会社ではなく、バクセンデールになっていることに、みなさんは既に気付いている筈です。」
土井「これは迂闊だった。」(笑い)
荒井「当時は経営者が会社の行為に人的責任を負う時代でした。それに、会社の有限責任も特許会社(chartered company)の例外はあるものの、未だ一般には認められていなかったのです。」
土井「ダンジグ教授の論文を是非読んでみたいものです。」
荒井「お薦めします。それに土井君の喜びそうな世俗的な話も出てきます。」
土井「それなら尚更。」(笑い)
荒井「今日は時間が大分オーヴァーしました。しかし、実のある話ができたと思います。ご協力有り難うございました。」
馬場・千葉・土井(異口同音に)「有り難うございました。」
 
一同若干疲れ気味のところもあって、茶飲み話もそこそに帰路についた。物足り無げな様子の荒井夫人であったが、おそらくはダンスの話を続けたかったのであろう。
 
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@ Hochster v. De La Tour, 2 Ellis & Bl. 678, 118 Eng.Rep. 922 (Queen's Bench, 1853)
A 安藤誠二「契約の履行期前違反の諸相」海事法研究会誌第135 号(1996 年12月号):目次は次のようになっている。1.初めに、2.ブレイスウェイト事件:承諾無き履行拒絶と相手方当事者による履行提供の要否、3.シモナ号事件:承諾無き履行拒絶と拒絶当事者の権利、4.サンタ・クララ号事件:履行期前拒絶に対する契約義務不履行による承諾、5.護美箱銘板広告事件:履行拒絶を無視する自由に加えられる制約(リード卿準則)、6.デクロ・ウォール事件:非違約者側の選択の自由とリード卿準則、7.プェルト・ブイトゥラーゴ号事件:非違約者に課せられる道理上当然の承諾義務、8.オデンフェルド号事件:拒絶承諾義務の現実性、9.アラスカン・トレーダー号事件:契約の厳密な強制を制約する基準点、10.ディーズ事件とローヴァー事件:履行期前契約違反と約因の全面的不成就、11.ヒュンダイ重工事件:履行期前契約拒絶と保証人の責任、12.グダンスク造船所事件:履行期前拒絶に関わる契約条項とコモン・ローの優劣、13.ナンフリ号事件:無故障船荷証券の発行拒絶と定期傭船契約違反、14.ウダー投資開発社事件:契約解除権条項の不当行使は履行拒絶となるか?15.フェラーリ車事件:錯誤による不相当な代価請求は履行拒絶となるか?16.おわりに。
B Taylor v. Johnston, 539 P.2d 429 (Cal. 1975)
C Rockingham County v. Luten Bridge Co., 35 F.2d 301 (4th Cir. 1929)
D Novelty Advertising Co. v. Farmers' Mut. Tobacco Warehouse Co., 119 S.E. 196
E Hadley v. Baxendale 9 Ex. 341, 156 Eng. Rep. 145 (Court of Exchequer 1854)
F Koufos v. C. Czarnikow Ltd. [1969] 1 A.C. 350
G 平井宜雄「債権総論」第二版(法律学講座双書)88 - 98
H Robinson v. Harman (1848) 1 Exch. 850, 855
I Victoria Laundry (Windsor) Ltd. v. Newman Industries Ltd. [1949] 2 K.B. 528
J Koufos v. C. Czarnikow Ltd. [1969] 1 A.C. 350
K Overseas Tankship (U.K.) Ltd. v. Morts Dock and Engineering Co., Ltd. (The Wagon Mound) [1961] A.C. 388 :被告の管理下にあるワゴン・マウンド号が、シドニー港内で燃料油補給作業中に、誤って大量の油を流出した。漏油は約200ヤード離れた原告の岸壁まで拡散した。岸壁には修繕船が係留中で溶接作業が行われていた。漏油事故発生60時間経過後に、油が引火、火災は急速に広がり、岸壁と複数の係留船に多大の損害を与えた。火災の発生は、風と潮流によって押し流された可燃性堆積物が岸壁の下に溜まっていたこと、堆積物の上に綿製ぼろ布が重なっていたこと、修繕船の上で行われていた溶接作業の火花がぼろ布の上に落下して引火したこと、ぼろ布から漏油に火が移ったこと、などの事実に起因する。岸壁所有者から提起された不法行為訴訟で、ニュー・サウス・ウェールズ州最高裁大法廷は、火災による岸壁の損害は被告が漏油した不注意に起因する直接ではあるが予見不可能な結果(a dirrect but unforeseeable consequence)であると認定しつつも、被告は汚染による何らかの損害を予期していた筈であると判断して、原告に勝訴判決を与えた原審判決を承認した。被告の上告を受けた枢密院司法委員会は、問題の損害は論理上全く予見不可能であった(was not reasonably foreseeable at all)と判示して、ネグリジェンス訴因については原審判決を破棄し、ニューサンス訴因については原審に差し戻した。この答申裁決はネグリジェンス訴訟に於いて、損害の「合理的予期」(reasonable anticipation) を不要とし、損害が不法行為の「直接的結果」( direct consequence)であることのみを基準とした先例(Re An Arbitration between Polemis and Furness, Withy & Co. [1921] 3 K.B. 560)を変更したものである。
