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ジャズは「象」だ! | |||||
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これは申し訳ないけれど、Baker's Holiday時代に一度コメントした盤なんだ。でも、昨日Rollinsのことで吸引力の話をしてから、現代のテナー・マンからその吸引力があるのかっていう疑問を確かめてみたくて、再びこれを聞き返すことにしたってわけ。以前書いたコメントも参考にして貰いながら、新たな聴き方をするというある意味挑戦だという気持ちでコメントしてることを始めにお断りしておこう。でも、吸引力ばかりに目をむけるとBranfordの意図するものを見逃すことになりかねないなとも思う。僕は以前書いたものはみないようにしてサラな気持ちで聴きなおしていくつもりだ。 Giggingのアグレッシブさと縁律の曖昧模糊とした感じがまず耳に止る。 2はRollinsの曲をベースにしているけれど、やはりBranford特有のメカニカルなフレーズが耳に残って所謂Rollinsぽさという点ではとらえられない。あくまで素材としてのRollinsのテーマ部分だけが所謂Rollinsぽさなんだという感じなんだけど、聴き馴染んでくると、おーやっぱりRollinsを彷彿とする感じのところもあるなって思う。Interludeのピアノレスというスタイルの中で彼は旋律の明確なフレーズを吹いている。Jeff Wattsのドラミングが冴えるMovementU〜Vのアグレッシブさは相当なものだ。こういうピアノレスで三者のぶつかり合いを堪能することになるけど、Branford一人の独壇場という感じでは決してないということを改めて感じるし、これこそ現代テナーのあり方、いやピアノトリオでも言えることだなと思う。 Coltraneの至上の愛を素材にした混沌の世界が広がる。これを聴くと意外にBranfordの吹くテナーの吸引力に驚く。いやColtrane本人だってそういう力を持っていたことは言えるけれど、やはり集団芸術だというあの時代のコンセプトをも感じるのだ。こう書いてくると僕の中で何か聴き方の変化が起こってるのを感じてくる。これは実はかなりの難物だという気さえする。単なるRollinsやColtraneの焼き直しではないと同時にColtraneの曲を素材にしたものなどはBranfordというフィルターを通した現代ジャズに引き継がれる60年代ジャズのあのモーダルなものが持つ熱気を感じざるを得ない。この演奏の最終章近くは怒濤とアグレッシブさがどこか凶暴な人間に潜むエネルギーをさえ感じて圧倒される。フリー・インプロバイズな部分も併せ持ってまさに怒りや叫びとなって聴く者の心をその境地に引きずり込んでいく。僕はフリー・ジャズ、モード・ジャズ、アグレッシブというイディオムの今までの曖昧な捉え方を整理する必要性を自分自身のこととして感じるんだ。 そんなもやもやしたものを感じながら、最後の演奏Concordを聴くと実に明快なわかりやすさに覚えて、ますますジャズって寺島氏が言った「象」だなと僕も感じてしまう。 で、些かチグハグな書き方してるところも目に付くけれど、まあ、笑って許して・・・。 |
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