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| 京都の観光寺院解説(1) |
![]() 東 寺
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延暦13年(794)桓武天皇の平安京遷都の際、国家鎮護のために、羅城門の左右に築かれた東西両寺の一つ。建立の最中、空海(弘法大師)によって真言密教の根本道場とされ、寺号も「教王護国寺」と称されるようになった。現在の五重の塔は徳川家光の寄進によって再建されたもので高さ57mは現存する日本の塔中最高の高さです。建立当時と建物の位置が変わっておらず、史跡に指定されています。
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![]() 東 福 寺
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摂政九条道家が,嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで19年を費やして完成しました。工事半ばの寛元元年(1243)に聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ奈良の東大寺の「東」と興福寺の「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが,元応元年(1319),建武元年(1334),延元元年(1336)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。又、創建当寺には大仏が安置されていたそうですが明治14年火事により焼失、現在一部分のみ残っているようです。
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![]() 泉 涌 寺
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東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。真言宗泉涌寺派の総本山であり皇室の菩提所として関わりが深く「御寺(みてら)」とも呼ばれ、寺の東側の丘陵には皇室の陵墓「月輪陵」(つきのわりょう)がある。天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだのが始まりで、法輪寺と名付けられた後、一時「仙遊寺」と改称されたが、順徳天皇(健保6年・1218)の時代に月輪大師が時の宋の法式を取り入れ、この地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が涌き出た事から寺号を泉涌寺と改められた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている。
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![]() 清 水 寺
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清水寺は現在の地に、征夷大将軍の「坂上田村麻呂」が自ら授かった元、長岡京の紫寝殿といわれる屋敷を妻の安産祈願の為に、本堂として寄贈し延鎮の刻んだ「十一面千手千眼観音像」を安置したのが始まりで、この事から安産祈願のお参りの際に通る坂を産寧坂(さんねいざか)と呼ばれる様になり大同3年に作られた事から、いつしか3年坂と呼ばれ、大同2年に作られた坂を2年坂と呼ぶ様になったと言われている。尚、本堂は何度か焼失し現在の本堂(舞台)は1633年に再建された物です。
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![]() 知 恩 院
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承安5年(1175)法然上人が浄土宗の総本山として開いたのが始まり。秀吉や家康の庇護をうけ、壮大な伽藍が出来上がったが、徳川幕府は、戦の際には城として利用するために多額の援助をしたと言われている。元和5年(1619)に建立された我が国最大の三門や日本三大梵鐘(
除夜の 鐘)が有名です。知恩院の七不思議@鶯張りの廊下A白木の棺B忘れ傘C抜け雀D三方正面の猫E瓜生石F大杓子
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![]() 平 安 神 宮
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明治28年、平安遷都1100年を記念して岡崎周辺一帯で行われた、内国博覧会のパビリオンとして、現在の千本丸太町に有った平安京大内裏の朝堂院をモデルに、8分の5のスケールで再現された物で博覧会終了後に、平安京最初の天皇第50代桓武天皇と平安京最後の天皇第121代孝明天皇を祭神として「京都の総社」と位置づけられたのが始まりです。
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![]() 南 禅 寺
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鎌倉時代の末に亀山天皇の離宮(禅林寺殿)を大明国師に与えられお寺としたのが始まりでこの際に、永観堂(禅林寺)の南に位置する禅寺であると言うことから「南禅寺」と名付けられた。このお寺の三門は歌舞伎の中で、石川五エ門が絶景かな、絶景かな、と「みえ」を切る事でも有名です。他にも、この周辺は春の桜や秋の紅葉でも知られており、日本で一番最初に水力発電が行われ、その水を滋賀県の琵琶湖から京都まで引いた疎水の水路閣も有ります。
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![]() 銀 閣 寺
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室町時代中期、祖父足利義満が造営した金閣寺(北山殿)に習って第8代将軍、足利義政が(東山殿)の造営を始めたが観音堂(後の銀閣)の完成を見ずに死去する事となる。義政の遺言で禅宗寺院(慈照寺)となり現在に至る。金閣の様な豪華さや華やかさは有りませんが、禅宗文化を取り入れた佇まいは渋く、わびさびの世界の雰囲気を漂わせています。