L Hughes v. Lord Advocate [1963] A.C. 837; Doughty v. Turner Manufacturing Co., Ltd. [1964] 1 Q.B. 518; Smith v. Leech Brain & Co., Ltd. [1962] 2 Q.B. 405; Koufos v. C. Czarnikow Ltd. [1969] 1 A.C. 350
M H. Parsons (Livestock) Ltd. v. Uttley Ingham & Co., Ltd. [1978] Q.B. 791
N Morrow v. First National Bank of Hot Springs, 550 S.W.2d 429 (Ark. 1977)
O Globe Refining Co. v. Landa Cotton Oil Co. 190 U.S. 540;タンク貨車10 両分の綿実原油を被告からFOB 被告構内条件で購入する契約を結んだ原告が、綿実原油引き取りのため鉄道会社からタンク貨車を雇い、ケンタッキー州ルイヴィルからテキサス州ブラウンフェルズまで送った。ところが、被告が契約に違反して綿実原油を引き渡さなかったため、原告は蒙った損害の賠償を請求した。原審が賠償額として綿実原油の市場価格と契約価格の差額を認定したのに対し、原告は被告の契約破棄通告が遅れたため、貨車賃貸料に無為な支出を余儀なくされたと主張し、これの賠償を追加して求めた。この不確実な費用要素に関する責任を被告が契約時に引き受けていたとの主張が全く為されていない(it nowwhere is alleged that the defendant assumed any liability in respect of this uncertain element of charge)との理由で、原告敗訴となった。
P 5 A. Corbin, Corbin on Contracts §1009, at 77 (1964)
Q British Columbia etc. Saw-Mill Co., Ltd. v. Nettleship (1686) L.R. 3 C.P. 499;被告の共同所有する船舶ケント号が原告の製材機械設備をグラスゴーからヴァンクーヴァーまで海上運送したところ、機械設備の運転に不可欠の部品を入れた一箱が紛失して、目的地に到着しなかった。被告はその箱に機械設備の一部が入っていることは知っていたが、その部品が機械の運転に不可欠であることは知らなかった。原告は代替部品の入手に11 ヶ月を要した。原告は紛失した箱とその内包物の価格については補償されたが、製材機械設備の運転が11 ヶ月遅れた損失の賠償は認められなかった。
R Holmes, The Common Law Lect. VIII
S Richard A. Epstein, Beyond Foreseeability; Consequential Damages in the Law of Contract, 18, J. Legal Stud. 105 (1989)
@ Restatement (Second) of Contracts ァ351, at 135 (1981)
A Spang Indus., Inc., FT. Pitt Bridge Div. v. Aetna C. & S. Co. 512 F.2d 365, 368 (2nd Cir. 1975)
B Kerr S. S. Co. v. Radio Corporation of America, 157 N.E. 140, 142 (N.Y. 1927)
C 「やさしく学ぶアメリカ契約法〈第1 回〉」海事法研究会誌第146 号(1998 年10 月号)
D Posner, Economic Analysis of Law 5th ed. 140-141
E EVRA Corp. v. Swiss Bank Corp. 673 F.2d 951 (7th Cir. 1982);傭船者から船主に送金した前払定期傭船料の電信送金手続きに関し、船主勘定を保有する銀行に懈怠があり、船主勘定への入金が遅れた。船主が、傭船料未払いを理由に、傭船者に極めて有利な傭船契約を解約したため、傭船者が契約関係のない銀行に対して損害金(市況傭船料と契約傭船料の差額他)の賠償を請求した事件である。傭船者には解約を回避する様々な手段が残されていたにも拘わらず、これを怠ったことがポズナー判事に指摘されている。
F Richard Danzig, Hadley v. Baxendale: A Study in the Industrialization of the Law, 4 J. Leg. Stud. 249 (1975)
 
(註)初出:「海事法研究会誌」(第149 号)「やさしく学ぶアメリカ契約法〈第3 回〉」1999.4.1 (社)日本海運集会所
 
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