第八章 呪詛と産気

 

 義兄上から譲位の話が舞い込んでから何ヶ月も経ったが、譲位の話は消えたわけではなかった。ぴたりと止まったのは最初の一ヶ月ほどだけで、あとは一週間おきに使者に手紙を託して御所にやってくるのであった。そのせいで千景も俺もあまりいい気がしなかった。
 これじゃあまるで持久戦だな。俺は何とか我慢できるが、子を宿す千景にとってはかなり苦痛だろう。
 千景に宿る子もすっかり大きくなって腹が膨れている。まだ出産時期ではないにしろ、この状況中ではストレスでいつ生まれてもおかしくないので、俺は祈祷僧を常に配置し、鳴弓もできるようにさせておいた。
 そんな中でも俺と千景は同じ寝床で寝ている。俺はできるだけ彼女の傍にいたいのだ。今日もそうだ。俺は千景を自分の傍に寄せて寝ていた。しかし、このときばかりは千景の腹の中にいる子供が邪魔だと思ったことはない。俺はゆっくり目を覚ますと、隣では気持ちよさそうに寝息を立てている千景がいた。俺は彼女の頬を触れ、まるで水が流れるような漆黒の髪を優しく撫でた。
「千景。そろそろ起きろ」
「…………………」
 起こす俺に千景はまるで反応をしない。俺は妙な胸騒ぎがして、彼女の体を揺すったが、彼女はいっこうに起きようとせず、ぴくりとも動かなかった。
 まさか…寝ている間に物の怪に憑かれたのか?!
「誰か!!誰かおるか?!」
 俺が大声をあげると、慌てて女房が数人現れた。
「いかがなされましたか?!」
「女御が揺すっても起きない。祈祷する験者を用意せよ。もしかしたら物の怪に憑かれたかもしれない」
『は…はいっ!!』
 と慌てて一礼もせずに女房たちは下がっていった。それを見送ると、俺は彼女をじっと見つめたが、彼女は起きようとしなかった。

 しばらくして俺はちゃんとした服に着替えつつ千景の傍を離れなかった。そこに験者が俺たちがいる夜御殿に来ると、験者は畏まったように言った。
「恐れながら女御様には物の怪が憑いておいでです。それを鎮めるには側室をご用意すべきかと……」
「な?!千景にとり憑く物の怪を鎮めるためだけに側室を作れ?!誰が、側室なんかを作るかよ!!俺は千景しか妻に認めないぞ!!」
「しかしですね」
「しかしもかかしもあるか。おまえは仮にも験者の端くれだろ。祈祷で何とかしろ。どーせ、今おまえの言ったことは大納言や内大臣から金で釣られて言ったことだろ」
「……………」
 と俺の言葉に反論してこない験者。どうやら図星だったらしい。
「あのぉ〜」
 とそこに八重が申し訳なさそうに現れた。
「なんだ?どうした?」
「女御様についてご存知ないと思うのですが、女御様は物の怪に憑かれたのではなく、ただ単に眠っているだけだと思いますよ」
「はっ?!」
 俺は八重の言葉に目が点になった。
 ただ単に寝ているだけ?!
「一体どういうことなんだ?!ちゃんと分かるように説明しろ!!」
「はい。女御様は普段、東宮様より早く起きられるので東宮様はご存知ないと思いますが、女御様は一度お眠りになると、ちょっとやそっとでは起きません。多分、今回のことについても同じことだと思います。恐らく東宮様がなかなかお起きにならないので、二度寝をしてしまっただけだと思います」
 に……二度寝ぇ〜?!そーいえば、千景はいつも俺より早く起きてるけど……。
「う……ん……。うみゃ〜……」
 そう思っていると、寝てる千景が寝言を言ったのである。その声にその場に沈黙が走る。
 どうやら物の怪にはちっとも憑かれていないようだな。
 そのあとしばらくして千景は目を覚まし、普通どおりの生活を送ったのであった。
 まったく人騒がせさせるんだから。

「ごめんね。人騒がせしちゃって」
 と俺が千景の部屋を訪れるなり、千景が手を合わせて謝った。俺は彼女の隣りに座り、彼女を自分の元に引き寄せて、彼女の漆黒の髪を撫でて言った。
「いいよ。おまえがこうして元気でいててくれればそれだけでいいんだ」
「うん」
 と千景はそう言いながら俺に甘えた。それがとても可愛らしいのだ。
「今度何かお詫びにするわね。服がいいかな?」
「いや。おまえの和琴の音を聞きたい。おまえの奏でる音は澄んでいて好きなんだ」
「じゃあ、今奏でようかな」
 千景はそう言い、ぱちんと扇を鳴らし、傍に控えていた女房に和琴を持ってくるように命じた。そして持ってこられた和琴を少し調弦すると、俺のすぐ傍で和琴を奏でてくれたのである。俺はその奏でる千景の姿に見とれていた。
 やはり彼女が奏でる姿は綺麗だな。他の楽器も奏でるが、一番上手なのは和琴なのだ。
