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ジャズ雑感-テナーもの(その2)ジャズにおける老いの要素

 
僕はBennie Wallaceの初期のピアノレストリオ盤が好きだった。いや、今でも好きだ。ピアノが入らないことで、和声的な制約から自由になって実にアグレッシブな躍動感があるのだ。特に衝撃的だったのが、Live at Public Theaterだった。Dannie RichmondとEddie Gomezという強力なメンバーでのライブだった。あの彼特有の破壊的にバリバリ吹くテナーやそれと対等の立場でやり合うバトル的なトリオの演奏は忘れられない。ピアノレスの一連のものはアナログ盤だったから今は殆ど聴く機会がないが、どれも大好きだった。ところが徐々に彼は変化しだしのだ。Chick Creaを入れてみたり、tbのJimmy Kenepperを入れたりしたけれど、基本的なスタイルとしてはまだ大きく変わりはなかったけれど、John Scofieldが入るようになってからスタイルが大きく変わってしまった。一概に駄目とは言えないが、ピアノレスのワン・ホーンでマシンガンのようにバリバリ吹く彼の持ち味に愛着を持ってきた僕は正直言ってがっかりした。更に最近の彼は、大人しくなってしまった感があって、それを枯れた味と思えなくはないけれど、少し悲しかった。ファン意識というのは、とかく我が儘だと自覚する。いつまでも愛着をもったスタイルや勢いでやって欲しいと思ってしまう。しかし、よくよく考えれば、僕自身だって年を取るように彼だって年をとり音楽感が変化することは想像に難くない。何故それを認めようとしないのか、何故それを受け入れようとしないのか、聴く側の姿勢として反省するばかりだ。
 このことはArchie Sheppにだって当てはめることが出来るなと思い知らされたんだ。彼のImpulse時代のものを聴く機会を最近持った。On this Nightという盤だ。何とBennie Wallaceの初期のものと同じ熱気とパワーがそこにあるじゃないか。吃驚した。そっくりだと言えなくもないとさえ思った。ああ、何とBennieのルーツがそこにあるじゃないか。Bennieの破壊的パワーがSheppのテナーにみなぎっている。In a senntimenl moodなんてBennieもやっていて実に良く相似したものなんだ。これは唖然とした。その後の演奏だってBennieがLive at Public Theaterでやった演奏を思い浮かべない方が不自然なほどなんだ。
 そして今のSheppである。聴けば哀しいである。老いというどうしようのない我が身の哀しみを見事に楽器に込めて吹いているように聴ける。そういう聴き方こそ彼の本意に沿ったもののように思える。ジャズ・マンと言っても同じ生身の人間なんだとひしひしと感じさせる。老いという要素が音楽に入り込んで何故悪いと言えようかと最近思い始めた。

Jazz徒然
ジャズは「象」だ!

Branford Marsalis
Footsteps of our Fathers
Marsalis Music

Dec.1-3.2001

Branford Marsalis (sax)
Joey Calderazzo (p)
Eric Revis (b)
Jeff "Tain" Watts (ds)

1.Giggin'
2.The Freedom Suite-Movement I/ Interlude/
  Movement II/ Movement III
3.A Love Supreme-I-Acknowledgement/ II-Resolution
  III-Pursuance/ IV-Psalm

4.Concorde
これは申し訳ないけれど、Baker's Holiday時代に一度コメントした盤なんだ。でも、昨日Rollinsのことで吸引力の話をしてから、現代のテナー・マンからその吸引力があるのかっていう疑問を確かめてみたくて、再びこれを聞き返すことにしたってわけ。以前書いたコメントも参考にして貰いながら、新たな聴き方をするというある意味挑戦だという気持ちでコメントしてることを始めにお断りしておこう。でも、吸引力ばかりに目をむけるとBranfordの意図するものを見逃すことになりかねないなとも思う。僕は以前書いたものはみないようにしてサラな気持ちで聴きなおしていくつもりだ。
Giggingのアグレッシブさと縁律の曖昧模糊とした感じがまず耳に止る。
2はRollinsの曲をベースにしているけれど、やはりBranford特有のメカニカルなフレーズが耳に残って所謂Rollinsぽさという点ではとらえられない。あくまで素材としてのRollinsのテーマ部分だけが所謂Rollinsぽさなんだという感じなんだけど、聴き馴染んでくると、おーやっぱりRollinsを彷彿とする感じのところもあるなって思う。Interludeのピアノレスというスタイルの中で彼は旋律の明確なフレーズを吹いている。Jeff Wattsのドラミングが冴えるMovementU〜Vのアグレッシブさは相当なものだ。こういうピアノレスで三者のぶつかり合いを堪能することになるけど、Branford一人の独壇場という感じでは決してないということを改めて感じるし、これこそ現代テナーのあり方、いやピアノトリオでも言えることだなと思う。
Coltraneの至上の愛を素材にした混沌の世界が広がる。これを聴くと意外にBranfordの吹くテナーの吸引力に驚く。いやColtrane本人だってそういう力を持っていたことは言えるけれど、やはり集団芸術だというあの時代のコンセプトをも感じるのだ。こう書いてくると僕の中で何か聴き方の変化が起こってるのを感じてくる。これは実はかなりの難物だという気さえする。単なるRollinsやColtraneの焼き直しではないと同時にColtraneの曲を素材にしたものなどはBranfordというフィルターを通した現代ジャズに引き継がれる60年代ジャズのあのモーダルなものが持つ熱気を感じざるを得ない。この演奏の最終章近くは怒濤とアグレッシブさがどこか凶暴な人間に潜むエネルギーをさえ感じて圧倒される。フリー・インプロバイズな部分も併せ持ってまさに怒りや叫びとなって聴く者の心をその境地に引きずり込んでいく。僕はフリー・ジャズ、モード・ジャズ、アグレッシブというイディオムの今までの曖昧な捉え方を整理する必要性を自分自身のこととして感じるんだ。
 そんなもやもやしたものを感じながら、最後の演奏Concordを聴くと実に明快なわかりやすさに覚えて、ますますジャズって寺島氏が言った「象」だなと僕も感じてしまう。
で、些かチグハグな書き方してるところも目に付くけれど、まあ、笑って許して・・・。