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![]() 曼 殊 院
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天台宗曼殊院は最澄が比叡山に草創した一宇(東尾坊)が明応4年(1495)に門跡寺院となり、平安後期(1108年)から曼殊院と称され京都御所の北に位置していた。現在地に移ったのは江戸初期の明暦2年(1656)で、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の次男、良尚法親王が桂離宮を手本に造営された時。虎の間、大書院、小書院、庫裡は重文。狩野永徳や探幽の襖絵があり、欄間、釘隠し、襖の引手など細部の意匠にも美意識が宿っている。「十雪の間」の違い棚は桂離宮と同じ様式で、同時に作られたものという。本尊は阿弥陀如来。庭園は遠州好みの枯山水で鶴島と亀島がある。
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![]() 三 千 院
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三千院は、比叡山延暦寺を開いた伝教大師が、東塔南谷に草庵を開いたのが始まり。その後寺地は時代の流れの中で、京都市中を幾たびか移転し、その都度呼び名も円融房、梨本房、円徳院、梨本門跡、梶井宮と変え、特に応仁の乱後、梶井宮の政所であった現在の地を一時仮御殿とされたが、明治維新までは御所の東、河原町御車小路梶井町(現・府立病院)に御殿を構えていました。元永元年(1118年)堀川天皇第二皇子最雲法親王が梶井宮に入室され梨本の正統を継がれて以来、皇族出身者が住持する宮門跡となる。妙法院、青蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室門跡のひとつとして歴代の天台座主を輩出してきた。
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![]() 実 相 院
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実相院は元天台宗の寺門派(天台宗には山門派と寺門派がある)の単立寺院で、本尊は鎌倉時代に作られた木造の不動明王で、岩倉門跡とも岩倉御殿とも呼ばれている。寛喜元年(1229年)静基(じょうき)僧正が開山。当初は北区の紫野に有りその後、京都御所の近くに移り、岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れる為であったと言われている。
その後、義周(ぎしゅう)法親王が門跡となられたとき、京都御所から大宮御所「承秋門院(じょうしゅうもんいん)の旧宮殿」の一部が下賜された。それらが、正面の門「四脚門」、玄関横の「御車寄」、中の建物「客殿」です。
狩野派の画家たちの描いた襖絵等がたくさんあり、素晴らしい作品が襖や戸、障壁画として使われています。
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![]() 常 照 寺
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元和2年(1616)、身延山第二十一世日蓮宗の日乾上人が、本阿弥光悦の土地寄進を受けて開創した鷹峰檀林(仏教の学問所)の旧跡で、旧山城六檀林のひとつです。往時は広大な境内に三十余棟の堂宇が並び、多くの学僧が学び、賑わっていました。又、吉野太夫ゆかりの寺としても有名です。光悦の縁故により日乾上人に帰依し、23歳の時に朱塗りの山門を寄進しており、それが「吉野門」です。吉野は容色の美はいうに及ばず、和歌、連歌、俳句、書、茶湯、香道、囲碁などあらゆる諸芸に優れ、その名声は中国にまで喧伝されたそうです。また夫である豪商灰屋紹益との恋物語も有名で歌舞伎の演目にもなっています。また太夫を偲んで植えられたという吉野桜が美しい。
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![]() 源 光 庵
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貞和2年(1346)、臨済宗大本山大徳寺の高僧、徹翁(てつおう)国師により隠居所として開創され、元禄7年(1694)加賀国大乗寺二十七代曹洞宗復古道人の卍山(まんざん)道白禅師が曹洞宗に改宗し再興した。現在の本堂は元禄7年の創建で、加賀の住人静家居士の建立によるもの。
本堂右手には「悟りの窓」という丸窓と「迷いの窓」という四角い窓があり、2つの窓越しに庭園を望むことができる。また本堂廊下の天井は伏見城の遺構と伝わる血天井で、徳川方の鳥居元忠らが自刃した時のものです。本堂裏にある「稚児井」という井戸には630余年前、人々が水飢饉で困っていた時、一人の子供が現われこの井戸のことを教えて人々を救ったという伝説がある。
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![]() 千本釈迦堂
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鎌倉初期に釈迦念仏道場として釈迦如来像、十大弟子像を安置して義空上人によって開創されたお寺で正式な寺名は大報恩寺(だいほうおんじ)と云う。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも奇跡的に災火をまぬがれた京洛最古の建造物として国宝に指定されています。義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、19才で叡山澄憲僧都に師事、拾数年ののちこの千本の地に本堂をはじめ諸伽藍を建立した。霊宝殿には鎌倉時代、藤原時代の仏像をはじめ多数の寺宝を展示している。また12月7・8日には大根焚きが行われ、厄除け大根が参拝者に振る舞われます。この他に、おかめ伝説でも有名なお寺です。
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