 そう思っていると、千景が急に苦しみだし、腹を抱えて倒れた。俺は慌てて、倒れる千景を抱えた。
「千景!!どうした?!」
「お腹が……痛い……」
「腹が?!」
「……痛い。すごく痛い……」
 千景は俺の服をしっかり掴み、脂汗を大量に流しながら言った。
「八重!!」
 俺が叫ぶと、八重が俺たちの傍に寄り、千景の様子を一目見て言った。
「長袴が濡れてる!!破水?!東宮様!!大変です!!皇子様が今にも生まれそうです!!」
「何?!じゃあ今すぐここを出産用の部屋にし、験者を用意するんだ」
「は…はいっ!!」
 と八重は駆け出し、出産のために部屋にするため、たくさんの女房を連れて俺たちがいる部屋を白に統一にし、用意された畳の上に苦しむ千景を乗せた。すると、女房たちから引っ張られ俺は別の部屋にそれも一番離れた部屋に連れて行かれたのである。
「おいっ!!どうして女御の傍にいさせない?!」
「いずれ次に帝に遊ばす方があの部屋にいては玉体に障りますゆえ、しばらくこの部屋でご辛抱くださいまし」
「辛抱なんてできるもんか!!女御の傍にいさせろ!」
「ですからダメですと言ってますでしょう!!もし女御様がこのことをお聞きになったら悲しみますわよ」
 と女房に言われ、俺は何も言い返すことができなかった。そして、仕方がなくその部屋にいることにした。一方あの部屋からは千景の苦しむ声が験者の声に混じってこちらの方にまで聞こえてくる。それの声を聞きながら何時間も俺は未熟だと思った。
 こんなに近くで苦しんでいるのに、俺は何もしてやれない。すごく惨めだ。
「東宮様」
 と恵式部が俺の前に現れた。
「千景の様子は?」
「はい。どうやら物の怪が憑いているようで、なかなか生まれません。まだ時間がかかるかと……」
「物の怪だって?!こうしちゃおれん!!千景の傍に行く!!」
 俺がそう言いながら立ち上がると、恵式部が止めに入った。
「なりませぬ!!玉体に障ります」
「障っても構わん!!妻が苦しんでいるのに、すぐ傍にいる夫が何もしないのほほんと控えてなどいられるか!!」
 俺はそう言いながら、部屋を飛び出て、千景がいる部屋に訪れると、そこには苦しむ千景がいた。俺はすかさず彼女の傍に寄り、彼女を抱きかかえた。
「千景。しっかりしろ!!」
「……………………」
 俺が呼びかけても千景は反応を示さない。それどころか更に苦しみの声をあげる。
 そのとき、傍に控えていた女童が急に暴れだした。
 物の怪があの女童にとり憑いたのか?!
「憎い…。憎いぞえ……。東宮の子を産ませはせぬ。私を退け、東宮になったあいつが憎い」
 と粘りっけのある声を漏らす女童。その言葉に俺はある人物を思い出した。
「もしや、義兄上?!」
 俺がそう叫ぶと、その女童はにたぁっと笑った。
「その通り。おまえが御所に移る前に死んだ貴様の異母兄の皐宮だ」
 ………やはり。俺が東宮御所に移る前に入水し死んだ義兄上。その性格はあまりにも凶悪なため東宮から外された第二皇子だった。それを外されて悔しさのあまり死んだって女房達が言っていた。それが今頃になって怨霊として現れるなんて……。初産のときは現れなかったのに……。
「憎い…何故主上は私ではなくこやつを東宮に選んだのだ?許せぬ……。許せぬぞ!!」
「だからって罪も無い女御を苦しめるとは何事だ!!呪うなら俺だけで十分だろ!!」
「いいや。貴様の血を引く者を生み出してはならぬ。だから呪うのじゃ!!」
 と暴れまくる女童。それと同時に千景もまた俺の中で苦しみもがく。それを見て八重を含めて女房が三人がかりで千景を抑える。
「女御様!!落ち着きください!!物の怪の言うことを聞いてはなりませぬ!!」
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 しかし、千景は苦しむ一方。俺は舌打ちしながら助産婦の沙耶架(さやか)に尋ねた。
「沙耶架!!まだ子供は生まれないのか?!」
「それが……頭は見えているんですけど……。物の怪のせいでなかなか生まれませぬ」
「そこを何とかして早く皇子を出すんだ!!それが助産婦としてのおまえの務めだろう!!」
「は…はいっ!!」
 と俺に言われ、慌てて返事をする沙耶架。俺はそいつに目もくれず、苦しむ千景に対して彼女をしっかり抱きしめながら言った。
「千景。もう頭は見えているんだ。物の怪など目にくれず子供を早く……!!」
「させぬ!!女御から皇子を産ませはせぬ!!」
 と俺達に向かって義兄上の怨霊がついた女童が襲い掛かった。
 マズイ!!この状況では刀を手にすることができない!!
 俺は彼女をしっかり抱きしめ、目をつぶったそのとき部屋中に産声が響き渡った。それと同時に女童の動きが止まる。
「東宮様!!皇子様がお生まれになりましたぞ!!男の皇子様です!!」
 生まれたのか。
 俺は呆然としつつゆっくり目を開くと、そこには悔しそうに女童が床にこぶしを叩きつけた。
「……生まれてしまった。私が恐れていた皇子が生まれてしまった。おのれ……。何故神は私の味方になってはくれない?何故惟守だけが守られるのだ……」
 そう呟くと女童はその場に倒れ伏せた。
 消えたのか?
 とその場に残された者たちはただ呆然となっていたのだった。その空気の間に沙耶架たちが入ってきて、俺に抱えられる千景に対して嬉しそうに言った。
「女御様。お喜びくださいませ。男の皇子様が無事にお生まれになりましたよ」
「……ほんと?」
 と俺に抱えられた千景は息遣いが荒いが、ゆっくり目を開け、生まれたばかりの赤ん坊に目をやる。沙耶架は千景の胸の上にそっと赤ん坊を置くと、千景は涙を流しながらその子供を抱いた。
「よかった……。無事に生まれて……」
 その言葉を聞いて、俺もやっと胸を撫で下ろすことができた。そして不思議なことに赤ん坊は千景の胸に置かれるなり泣き止み、赤ん坊とは思えないほど千景をじっと見ていた。
「よかったな。無事に生まれて」
「うん。でもね、産気づいている間のことちっとも覚えてないの。何かあったの?常葉までここにいるなんて…。血は不浄のものなんだから常葉の体に障るわ」
 と申し訳なさそうに千景は言った。俺は首を横に振り言った。
「おまえの血だったら別に構わないよ」
「でも……」
「もうこれ以上気にすることはないよ。おまえは大仕事を終えたばかりなんだ。これ以上気に病むことをしては子供が不安がるよ」
 と俺は微笑しながら言うと、千景はこくんと頷いた。そして彼女は用意された御帳台に寝床を移ったが、俺は離れ離れになってしまった。俺はそれが納得できず、人目を盗んで、彼女の元に訪れた。幸い、赤ん坊は彼女のところにはいなかった。どうやら、別の部屋に移されたみたいだ。
「常葉?!」
 と部屋に入ってきた俺に千景は小声で驚いた。そして、疲れているはずなのに無理に起き上がったのである。
「どうしてここに?」
「おまえナシでは寝れないから傍にいたいんだ」
「ダメよ。あなたの体に障るわ」
「障ってもいい。それでも俺はおまえの傍にいたい」
 俺はそう言い、彼女をしっかりと抱きしめた。そして彼女の耳元で囁いた。
「もう……これ以上離れたくないんだ」
 その言葉は無意識に言った言葉だった。だから自分でも内心結構驚いていたりする。その内心を知ってか知らないでか、千景は苦笑しながら言った。
「もうっ。しょうがないわね。常葉ってあたしより年上のくせに甘えん坊なんだから」
「それだけおまえに心を開いている証拠だよ」
「ふふふっ」
 と彼女は含み笑いをすると、俺を巻き込みながら後ろに倒れると、俺を優しく抱きしめた。
「実のところを言うと、ホントは習慣なんか無視してあたしもあなたと寝たかったの。だからこうしてきてくれたことは嬉しいのよ」
「……ん。嬉しいよ」
 俺は頬を赤くしながらそう言い、今まで以上に彼女の体に甘えた。そして、彼女にそっと口づけしたのである。彼女はそれをされたとたん、甘い笑顔を俺に見せてくれた。彼女は手を伸ばし、俺の頬をそっと触れてくれたのである。そのあと二人は何もせずただ一緒に寄り添って眠った。後日、女房や験者たちからどやされたことは言うまでもなかろう。